第十一話:最初の矢


七月に入り、梅雨は、その最後の意地を見せるかのように、連日、気まぐれな空模様を繰り返していた。




朝、蝉の声が、まるで季節を間違えたかのように、力なく鳴いているのを聞いた。




本格的な夏の到来を前にした、束の間の静けさと、まとわりつくような湿度が、世界の輪郭を、ほんの少しだけ、曖昧にしていた。




垣原瞬と前原美影の関係は、その曖昧な天気とは対照的に、驚くほど、くっきりと、そして、穏やかな輪郭を描き始めていた。




あの嵐のような告白劇の後、二人の間には、まるで新しい言語が生まれたかのようだった。




言葉を尽くさなくても、視線や、沈黙や、ほんの些細な仕草だけで、相手の気持ちを、そっと、汲み取ることができる。



そんな、心地よい空気が、常に、二人を包んでいた。




その日の昼休みも、そうだった。




雨が上がり、雲の切れ間から、久しぶりに、強い日差しが地上に降り注いでいた。




瞬と美影は、屋上の、フェンス際の日陰に並んで座り、眼下に広がる街並みを、ただ、ぼんやりと眺めていた。




「見て、瞬くん。あの雲、ソフトクリームみたい」




美影が、空の彼方を指さしながら、子どものように笑う。




「どれだよ。俺には、ただの入道雲にしか見えねえけど」



「えー、想像力足りないなあ。あっちの、もくもくってしてるところだよ」



「はいはい」




瞬は、気のない返事をしながらも、その横顔から、目を離すことができなかった。




陽の光を浴びて、彼女の黒髪が、きらきらと光の粒子を振りまいている。



楽しそうに細められた、その瞳。




少しだけ、上を向いた、小さな鼻。



そして、柔らかなカーブを描く、唇。




その、すべてが、今の瞬にとっては、かけがえのない宝物のように思えた。




この感情は、なんだろう。



かつて、里奈や、他の女の子たちに感じていた、あの、胸を焦がすような、独占欲に満ちた「恋」とは、明らかに違う。




もっと、ずっと、静かで、温かい。




まるで、冬の寒い日に、日だまりの中で、そっと、目を閉じている時のような、満ち足りた、安らぎの感覚。




これが、美影の言っていた、「愛」というものなのだろうか。




その答えは、まだ、見つからない。




だが、もう、焦ってはいない。




この、穏やかな「今」が、一日でも長く続けばいい。




彼は、心から、そう願っていた。




その、穏やかな日常に、最初の亀裂が入ったのは、その日の放課後のことだった。




早乙女里奈は、物陰から、息を潜めて、その時を待っていた。




週末に、あの光景を目撃してから、彼女の心は、ずっと、冷たい怒りの炎で焼かれ続けている。




彼女は、この数日間、ずっと、二人を監視していた。瞬と美影が、どんな顔で話し、どんな風に笑い合うのかを。




その、幸せそうな姿を見るたびに、心の奥の棘が、より深く、肉に食い込んでいくのを感じた。



(許せない)




その感情だけが、今の彼女を、突き動かしていた。




幸せになる資格なんて、あの二人にはない。



特に、瞬には。




人を、あんな風に、無慈悲に傷つけておきながら、自分だけが、何事もなかったかのように、幸せになるなんて。




そんな、不公平が、あっていいはずがない。




彼女は、待っていた。




前原美影が、一人になる、その瞬間を。




そして、そのチャンスは、意外なほど、早く訪れた。




その日の放課後、瞬は、大輝に呼ばれて、職員室へと向かった。




進路指導に関する、何かの用事らしい。




美影は、一人、教室で、瞬が戻ってくるのを待っていた。




だが、担任の教師に、学級日誌の提出を頼まれ、彼女もまた、一人で職員室へと向かうことになった。




(……今だ)




里奈は、心臓が、どくん、と大きく鳴るのを感じた。




彼女は、美影の後を、音を立てないように、慎重につけていく。




向かう先は、昇降口。



多くの生徒は、もう、部活動や、帰路についている。



放課後の、あの、独特の喧騒が、少しずつ、静けさに変わっていく、ちょうど、その狭間の時間帯。




昇降口は、思った通り、人影はまばらだった。




西日が、高い窓から差し込み、床に並んだ生徒たちの上履きの、白いゴムの部分を、まぶしく照らし出している。




革靴の匂いと、床に塗られたワックスの匂い。



そして、カタン、コトン、と、誰かが自分の下駄箱の扉を閉める、無機質な金属音。




美影は、自分の下駄箱の前で、鼻歌まじりに、ローファーに足を通していた。




その、あまりにも無防備な背中に、里奈の心の中で、黒い何かが、鎌首をもたげた。




里奈は、静かに、彼女の背後に立った。




「……あの」



その声に、美影は、驚いたように、くるりと振り返った。




「あなたが、前原美影さん、だよね?」




里奈は、できるだけ、丁寧な、そして、冷たい声色を作って言った。



美影は、一瞬、戸惑ったような顔をしたが、すぐに、里奈が誰であるかを認識したようだった。




「はい、そうですけど……。あなたは、二組の、早乙女さん、ですよね」



その声には、警戒の色が、わずかに滲んでいた。



「そう。ちょっとだけ、あなたに、忠告しておきたいことがあって」



里奈は、わざと、ゆっくりと、言葉を区切った。




相手の心に、毒の滴を、一滴、また一滴と、染み込ませていくように。




「瞬くんのこと、信じすぎない方が、いいと思うよ」



その言葉に、美影の表情が、わずかに、こわばった。



「あの人、すぐに、飽きるから。どんなに、今、優しくてもね。それは、ただの、ゲームの始まりの、ご祝儀みたいなもの。すぐに、メッキは剥がれるわ」




里奈は、かつて、自分が、喉から手が出るほど欲しかった言葉たちを、今度は、自分が、相手を傷つけるための、鋭い刃に変えて、振り下ろしていた。



「あんまり、夢中にならない方がいい。私みたいに、惨めな思いをするだけだから。どうせ、あんたも、すぐに、捨てられる」




言い終えた時、里奈は、自分の心が、少しだけ、晴れるのを感じた。



そうだ、これでいい。



こいつの、あの、太陽のような笑顔を、曇らせてやればいい。




俺が味わった、あの、絶望を、こいつも、味わえばいいのだ。




美影は、何も言わなかった。




ただ、じっと、里奈の目を、見つめている。




その瞳は、凪いだ湖面のように、静かで、感情が読み取れない。



その、思い通りにならない反応に、里奈は、少しだけ、苛立った。



「……何よ、言いたいこと、あるなら、言えば?」




すると、美影は、ふ、と、息を吐いた。



そして、彼女の口から出たのは、里奈が、全く、予想していなかった言葉だった。



「……あなたは、すごく、傷ついたんですね」




その声は、非難でも、怒りでも、同情でもなかった。




ただ、そこにある事実を、静かに、確認するかのような、不思議な響きを持っていた。




「なっ……!」



里奈は、言葉に詰まった。




なぜ、そんなことを言われる?



私は、こいつに、忠告をしてやっているのに。




「余計なお世話よ!あんたが、私みたいにならないようにって……」



「……忠告、ありがとう」



美影は、里奈の言葉を、静かに遮った。



「でも、私が、瞬くんをどう信じるかは、私が、決めることなので」



そう言うと、彼女は、里奈に、深く、一度だけ、頭を下げた。




そして、踵を返し、昇降口の出口へと、歩き始めた。




その、凛とした、揺るぎない背中。




里奈は、呆然と、それを見送ることしかできなかった。




自分の放った、渾身の毒矢が、まるで、分厚いガラスに阻まれたかのように、全く、彼女に届かなかった。




そんな、途方もない、敗北感。




その時だった。




「……美影?」




昇降口の、反対側から、瞬が、姿を現した。




何か、忘れ物でもしたのだろうか。




彼は、立ち尽くす里奈と、去っていこうとする美影の、その、ただならぬ空気を感じ取ったようだった。




里奈は、瞬の顔を見た瞬間、我に返った。




そして、煮え繰り返るような、怒りと、屈辱で、顔が真っ赤になるのを感じた。




彼女は、瞬を、心の底から、憎悪を込めて、睨みつけると、彼の肩に、わざと、ドン、と強くぶつかって、外へと走り去っていった。




瞬は、その場に、立ち尽くしていた。




目の前には、自分に背を向けたまま、動かない、美影の後ろ姿。




彼女の、いつもは、軽やかで、楽しげなオーラが、今は、すっかりと消え失せ、代わりに、重く、静かな何かが、その細い肩に、のしかかっているように見えた。




何があったかは、わからない。




だが、ろくでもないことだ、ということだけは、痛いほど、わかった。




瞬は、一歩、彼女に近づいた。




床に落ちた、自分の影が、彼女の影と、重なる。




「……美影」




彼は、努めて、静かな声で、問いかけた。




「今の人、里奈だろ。何を、言われたんだ?」



その問いかけに、美影は、答えなかった。



ただ、昇降口を吹き抜ける、生温かい風が、彼女の髪を、静かに、揺らしているだけだった。



沈黙が、まるで、これから始まる、新たな嵐の予兆のように、二人の間に、重く、横たわっていた。



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