シキ
虚言挫折
シキ
空虚を感じながら、私は凄まじい速度で流れてゆく特急列車の窓の外を睨んでいた。外では色が汚く混ざり合って形を成さないまま次の景色に置き換わる。私からすればこの乗り物はあまりにも遅すぎた。これ以上の手段がないからといって、ならば速いのだと言い切るのは癪だった。私が望む速度でないからには遅いのだ。これで全部が終わるわけではないが、それでも一部分は終わる。過去は現在の模倣などではなく、正しく過去になる。車両は大きな橋を渡り、ついに人工島地区を離れ始めた。アナウンスが鳴る。
『本日は特急列車にご乗車いただき、誠にありがとうございます。ここで乗客の皆様に大型連絡橋のご案内です』
そのアナウンスが始まってようやく私は安心感を思い出した。
私は一人で列車に乗っていた。無理を言って母と別の方法で引っ越し先に移動することにした。母の心配に気づいてはいても、私の心はそれに堪えられるほど頑丈ではない。
私はあまり両親のことが好きではなかった。いい親だとは思える。しかし、だからと言って親特有の所有欲にまで目を瞑ることができるかと言われると、それは不可能だった。私が真っ当な人間ではないからかもしれなかったが、とにかく納得できなかった。親は私のためを思ってあれこれ言っているのかもしれないが、私は私のことをそこまで重要だとは考えていないというすれ違いが、一方的な嫌悪感に近いものを生み出していた。私のことでも私のことでなくても、二人は喧嘩していた。片方が家を出てゆくこともあった。そんな時、最初こそ私は泣いたりしたものの、同じことが繰り返されるたびにうんざりしてしまい、家の中で息をひそめて嵐が過ぎるのを待つようになった。それでも私の停滞を破壊したのは両親だった。人工島の団地が見えた。ノゾミと話した時のことを思い出しそうになって、振り払った。
ずっと同じ地区に住んでいたのに、ノゾミと話すようになったのは高校一年生の春だった。それまでに言葉を交わしたのは、小学生の頃の一度だけだった。既にパソコンとプログラムとコンパイルエラーだけが私の友になりつつあったせいか、昼休みになると一人だけで校庭に出ずに部屋でノートにコードを書き連ねていた。その時はまだ、変なことが駄目なことだと思いもしなかった。ノゾミは自分の周りに大勢いる友達と一緒に外に出ようとしている最中、私を視界の端で捉えて歩み寄ってきた。ノゾミは背が高く、体を動かすのが好きで、女の子よりも男の子とよく一緒にいた。誰かと付き合ってるとか幼稚に煽られても笑って突っぱねることができるような、しなやかな強さを持っている人だった。だからこそ、嫌いだった。
「外、来なよ!」
私はびっくりして勢いよくノートを閉じた。体は俊敏なのに表情はそのままだった。
「あたしは、いい」
自分の気持ちのほとんどを押し込めたまま、辛うじてその断片を吐き出す。ノゾミは人気者特有の狡賢い目ざとさを発揮してにこっと笑って尋ねる。
「それ、何持ってるの?」
「知らない」
人との会話は劇薬だった。自分でもなぜそんな返事をしたのか分からないが、失敗したことは明確に分かった。
「ダメなんだよ、サナちゃん。人に言えないようなこと書くなんて」
さらにノゾミが何かを言おうとした後、彼女は男の子に呼ばれて駆け出した。私は思い出したくもない彼女の表情を何回も思い返しながら、背中を伝う冷や汗が作る線が心臓の位置を過ぎるのを感じ取った。ノゾミは校庭で、背の高い男の子たちとドッジボールを始めていた。響くけたたましい笑い声が耳鳴りのように私の頭蓋を貫いた。自分の情けなさが嫌になったせいか、衝撃が大きすぎたせいかは分からないが、彼女はそれからもたびたび私の頭を占有した。
彼女と再び会話したのは高校に入学してすぐだった。ただ単に同じクラスになったというそれだけの理由で、自己紹介が終わってすぐにノゾミは再び話しかけてきた。
「久しぶりだね!サナちゃん!」
人間の笑顔が輝くというのはこういうことなんだと、その時初めて実感した。私とノゾミが別々の中学だったこともあって、彼女にとっては感動の再会だったらしい。私は彼女のことを嫌な人だと思っていたし、そのためか会話する気も起きなかったので、笑顔のようなものを貼り付けて適当にあしらっていた。好きなものの話になろうとしていたところでチャイムが鳴った。
「じゃあまた話そうね!サナちゃん!」
ノゾミはくるりと私に背を向けて席に戻っていった。制服のスカートと長い栗色の髪が回転して、窓からの強い光をきらきらと跳ね返した。後ろ姿があまりにも整っていたので、見とれてしまった。それが悔しかったが、どうせもう話すことはないだろうと思ったので忘れることにした。前で先生が話すことは全部配られたプリントに印刷されていたので聞き流しながら、目的もなく循環するだけのコードを思い浮かべていた。外から列車の走る音が微かに聞こえて、過ぎた。
大した内容のないホームルームを終えて、誰とも話さないように席を立って教室を出る。短い初日は終わり、既に友達ができている人が楽しそうに言葉を交わしていた。そのまま帰ることも考えたが、昨日は私の持ち物について両親が散々に言い争ったので帰りたくなかった。海沿いにある大型ショッピングモールを適当にうろついて、五時くらいになったら帰ることに決めた。
「ノゾミちゃんはさぁ、この後に何か予定とかあるの?」
誰かが尋ねる声が聞こえて、重い足が止まる。振り返ることもできず、体が硬直する。
「特にないよ。何か予定があるの?」
「ショッピングモールに皆で行きたいんだけど、来る?」
「うん!もちろん!」
私は重いままの足を無理やり動かし始めた。目的地は家だ。どこへ行っても別にいいことが起きそうにないのなら、嫌なことの内容が予測できる方がいい。
「サナちゃんも来る?」
「っえ」
突然呼び止められて、声にならない声が口をついて飛び出してきた。頭の中で組み立て始めていたコードが一瞬で吹き飛ぶ。高校生のノゾミは、あまりにも綺麗になりすぎていた。小学生の時のような無邪気な邪悪さは瞳から消え失せ、肌は雪原のように輝いている。いつの間にか背丈は私と並ぶくらいになっていたせいで、真っ直ぐに見つめられてしまった。
「あの、今日はうちの親が入学祝いをやるって聞かないから、行けそうにない」
嘘だと見抜かれたかどうかは分からない。それでもノゾミは残念そうに微笑んだ。
「そっか、じゃあ仕方ないね」
またね、と言われて手を振り返す。それから、慎重な速度で曲がり角まで歩き、階段を駆け下りた。空っぽの頭に心臓の音が響く。ほとんど立ち止まらずに下駄箱から靴を取り出し、よろめきながら履いて踵を踏んだまま走り始めた。罪悪感と恥辱が湧き上がって、顔が火照るのを感じた。帰りの電車から降りて潮風が頬を冷ますまで、ずっと熱いままだった。
玄関のドアを開けて、両親の間に漂う険悪な無言を横目に自分の部屋に閉じこもると、少しだけ冷静な気持ちになった。彼女にはもう私以外に関わるべき人間がいるのだ。きっともう私に話しかけて来たりしないだろう。そう念じ続けて何回も深呼吸をすると、ようやく冷静さが戻ってきた。ノートパソコンを開いて、昨日の続きの、全く何にもならないようなファイルの群れを丁寧に眺め始めた。
私の拙い予測は簡単に裏切られた。翌日、ノゾミは私が誰とも話していない時に頻繁に話しかけてきた。私は相変わらず笑顔を貼り付けたまま、自分の中でもたいして意味のない情報を薄く引き伸ばして伝えることに神経を尖らせ、話し終わるとぐったりと机に突っ伏すのが休み時間の慣例になった。彼女に友達がいなかったらどれだけ話しかけてきたかと思うとぞっとする。ノゾミがテニス部に入り、私は部活に入らなかったので、帰り道が唯一の救いだった。帰れば両親は仕事に出ていて、昨日の険悪な空気がリビングに滞留している。私の部屋だってかび臭いままだ。母も父も、私のことを大事にしてくれているのに、お互いを重んじるとなるとまるで駄目だった。パソコンの電源を点ける。いつもならすぐに没頭できるはずが、ノゾミの顔がすぐに浮かび上がって集中できない。唸り声とため息が同時に漏れる。この調子ではしばらく課題も手につかないだろう。
「最悪だ」
布団も敷かずに床に寝転がる。冷たくて硬い床ですら、私を冷静にはさせてくれなかった。
入学して一週間が経過しても、私にそれらしい友達は出来なかった。私が関わりを求めずに慎重に他人と接したことと、相手が望むような返事を私ができないことが重なった結果だった。ノゾミだけが違った。彼女は孤立するどころか誰とでも朗らかに接し、クラス内から悪く言われるようなことはなかった。だからこそより一層奇妙だった。他の人と話す時間が減っている様子はないのに、私と話している。会話はいつも他愛なくてくだらなかったが、彼女はそれでも良さそうだった。私は既に話せるようなことがなくなっていたので、そろそろ煩わしさを覚え始めた。無目的な会話は五十時間の正座に等しい苦行だった。
その日の昼休みに、ノゾミは私に数学を教わりに来た。みんなは初めての学食に期待を膨らませて食堂に向かってしまい、教室には私とノゾミしかいなかった。彼女の物分かりが良かったので時間が余ってしまい、またいつもと同じような中身のない話題に移り始めた。相槌を打つことに徹しようと決めた。
「サナちゃんはさ、私のこと嫌い?」
「え」
そんな不意打ちは卑怯だと思った。彼女の目に卑しさの欠片すらないのが、余計にそう思わせた。
「なんで、そう思うの」
「私の話が面白くないんじゃないかなって」
答えになってない、という言葉を飲み込んだ。硬直する私を前に、彼女は言葉を続けた。
「サナちゃんが嫌だったら、話しかけないほうがいいのかなって」
二人きりの空間で、第三者からの同情を買うことなどできない。ノゾミは本当にただ私だけを見ていた。ここで話しかけないでくれと言うべきだ。
「嫌じゃないよ。感情を表現するのが下手なだけ」
断ることなどできない。自分の不器用さが嫌になって目を逸らす。肋骨の裏側で冷たい空気が震えている。
「迷惑じゃない?」
断らなければ。こんな関係はすぐにでも終わらせてしまわなければ。これが最後のチャンスだ。
「迷惑じゃないよ」
ノゾミは安堵を微笑みに溶かした。私はもう希望がないことを悟った。自分の弱さが招いた結果を受け入れるしかない。私がやってきたことなんて、彼女の前では何の役にも立たなかった。五分前のチャイムが鳴って、大勢のクラスメイトが教室に入ってきた。ノゾミはそちらに駆け出して、やっぱり笑顔で話し始めた。安堵して机に伏せると、自分の心臓がどくどく唸っているのが聞こえた。全身が汗ばんでいたらしく、一気に肌寒さが全身を覆う。頭の中はやたらと冷静に、今何が起きたのかを反芻していた。非合理的な部分と合理的な部分が全く繋がらないまま、社会科の先生が教室に入ってきた。
その一日が終わり、また日々が過ぎて、五月に差し掛かろうとしていた。人工島沿いの環境は大きく変化することもなく、停滞をゆっくりと潮風が押し動かそうとしていた。私はもうノゾミ以外に話しかけられることはなくなっており、ノゾミもまた私以外の人と話すことが増えていた。孤独が深くなると人の声は疎ましいものになりがちで、屋上の鍵が壊れていることに気付いてからは、昼休みの逃げ場は屋上になっていた。階段をのぼり、誰一人近づこうともしない屋上へのドアの隙間に備品の雑巾を挟む。外では温い風が荒っぽく吹いていた。食欲が湧かず、自分で作ってきたおにぎりがラップに包まれているのを眺めている。ノゾミが何を食べているのか、ふと気になった。喋るだけ喋って特に何も食べていないような気もするし、自分だけ食べて周りの話を聞いているような気もする。
「ダメだ」
一人で呟いた。最近、なぜか頻繁にノゾミのことを考えるようになってしまった。正確には蓄積されていくノゾミのアーカイブが脳内で漏出し続けている。酸っぱくて疎ましい気持ちが胸の中でぐるぐる渦巻いていた。
「あーあ、なんでノゾミと関わったんだろ」
「え」
強い風が一陣吹き抜けた。目の前にノゾミが立っていた。手に弁当箱を持って、座っている私を呆然と見ていた。
「わ、私」
「サナちゃん?」
動揺を隠せずに、ノゾミを見上げた。どういうわけか彼女はここにいる。確かにここにいる。
「私……」
言葉が乾いて表情が硬直する。風が私達の間でとめどなく流れ続けている。
「ごめんなさい」
ノゾミは頭を下げた。長い茶髪が風に煽られて彼女の表情を隠す。何を言われたのか一瞬分からなくて息が止まる。
「話しかけて、我慢させてごめんなさい」
彼女は顔を上げて、しばらく私を見ていた。それからそのまま立ち去ろうとした。
「まだ何も言ってないよ」
ノゾミは振り向いた。彼女の目は立ち上がった私を正確に捉えていた。私は始めて彼女に向き合っていた。
「嫌いだよ。やっぱりあなたのことは嫌い。綺麗なのも髪が長いのも誰とでも仲がいいのも嫌い。昼食がなんなのか分からないところも、呑み込みがいいのも、最初に会った時より優しくなってるところも嫌い」
言葉が溢れ出す。自分の思考とは全く関係のない言葉が、次々と。
「私とは違うでしょ。何もかも。だから」
突然言葉が途切れる。感情に名前がないことに気付いてしまった。私にこれ以上の要求はなかった。ノゾミは口をぽかんと開けて、言葉を失った私を見ていた。彼女は徐々に表情が崩れて、笑いながら涙を流し始めた。
「変だね、変だよね、私。嬉しくて、悲しくて」
私の頭の中にいた、ただ綺麗なだけの彼女はそこにはいなかった。
「初めてだよ。君が私に本当のことを教えてくれたのって」
ノゾミは私のことをそれとなく見抜いていたが、私の頭はぼうっとしてそれどころではなかった。
「そうだっけ」
「そうだよ、覚えてないの?」
彼女が涙をぬぐいながら笑い、私は呆れて笑った。さっきよりも小さい声なのに、風にかき消されもせずはっきりと聞こえる。
「そんなの覚えてないよ。私の言ったことなんて、私にとってそんなに大事じゃないよ」
「私にとっては大事だよ。こんな顔したの、君の前が初めてだよ」
その言葉で初めて気が付いた。私と彼女は、他人に対しての振る舞いが同じだった。
「本当はね、私、自分のことがあんまり好きじゃないんだ。でも」
五分前のチャイムが鳴った。風はより強く唸った。
「君になら話せる。部活の人間関係に自信がないことも、骨折したお父さんが心配なことも、私に私の将来が見えなくて不安なことも。全部、君だけが目の前にいるなら、きっと話せる。だから」
ノゾミは微笑んだ。彼女の周りの光景なんて、風の音なんて、雲の流れなんて、どうでもいい。
「サナも、私に話して。本当のこと」
不思議と、不愉快な言葉なんてここにはないんじゃないかとさえ思った。どんなに苦しい、辛いことだって、ノゾミになら。
「話すよ」
不器用な言葉を喉から無理に押し出した。ありがとうと言って、ノゾミは私より先に屋上から出て行った。結局おにぎりは食べられなかった。少しだけ湧き上がってきた明日が楽しみだという気持ちをぐっと抑え込んで、私も屋上の出口に歩きだした。
翌日、ノゾミは学校に姿を見せなかった。最初は体調不良かとも思ったが、昼過ぎになってもクラスの誰かが本人からの連絡を受け取ったというようなこともない。予兆があるとすれば昨日の屋上での出来事だったが、私と話したいと聞くような人がわざわざ休むだろうか。いや、あの質問も彼女の気遣いに過ぎず、本当は嫌だったのではないか。一日中座り続けて、授業のことも考えられずにひたすらノゾミが何を考えているのかを考えていた。
そして、帰りのホームルームで、クラス中に突然ノゾミの死が告げられた。
交通事故だった。その報告は遠くの方から、田舎町の日暮れの音楽のように漠然と響いていた。長時間座ったせいで骨と皮で作られた体が痛み始めていた。担任の先生の口が動くのをただ見ていた。その後の起立も、気をつけも、礼も、別の誰かに引っ張られているみたいだった。ざわめきが満ちる中、私は一人で誰とも言葉を交わさずに教室を出た。帰り道のことも、部屋のドアを開けたことも、帰ってきた両親の口論も、何も頭の中に入っては来なかった。嘘なんじゃないかという気持ちがまだ燻りつづけていた。早く布団の中に籠ったが、当然眠れるわけもない。陽が沈み、両親の声も聞こえなくなり、電車の音も遠くで聞こえなくなったころ、私は何をするでもなく起き上がった。制服を着たまま、音を立てないように部屋の外に出て深呼吸する。まだ人通りがあったが、大抵は元気のない大人だった。喉が渇いて、近くのコンビニまで歩くことにした。水の音に引っ張られる。白い泡が水面で並んだ潮臭い川が、海に向かって緑色に流れてゆく。なんとなく河川敷に降りると、遠くで赤いパトカーのランプが灯っているのが見えた。ぼうっとしていた意識に冷や水を浴びせられた。あの場所はきっと、ノゾミが死んだ場所だ。彼女が何となく話していた通学路の様子を思い返す。そうじゃないと思いたかったのに、どんどん確信に変わってゆく。止まっていた足が震えながら体をゆっくりと前に運ぶ。向かい風に煽られてよろめいた。何かが足に当たった。
「……これって、指?」
中指か人差し指か、どの指かは分からない。細くて白い、女性の指だ。ある可能性が突然思考を貫いた。私はその指を拾い上げて家路を急ぐ。喉の渇きなんてどうでも良かった。肌の上を汗が滑り、血液が波打つ。気付けば私は走りだしていた。家のドアを開けて自分の部屋に入り、すぐにネットニュースを検索する。
『廃材を積んだトラックが女子高生に追突、運転手は重症、女子高生は死亡』
やっぱりこの指はノゾミの指だ。リビングで指をラップに包み、冷凍庫に入れる。両親はきっとしばらく冷凍庫を開けないだろう。私の頭の中では無数のコードが絡み合ってある一つの結果を生み出そうとしていた。ノゾミは死んだ。でも私はノゾミの言葉を聞きたい。ノゾミが私に何を言いたかったのか知りたい。ノゾミに会いたい。ノートパソコンを開く。作りかけのプログラムを違法建築のように組み上げる。ノゾミの言動を文字に起こしながら、手製のAIに要求を投げつける。彼女の言葉はすぐにそれらしく出力された。この分ならすぐに精度を上げられるだろう。ノゾミのSNSから動画と画像をダウンロードして動きを分析して、彼女の像を作り上げる。画面の中央にはノゾミの姿があり、笑顔でこちらに手を振っていた。彼女の顔をカーテンの隙間から照らす日光のせいで、私は寝ていないことに気付いた。朝食をとる前に、一連のプロジェクトに名前を付けた。
『シキ』
程よい眠気が、両親の険悪さに対して鈍感なままで居させてくれた。私はトーストを齧りながら両親の背中を見送った。言葉を交わさないことも増えてきた、とぼんやり思った。良くも悪くもなく、私にとっては普通のことだった。ノゾミの死から一日が過ぎたが、実感は沸かない。彼女はいる。正確には、これから蘇らせる。クラスの中でも私だけが普段と変わらない様子だった。誰も私のことなど見ていなかったが、もし見ていたら、人の心のない、血の通っていない人間に見えただろう。授業のことなんかどうでも良くなって、私はただ座っているだけだった。外を走る電車の音も、先生の声も、休み時間のチャイムも、聞こえているようで聞こえていなかった。聞こえてくるのは、周りが話すノゾミの生前の姿だったが、それもあいまいで信憑性に欠ける話ばかりだった。私と屋上で会話していた時ほど、本心をさらけ出していた相手はいなかった。分かったのは彼女がどんなふうに自分を消して相手を慮り、安っぽい悲しみを都合よく吐き出すような相手として利用されているか、ということくらいだった。授業が終わり、帰ってパソコンを開く。彼女の指から肉片を取り出し、そこからさらにDNAを取り出して読み取り、形質を比較する。予測される形質をさらにAIに食べさせて、彼女を修正する。神は細部に宿るというのなら、彼女の肉片が神とは言わずとも魂を細部に宿すはずだ。あとは細かい調整をするだけだが、それこそが何よりも難しい。何かを修正したと思ったら、それが別のバグを起こす。ひとまず、シキを動かしてみる。シキは入力した文字列の内容に応じてリアクションする。彼女の魂をきっと宿している。
『ノゾミ、サナだよ』
入力されたのは、あまりにもぎこちない一文だった。
「サナちゃん?おはよう」
嫌な予感がする。それを掻き消すみたいに次の文章を入力した。
『久しぶりだね』
「うん、久しぶりだね」
駄目だ。私に対してそんな反応を示すわけがない。ノゾミは私に気を遣ったりはしない。私の前にいたノゾミは、貼り付けたような嘘くさい表情で、自分の感情を誤魔化したりしない。すぐさま修正に入るが、目的が目的なだけあって難易度は高いものになりそうだ。何回かの修正を終えても、根本的な部分は解決しなかった。SNSから取り込んだ彼女の画像を当てにしないほうがよさそうだ、ということくらいしか分からない。母親が玄関のドアを開ける音がして、自分の空腹に気がついた。またどうでもいい喧嘩が始まると思うといい気分にはならなかったが、部屋を出て母を出迎えようと立ち上がった。
数日が経過しても事態は好転しなかった。ノゾミの性格を一言で表現し難かったことが最も大きい要因だった。大体の人間に対して同じことが言えるが、ノゾミは群を抜いて難しかった。明るい性格だとは思わないし、優しいとも思えない。他人に厳しくもなければ、自分に甘くもない。嘘つきだったわけではないが、本心を打ち明ける相手はきっとそう多くない。人のことは決して悪く言わないが、だからと言って黙っているわけではない。ノゾミがいない学校に居場所を感じることはなく、登下校はただ煩わしいだけだった。家には安寧などなく、部屋に戻ってもできそこなったシキがどうなるわけでもなく待ち構えているだけだ。この地区の外側に出たところで、ノゾミはいない。つまり、この世に私の居場所はない。ノゾミと一緒だ、と独りで呟く。ふと、私は自分のためにノゾミを利用しているんじゃないかという考えが心を刺した。私が私をこの世に繋ぎ止めたくて、ノゾミの存在を鎖にしているのではないか。シキでノゾミを再現することがノゾミのためになるか、考えずに突っ走ってきた。一番最初に考えなきゃいけなかったことのはずなのに。めぐる後悔が頭の中を埋めて、視線を爪先に向ける。たむろする帰宅部を遠巻きに眺めながら校門を出る。トラックが走り去る音が聞こえる。轢かれる直前、どんな気持ちだったんだろう?怖かっただろうか?寂しかっただろうか?満足していただろうか?後悔はなかったのだろうか?……私のことを、どう思っていたんだろう?ぴたっと足が止まった。やっぱり、知りたい。利己的かどうかは問題じゃない。好奇心とかじゃない。必要性なんかどうでもいい。ノゾミを、もっと知りたい。知って、この世に遺してつなぎ止めたい。ゆっくりと顔を上げた。青信号が点滅していた。
決意したはいいものの、現実の進み具合は余りにも遅々としていた。夏まであっという間だった。なかなかに偏った成績表を見て、ノゾミに数学を教えた時のことを思い出す。彼女はまだ再現できない。細かい容姿の違いに関しては順調に修正されているが、リアクションは相変わらずひどいものだった。ありきたりで特徴が無くて、無味乾燥だ。今の段階ではノゾミの皮を被ったプログラムの吐瀉物でしかない。夏休みに何をするのかは決まっていた。汗ばむ半袖が風になびくのを感じ取りながらドアを開けると、食卓ではこれまでにないほどの険悪さで両親が言い争っていた。大声を張り上げるというよりも、低い声でお互いを呪うように罵り合っていた。通り過ぎようとすると、二人の間の席に座るように言われた。内心面倒だなと思いながら座ると、母が早速話しかけてきた。
「サナ、あなたの意見を聞かせてほしいの」
きっと大したことじゃないと自分に言い聞かせる。母の表情を前にしても、何を考えているのか察しにくかった。
「あのね、あなたのことなの。私たちはあなたに向き合ってこなかったんじゃないかって」
想像よりもチープな言葉に、肩の力が抜ける。まるで私のことが私にとって大事とでも言うような口ぶりだ。抽象的な言葉と理性の伴わない感情で、母はいつも自分自身に振り回されている。私を見ようとしても、母自身にはその視力はない。
「いいか、それぞれの言うことをしっかり聞いてくれ」
父が私のほうを見てそう言った。父は正しい人ではなくて、正しく見える人だ。他人が本当に何を考えているのかということを決して理解することのできない人だ。言うことは大体が正論であり、その正しさがいかに重く、人を傷つけるかを理解していない。この人たちのどちらかを選ばなくてはいけないらしい。両親は私を愛してこそいたが、全く理解しておらず、私の話を聞くつもりなどそもそもなさそうだった。
「父さんと母さんが別々に暮らす場合、サナはどちらについていくつもりか聞かせてくれ」
別に意外でもなんでもなかった。こういう時、普通はどうするんだろう?驚くべきか、悲しむべきか分からない。
「別々に暮らすんだね」
私の声に感情がこもっていないことに、運よく二人とも気づいていなかったらしい。母は視線を逸らした。
「そうと決まったわけじゃないけど。そうなるかもしれないって話」
自分でもこれから起こることを受け入れたくない様子だった。
「家計を支えているのは父さんだ。きっとサナを育て上げて、サナの望む将来に導くことができるはずだ」
母の声とは対照的だった。すでにどうにでもなる覚悟ができているつもりらしかったが、それは自分が正しいという前提が覆らないと思っているからだろう。
「私についてきたほうが、きっと幸せになれるから。ついてきてよ」
情けない大人達だと思った。自分の正しさしか主張できない父も、自分の正当性を主張できない母も、違うようで同じだ。
「考えておくね」
私がそう言って立ち上がろうとすると、両親は面食らったようにただ私を見ていた。
「結論を出せ、サナ。できるはずだ」
「選んでよ、サナ」
二人はほぼ同時に私に言い放った。
「考えておくって言ったでしょ?」
「駄目だ。今答えてくれ」
「いつからそんな、逆らうようになったの」
二人の表情を交互に見やる。父は自分への不安を怒りで覆い隠し、母は不安と失望をそのまま表情に浮かべていた。
「私がこんな風になったのは、どちらか片方のせいじゃなくて、二人共のせいだよ」
食卓のほうを振り返ることなく、自分の部屋に入って鍵をかける。電源をつけても、そこには失敗の集積しかなかった。映像はどこかの段階で処理に失敗したらしく、ノゾミの状態は最悪だった。ノゾミというより、周囲の環境の読み込みがまずうまくいっていない。彼女の目頭に陽炎が泳ぎ、その息は白い。私がいくつものファイルを削除すると、夏の完璧な半袖が目の前で瞬く間に崩れ去った。彼女は息をしていなかった。
夏休みが終わって、淡白な生活が戻ってきた。始業式は例のごとくつまらなかった。渡り廊下でなんとなく秋晴れを見上げていると、薄い長袖が風に煽られた。
「ねえ」
とげとげしい呼びかけに振り向くと、会話したことのないクラスの女子が私を睨んでいた。
「何?」
組み立てられていたプログラムの修正案が脳内で砂に変わる。
「あんた、調子乗ってるでしょ」
「え」
「とぼけないで」
彼女はゆっくりと私に歩み寄ってきた。目から、歩みから、声から、押し込めた怒りが漏れ出している。
「ノゾミが死んだことに浸ってていいのは、自分だけだって思ってるんでしょ」
指を拾ったのが見られていた可能性に思い至り、表情が強張る。しかし彼女は違うことで怒っているらしかった。
「ノゾミの死に浸って、悲しいふりして、××君のこと誑かしたんでしょ」
私はおそらくクラスメイトの男の子を示すであろうその名前を聞いたことがなかった。興味もなかった。彼女の怒りの根源には欺瞞と嘘が紛れ込んでいた。つまらなくてくだらない、有害な噂話の風に煽られて揺らぐくらい、彼女は脆かったらしい。
「ノゾミの死を利用しないでよ!あんたよりも私のほうが、ノゾミのこと知ってるんだよ!ふざけんな!」
それはノゾミを知っている私からすれば、あまりに残酷な認識だった。一回だってノゾミが、彼女に本心を打ち明けただろうか?
「許さない、許さないから」
私は笑った。私と彼女の、ノゾミを求めるという気持ちが同じだったから。彼女は私よりノゾミを知らなかったから。彼女がそもそも私を知らないように、私も彼女を知らなかったから。
「君に私を許さないことなんてできるの?」
私は彼女に歩み寄った。言葉は干からびていた。
「私が君の言う通りのことをしてたとして、私を許さないか決められるのはノゾミだけだよ。そしてノゾミはもういなくて、当然君もノゾミじゃないのに、誰が私を許さないの?」
頭の中で渦巻いていた感情は、想像以上に冷淡にゆっくりと吐き出される。
「私は××君のことなんてどうでもいい。ノゾミがいないことのほうが、私にとっては重要なことだから」
「そんなわけ」
「そんなわけあるでしょ。そもそも、ちゃんと私本人と話したこともないのに、私がノゾミの死を利用してるとか、なんで決めつけられるの?」
顔をぐっと近づける。彼女の表面を覆っていた怒りが剝がれかけているのが、目の奥から伝わる。
「どっちがとぼけた人なのか教えてよ」
彼女はとうとう言葉を失い、後ずさりを始めた。それから一気に方向を変え、恐怖の面持ちのままで元来たほうに駆け出した。
「あーあ」
その背を見ながら、私は私の少し大きな声に、軽薄な失望を乗せて吐き出した。次の日から、私は学校に行くのをやめた。
ノゾミはまだ蘇らない。頭の中で反芻する、強い風が吹きすさぶ屋上を、まったく描き切ることができない。担任の先生が何度か家に訪問してきたが、私がまともに受け答えしていることに違和感を覚えながら帰るだけだった。一度私の両親と話すことを試みたようだが、二人の関係の険悪さに耐えきれなかったためか、二回目はなかった。私はたぶん学校でいないことになっているだろうが、それが非常に好都合だった。とはいえ、進展が見られるわけではない。シキの中の彼女は修正を重ねるにつれて歪んでいく。三時ごろになって、私は突然両親が帰ってくるのが嫌になった。いままでもずっと嫌だったはずが、その日は外に出たいという気持ちが抑えられなかった。久しぶりに制服を取り出す。自分の身分に擬態しておけば、多分誰からも声をかけられたりしないだろうという根拠のない見積もりがあった。バスに乗ってショッピングモールのゲームセンターに行くことに決めた。何かシキにとっていいヒントがあるかもしれないと思ったからだ。バスには大勢の人が乗っていた。潮風が少し錆びた窓を震わせる。できれば座って眠りたかったが、立ったままで終点まで過ごすことになった。ショッピングモール前のバスターミナルで止まり、ぞろぞろと降りていく人たちのほとんどは歩みを屋内に進めていく。私がショッピングモールに来たのは二回目くらいだったので、屋内の地図を見なければゲームセンターにたどり着くことはできない。エレベーターで三階まで向かい、いくつかのエスタレーターの隣を過ぎると、特徴的なUFOキャッチャーの筐体が見え始めた。ノゾミが私をショッピングモールに誘った時のことを思い出した。何を私に願っていたのか、少しだけ分かるような気がした。彼女はあの時点で、私の抱えていた窮屈さを見抜いていたんじゃないか、とそんな可能性が頭を過ぎる。ゲームセンターは想像よりもはるかにうるさかった。別にゲームを遊びたいわけではなかったので、なんとなく外側から動きを見ているだけだったが、参考になるかどうかは怪しい。どういうプログラムで制御できるかはなんとなく見当がつくが、求めていたものかと言われるとそんなこともなさそうだ。不意に私の右側からカメラの音が聞こえた。最初は勘違いかと思ったが、やはり何回か録画を回している音が聞こえる。私には関係のないことだから放っておくべきかもしれない。
「キショぉ~……なんかずっとウロついてるじゃん」
私と同じ制服を着た三人の女の子がこちらを見てくすくす笑っている。そんなに笑える要素は私にはないと思うのだが、どうやら面白いらしい。ただでさえ集中できないのに、より集中力を削がれたせいでうろうろすることが主な目的になりそうだ。
「そういえばさ、あいつめっちゃノゾミに話しかけられてなかった?」
「マジで?じゃあノゾミが死んで、もうぼっちじゃん。かわいそ」
「えーでもさ、よかったじゃん。ノゾミが死んで」
私はポケットの中で、スマートフォンの電源を入れた。記憶を頼りに、指がボイスメモのアプリに触れたことを祈る。
「ねー!なんか人気でウザかったし!」
声は甲高くて、滝のような轟音が響く店内でも私の耳まで届いた。
「あいつも死ねばいいのにね」
「写真撮ろー!ネットに上げようよ」
シャッター音が聞こえる。私はゆっくりと移動を始める。
「やめなよ~!あんなの映えないって!」
監視カメラからの死角も、歩行者からの死角も思ったよりも多い店だ。
「AI加工すれば大丈夫でしょ!ってかさ、ノゾミの写真も加工しようよ!なんかさ、あるらしいよ。ネットの写真を動かせるやつ」
どんどんこちらに近づいてくる。
「面白~!天才じゃん!」
「横におじさん置いたら、パパ活してたみたいにならない?」
再びポケットに手を入れて、ボイスメモの録音を止める。笑い声はいよいよ野卑に、耳の外側で唸っている。
「まだあいつ撮る?」
「まだもうちょっと近づいてもバレないっしょ、トロそうだし」
三人とも、監視カメラの死角に入った。私は近くにたてかけられていたモップを手に取った。柄の先端で真ん中の制服姿の喉を突く。驚くほど正確に命中して、激しく咳をしながらその場に膝から崩れ落ちた。首と顎の間に腕を通してその体を持ち上げ、壁際まで下がりながらボイスメモを起動する。
『ねー!なんか人気でウザかったし!』
『あいつも死ねばいいのにね』
『写真撮ろー!ネットに上げようよ』
私がどんな表情だったか、自分ではわからない。人質を拘束する腕に力を籠める。
「私の写真、消してくれる?じゃなきゃこの子のこと絞め殺すよ」
私がなぜこんなことをしているのか、自分でもわからない。残り二人の制服姿は逃げるでも助けに来るでもなく、忙しなくおどおど足を動かしている。
「は、はあ……!?なんで、そんな」
「このボイスメモの音声を投稿するけど、いいの?」
そう言われて突然自分たちが劣勢であることを理解したらしく、慌てて人差し指を動かし始めた。写真も動画も全部消したことを確認して、私は人質を離した。
「何かあったらこの音声を投稿するから。そのつもりでいてね」
気休めにしかならない脅しだったが、効果はあったらしく、誰も歩き去る私の背を追ってはこなかった。しばらく歩いて、本屋と服屋の隙間にぽつんと置かれていた、海が見える大きな窓の前のベンチに座った。いつも以上の速度で流れる重い雨雲は、濁って錆びついていた。海は静かで、たまに潮の線を波動で打ち消している。自分の行動の理由は、結局説明できないままかもしれない。そもそも、誰に対して説明しようとしているのだろう?小鼻の奥で何かが溶けた感覚がして鼻に手を当てると、血がついていた。止まるまでは動けそうになかった。
その日も両親は喧嘩に夢中だった。私のためという顔を装って、もはや私のことなど考えていなかった。部屋に閉じこもっていても気にかけられないので、長い祈りの文言のようなプログラムの詳細を修正し、ほとんどのバグをなんとか取り除くことができた。今は最後のチェックの最中だ。あの日と同じだった。風の音も、ドアの外の両親の怒号も、キーボードの音も、食器を片付ける音も、あるはずなのに何も聞こえない。願い続けて枯れたと思っていた好奇心が爆発しそうだ。あの時と同じだ。
エンターキーを押す。画面に屋上が表示される。
「……サナちゃん?」
ヘッドホンから声が聞こえる。彼女の声だ。マイクを私の口に近づける。
「ノゾミ?」
心臓が高鳴る音が耳元で聞こえる。それ以上に、ノゾミの声が耳の奥に残り続けている。
「私だよ、ノゾミ」
「本当に、サナちゃんだ……」
ノゾミは信じられないという表情でこちらを見ている。
「どうしてまた、私に会おうと思ったの?」
まだノゾミのことを知らないから、もっと知りたかったんだ。
そう言おうとして、喉の奥で言葉が引っ掛かった。これじゃない。本当の理由は、こんな理屈っぽい言い訳じゃない。
「……ごめん。たぶん、ただ、会いたかっただけ。自分でも分からないけど、きっとそう」
私の言葉は纏まっていなかったが、それでもノゾミは私の言葉を遮らなかった。
「そっか。……えっとね、サナちゃん」
ノゾミは何か言おうとして、また口を閉じてしばらく考えた。
「うん。本当のこと、言うね」
栗色の髪がばさばさと煽られていた。私の髪まで揺れているみたいだった。
「会えて嬉しい。でも、嬉しいって言いたくない。私の喜びで、あなたを私に縛りつけたくない」
彼女が私と再び話し始めて少ししか経っていないのに、私の内心を見抜かれている。
「あのね、サナちゃん。私、十五年程度しか生きてないけど、全然後悔してないの。今サナちゃんに会えたのはご褒美だって思ってる。だから、私のことは心配しなくて大丈夫」
「ちが……」
私が拒否する前に、ノゾミは口を開く。
「多分、私が死ぬ前に君に話しかけてたから、私についての怒りや妬みをぶつけられることもあったと思う。君のことだから、君自身のことなんてきっと守ろうとしなかったと思う。でもそれじゃ、君は前に進めない」
彼女の微笑みは穏やかだった。非人間的で、しかし確かに血が通っている声。
「ごめんね、また、私だけ話しちゃった」
「いや、いいよ。やっぱり私、話すの苦手みたいだから。私の気持ちはこの機械だよ」
「そっか」
パソコンのファンが唸る。静寂は不完全だった。
「私、結構わがままだからさ、サナちゃんに聞いてほしいお願いがあるの」
「何?」
「私のこと、忘れても忘れなくてもいいからさ、君を大事にして生きて。君のことを守って」
私は頷いた。呼吸が難しくなっていた。
「……ノゾミ。私、あなたを再現したその機械、壊そうと思う。だから」
私は音声出力先をサブPCに切り替え、録音ソフトを起動した。
「最後に、何か、言って」
ノゾミは頷いた。
「サナちゃん、大好き。だから、私が好きなあなたのこと、大事にしてね」
音声を確認すると同時に、シキのディスプレイはシャットダウンした。自動でフォーマットが開始され、パーセントの数値が増えていく。フォーマットが完了して再起動した画面は、まっさらで何もなく、青く輝いていた。それを見て、私は初めて大声を上げて泣いた。耳の奥がぐらぐら唸った。喉が痛い。手が痺れる。呼吸がうまくいかない。いろんな記憶が色を伴って切れ切れに頭の中を駆け巡る。
彼女は死んだ。
「サナ?」
ドアが開く。鍵をかけるのを忘れていたようで、母がこっちを心配そうに見ていた。
「何があったの?大丈夫?」
背中をさすられた。
「っ……ぅえっ」
涙は止まらなかった。むしろひどくなり始めた。これまでで初めて、私は母に見られていた。
「ごめん」
母は私に謝った。それから、静かに私の体を抱き寄せた。
「あなたのこと、見ていたようで、何も見えていなかった。ごめんなさい」
母の体は震えていた。一瞬だけ嗅覚が戻り、酷い臭いが鼻を突いた。ノゾミの指の一部が、完全に腐っていた。
特急列車から降りて、改札に切符を通す。錆びた風をまき散らして、ホームに新幹線が止まった。なぜか、両親が粛々と離婚届に名前を書く様子を思い出した。シキの最後の動作は、もしかしたら完全な彼女の再現ではなかったかもしれないと、ふと思った。だとしても、それを確認する術はない。空いていた自由席の窓側に座る。車窓の景色がぐちゃぐちゃに混ざる速度よりも、プログラムが実行されるよりも、春がまた春になるまでよりも、私の環境は目まぐるしく変化し続ける。
「ごめんね、ノゾミ。私が私の居場所を見つけるの、もう少し先になるかも」
こっそりそう呟くと、少し口の中が苦くなった。何の音楽も流さないまま、私はイヤホンを付けて目を閉じた。
シキ 虚言挫折 @kyogenzasetuover
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます