第十三話:なぜ、私じゃダメだったの?


あの日、瞬が里奈に頭を下げてから、数日が過ぎた。




その間、里奈は学校を休んでいた。




風邪、ということになっているらしい。




だが、瞬には、それが、ただの風邪ではないことがわかっていた。




彼女の心の中で、激しい嵐が吹き荒れているのだ。




そして、その嵐を巻き起こした原因の一端は、間違いなく、自分にある。




瞬と美影の間には、穏やかな、しかし、どこか緊張感をはらんだ日々が流れていた。




美影は、里奈のことについて、一切、何も聞いてこなかった。




それは、彼女の、深い優しさであり、信頼の証だった。




瞬が、自分で、この問題にケリをつけるのを、ただ、静かに信じて待ってくれている。




その、無言の信頼が、瞬の背中を、そっと、押していた。




金曜日の放課後。




スマートフォンが、短く、一度だけ、震えた。





画面に表示された名前に、瞬は、息を呑む。




早乙女里奈からだった。




『話がある。最後にもう一度だけ。今日の放課後、いつもの、河川敷の公園で待ってる』




「いつもの公園」。




その言葉に、瞬の胸が、ちくり、と痛んだ。




そこは、二人が、付き合い始めて、初めて、デートらしいデートをした場所だったからだ。




瞬は、教室で彼の帰りを待っていた美影に、「ごめん。今日、行かなきゃいけない場所がある」とだけ告げた。




美影は、何も聞かなかった。



ただ、その、すべてを見通すような、澄んだ瞳で、瞬の目を、じっと、見つめ返した。




そして、こくり、と、小さく頷く。




「うん。わかった。気をつけてね」




その、静かな声援を、彼は、お守りのように、心にしまい込んだ。




学校から、河川敷までは、自転車で十分ほどの距離だった。




ペダルを漕ぐ足が、鉛のように重い。




七月に入り、梅雨の湿っぽさは残るものの、空は、夏の色を、少しずつ、取り戻し始めていた。




ガードレールに絡みついたヒルガオの、淡いピンク色の花が、気だるげに咲いている。




草いきれの匂いと、川の水が運んでくる、わずかな土の匂いが、風に混じって、頬を撫でていく。




公園に着くと、瞬は、自転車を止め、ゆっくりと、土手へと続く階段を上った。




そこには、あの頃と、何も変わらない風景が広がっていた。




緩やかに蛇行する、川の流れ。




対岸に見える、低い山並み。川面が、傾きかけた西日を反射して、まるで、溶かした黄金を流したかのように、きらきらと、眩しく、輝いている。




河川敷のグラウンドからは、少年野球チームの、甲高い声が聞こえてくる。




カキーン、という、金属バットの澄んだ音。




その、平和な日常の音が、今の瞬には、どこか、遠い世界の出来事のように感じられた。




彼女は、いた。




一本だけ、ぽつんと立つ、大きな桜の木の下の、ベンチに。




里奈は、ただ、黙って、川の流れを、見つめていた。




その横顔は、瞬が知っている、勝ち気で、華やかだった頃の面影はなく、まるで、精巧なガラス細工のように、儚く、そして、ひどく、脆く見えた。




瞬は、ゆっくりと、彼女の隣に腰を下ろした。




ベンチの、ひんやりとした、木の感触が、ズボン越しに伝わってくる。




長い、沈黙が流れた。




ただ、川が流れる音と、遠くで練習する野球の音、そして、風が、桜の葉を、さわさわと揺らす音だけが、二人の間に、横たわっていた。




先に、口を開いたのは、里奈だった。




その声は、川のせせらぎに、かき消されてしまいそうなほど、小さく、か細かった。




「……私と、付き合ってた時、楽しく、なかった…?」




瞬は、言葉に詰まった。




だが、もう、逃げるわけにはいかない。



彼は、正直に、答えるしかなかった。



「……そんなこと、ない。楽しかったよ。最初の頃は、本当に、今までで、一番、楽しかった」



その言葉が、まるで、ダムを、決壊させる、最後の一滴になったかのようだった。



里奈の肩が、小さく、震え始めた。




彼女は、俯いたまま、ぽつり、ぽつりと、言葉をこぼし始める。




「じゃあ、なんで……?なんで、あなたは、変わっちゃったの…?私は、ずっと、何も、変わらなかったのに。ずっと、あなたのことが、大好きだったのに」



そして、ついに、彼女は、顔を上げた。




その、大きな瞳からは、堰を切ったように、大粒の涙が、次から次へと、溢れ出していた。




「なんでよ!なんで、私じゃ、ダメだったの!」



その声は、もはや、叫びだった。




彼女の、心の奥底からの、悲痛な、絶叫だった。



「私、頑張ったよ!あなたの、理想の彼女になろうって、一生懸命、頑張った!あなたが、連絡くれなくても、我慢した!あなたが、友達を優先しても、笑顔で、許した!あなたが、好きだって言ってくれた服を着て、あなたが、褒めてくれた髪型にして……!全部、全部、あなたのためだったのに!」




「何が、足りなかったの…?あの、前原さんっていう子にあって、私に、なかったものは、何なのよ!教えてよ、瞬くん!じゃないと、私、もう、前に、進めないよ……!」




彼女は、子どものように、わんわんと、泣きじゃくった。



その姿は、もう、瞬が知っている、プライドの高い、早乙女里奈ではなかった。



ただ、恋に破れ、自分の価値を見失ってしまった、傷ついた、一人の、女の子だった。




瞬は、ただ、黙って、その言葉のすべてを、その涙のすべてを、受け止めていた。




もう、目を逸らしたりはしない。




彼女の、その、魂からの問いに、彼は、誠実に、答えなければならない。




やがて、里奈の嗚咽が、少しだけ、静まった頃。




瞬は、静かに、口を開いた。




その声は、震えていなかった。そこには、深い、深い、後悔と、そして、確かな、覚悟があった。




「……里奈が、ダメだったんじゃない」




彼は、まず、それを、はっきりと、否定した。



「里奈は、何も、悪くない。お前は、俺には、もったいないくらい、最高の彼女だったよ。優しくて、一途で、いつも、俺のこと、一番に考えてくれてた」



「じゃあ、なんで……」




「俺が、子供すぎたんだ」




瞬は、ゆっくりと、言葉を紡いでいく。




それは、彼が、この数週間、美影との関係の中で、血を流すようにして、学んだ、真実だった。




「俺は、ずっと、勘違いしてたんだ。恋っていうのは、花火みたいなもんだって、思ってた。打ち上がって、綺麗に咲いて、そして、消えていく、一瞬の、お祭り騒ぎ。俺は、その、打ち上がる瞬間の、ドキドキと、夜空が輝く、あの、興奮だけを、追い求めてた。その、派手な光が、愛の、すべてだって、信じてたんだ」




「でも、違ったんだよな」




彼は、夕日で、オレンジ色に染まる川面を見ながら、続けた。




「花火が終わった後には、静かな、夜が来る。俺は、その、静かな夜の、過ごし方を知らなかった。二人で、ただ、静かに、隣にいること。その、穏やかな時間の、価値を知らなかったんだ。面倒くさい、って、思ってた。退屈だって、思ってた。そして、その、静寂から、逃げるように、また、次の、新しい花火を、探そうとしてた」




「……」



里奈は、涙を流しながらも、彼の言葉に、じっと、耳を傾けていた。




「美影は……あいつは、俺に、教えてくれたんだ。いや、あいつと一緒にいることで、俺が、勝手に、気づいたんだ。その、花火のような『恋』の、その先があるんだってことを。本当の『愛』っていうのは、打ち上げるものじゃなくて、育てるものなんだって。毎日、水をやって、太陽の光を当てて、時には、嵐に耐えながら、ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて、育てていく、小さな、苗木みたいなものなんだって」




「それは、静かで、地味で、時には、面倒くさいことばっかりだ。でも、そうやって、二人で、一緒に、育てていった先にしか、本当の、安らぎはないんだって、俺は、ようやく、知ったんだよ」




「だから、里奈。お前と、美影の、何が違ったか、じゃないんだ。あの頃の、子供だった俺と、少しだけ、ほんの少しだけ、成長できた、今の俺が、違うんだ。それだけなんだよ。お前が、足りなかったものなんて、何一つなかった。足りなかったのは、全部、俺の方だったんだ」




彼は、最後に、もう一度、彼女に、はっきりと告げた。



「本当に、ごめん。……そして、俺を、本気で、好きでいてくれて、ありがとう」



その言葉を聞き終えた時、里奈の、張り詰めていた心の糸が、ぷつり、と、切れた。




彼女は、もう、声を抑えることもせず、その場に、うずくまるようにして、泣き続けた。




それは、もう、怒りや、嫉妬の涙ではなかった。




ずっと、自分を責め続けてきた、心の呪いが、ようやく、解けた、解放の涙だった。




瞬は、何も言わずに、ただ、その隣に座っていた。




空は、いつの間にか、深い、夜の藍色に染まり、一番星が、瞬き始めていた。




川のせせらぎと、彼女の、静かな泣き声だけが、世界に、響いていた。




過去は、消せない。




与えてしまった傷を、完全になかったことには、できない。




だが、誠実に向き合い、そして、自分の言葉で、真実を語ることなら、できる。




彼は、ようやく、その、当たり前の、しかし、何よりも、難しい一歩を、踏み出すことができたのだ。




それは、彼が、本当の意味で、大人になるための、長い、長い、通過儀礼の、終わりの合図だった。




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