第3話

「建物が古いからね。雨が入ってきちゃうのよ」

 

嘘だけれど、そう言った。桜井さんは納得したように頷くと、文机に視線を戻す。勤勉な子らしかった。


「あの……私の顔になにかついてます」

 

私の視線をダイレクトに感じるのか、恥ずかしそうにそう言う。


「ううん、なんだか楽しそうだなと思って」


「はぁ……」

 

人間関係は変わっている。もしかしたらこれは、山が消滅し、浄霊したあとに訪れた、新しいステージなのかもしれない。


なにかが、変わるのかもしれない。

 

これから眠って大学へ行けば、後藤教授から普通に講義が受けられるのかもしれない。

普通に講義を受けて、三日経てば実は普通に帰れるのかもしれない。

 

……かもしれない。


そんな可能性は、ゼロに等しかった。それでもそうした希望を持たなければ、私の精神は潰れてしまいそうだ。


「なにか食べない?」


「お腹がすきましたか? 簡単なものなら作れますけど」


桜井さんは資料をしまい、立ち上がる。


「ここでは、スタミナが大事よ」 


「慣れているみたいですが、大学の方ですか」


桜井さんは不思議そうな顔で言う。私はゆっくりと首を振ると、料理を一緒に作って食べ、桜井さんと他愛のない話をして眠った。


日が沈まないまま、朝がやって来た。大学へ向かう。


桜井さんに付き添って事務室へ寄ると、知らない男性が事務員として立っていた。


全てにやる気がなさそうだった。坂道がきつかったのか、桜井さんの呼吸は乱れている。


私の呼吸は、初めて来たときほど荒れてはいなかった。


一緒に講義室へ入る。新たな面子で既に六人もの人間が集まっていた。今回はみんな初対面なのか、静かだった。


しばらくして、事務員の男性がやって来た。教壇に立つと、顔をしかめる。


「えー、皆さんにお知らせがあります」

 

静まり返った講義室で、私はしっかりと男性を見つめた。


「後藤教授は亡くなりました。この山に来る途中、事故に遭って亡くなったみたいです。私もびっくりしたのですが、昨日駅前の無人スーパーに買い物に行ったところ、道中で後藤教授の死体を発見してしまいました」

 

どよめきが起こる。おいおいどうするんだよ、こんな山奥まで来たっていうのに。


男性陣がそう囁いている。


どよめきが止むと、ある二人の男の子たちの中が急速に険悪なものになっていった。


なにをどのように話し合っていたのかはわからない。


別の男の子が、必死に仲裁に入っている。

 

なにも変わっていない。

 

私は傍観しながら、視線をスライドさせ、中庭の真っ白な砂を見つめる。


心の中にあったなにかが、静かに静かに重力に従って落ちていく。それは私の深いところにある闇の中へ吸い込み、溶けていった。


少量の砂が風に踊り、自分の意思を持ったかのようにどこかへ飛んでいく。


きっと後藤教授の死体を再生しに行くのだろう。


榊原教授は消滅できた。白尾夫婦も願い悲しく消滅した。


でも私たちは。


浄霊してもらっても意味がなかった。


山ごと燃やしても意味がなかった。


無限大……。


私はやっとその意味を実感していた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る