第10話 消えた風呂当番
後宮での環境に適応するため、と誌苑の配慮で1ヶ月間は普通の女官の仕事に励んだ。
女官の仕事は日替わりで変わり、洗濯や食事、清掃、湯殿、それに行事があればそちらにも回される。札に名前を書かれれば、そこがその日の持ち場だ。
実力や地位は関係なく、あくまで今そこに必要な数が配置される。
彼が私に求めているのは、任務をこなすことだけではない。現場で何が起きているのか、誰がどう動いているか、どんな違和感があるか。それを見て、必要な情報を伝えることだ。
「君にとっての女官としての当番は、ただの仕事ではないからね。この時間をどう生かすかは君にかかってるから」
確かに、働いてみるとわかる。
洗濯係なら、汚れの付き方や衣のほつれ。
食事係なら、食べ残しの偏りや急な食材の変更。
清掃なら、部屋に置かれた小物の移動や、掃き溜めの中身。
誰も気づいていない記録の内容が転がっている。
今日の仕事は、湯殿だった。
掃除をするために、朝一番に湯殿へと向かっていると、徐々に人気が増えてくる。
「またあの子、いなくなったんだってさ……」
「どうせまたサボりでしょ、前にも何度かあったじゃない」
そんな声が、湯殿に向かう道のあちこちから漏れ聞こえた。
聞けば、女官がひとり行方不明になったという。
声をかけて探しても返事がなく、浴場の隅には、足元を滑らせたような水跡と、脱ぎ捨てられた衣類だけが残されていたそうだ。
けれど、騒ぎ立てる者は誰もいない。
彼女は、たまにこういうことがある人だったらしい。以前も数日姿を消したことがあるそうで、今回はまたさぼりだと判断されたようだった。
私はその朝、いつもよりも強く立ちのぼる香りに目を細めていた。
温泉の湯気に混ざり、かすかに薬草のような匂いがする。
「帆葉ちゃん、おはよう。今日も、さっさと終わらせてしまおうね」
頭上から、暖かく包み込むような優しい声が聞こえた。
振り返ると、掃除道具をもった女官が立っていた。
「日詠さん、おはようございます。この匂いは……なにか湯の中に入れたんですか?」
「やっぱり?なんか、ちょっと変なにおいするよね。」
日詠さんは、ふうと軽く肩をすくめた。
「昨日使った人が言ってたの。いつもより肌がつるつるになったって。それで今日も入る人多いと思うよ〜。……ほんと、やめてほしいよね」
この人は、仕事はちゃんとやるけど、面倒なことは大嫌いな人だ。
私はもう一度、湯殿の奥へと視線を向けた。
女官が消えたとされる場所に、足を踏み入れる。
床に残った消えかかって残る跡は不規則で、足跡の上から同じようにたどると、ふらふらとまっすぐに歩けない。
ふと、そばの床に目をやると、衣服を入れる棚の床に、粉のようなものを広がり拭き取られた痕跡があることに気付く。
粉を集めるように指先でなぞり、手背に付けると、さらさらとした粒が広がる。
そっと鼻先に近づけると、甘く優しい香りがする。
私は知らないが、知識のある者なら名前を挙げられるかもしれない。
「……温泉の湯とは違う香りだ」
他の浴槽と違って、妃も使うことが多いここは、甘く高貴な香りの入浴剤が使われる。それ以外はあまり好まれない。
これは、薬草のような、どこかで嗅いだことのある、鼻の奥にひっかかる匂い。
ニョっと背後からのぞき込まれる。
「なーに考えてるのかな?さっ、早く終わらせて休憩入ろうね!」
日詠さんはすべてにおいて少し独特で、人によっては嫌に捉える者もいるだろう。
私は楽しくて好きだが。
「そうですね。日詠さんが頑張ってくれたら、いつもより早く終わるかもしれないです」
「……うん、がんばる」
水滴が残るということは、まだそんなに時間は経ってない。
ふらふらと目的もなく歩いているように見えた足跡の持ち主は、何を目指していたのか。
……まあ、この件は私には関係ないことなのだろう。
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