ぼくは、マリア様を見た

@tiana0405

盲目のマリア様

これからどうしよう‥。


 つい2日前、会社からクビを宣告されたぼくは、買い出しの帰り道、重いエコバッグを重い足取りで引きずっていく。


働けない母を養っているぼくを、助けてくれる人などいないし、少し休みたい気持ちがあっても、残り少ない貯金はその時間を与えてくれさえしないだろう。


そんな時、ただ、真横をゲラゲラ笑いながら通り過ぎる人とぶつかりそうになるだけで、眉間に皺が寄り、怒鳴りつけたくなる。


(うるせえ!!広がって歩くんじゃねーよ!ぶつかってホームに落ちたらあぶねーだろうが!)


そう怒鳴れたら、スッキリするのだろうか?

ぼくの事情を全く知らない人に八つ当たりをしたって、何も解決はしないのに。


それが分かっているから、僕はグッと唇を噛み締めて、下を向く。


僕の中の溜め込み過ぎた鬱憤は、それに合わせてプーッとお腹の中で風船のように膨らんだ。


そんな時だった。


コツコツコツコツ‥。


軽快な靴音と、杖の音。シスターのように頭巾で頭を覆った女性が、まっすぐ前を向いて瞬きもせずに、横を通り過ぎた。


彼女の表情は、口角が上がり、晴れやかで慈愛に満ちていた。


余りにも彼女がにこやかな雰囲気を醸し出しているものだから、ぼくは少し呆気に取られた。物価高に関わらず、上がらない給料。人身事故の多発する暗い世の中で、こんなにも明るい表情で歩いている人を、久しぶりに見たからだ。


と、同時に、ぼくは彼女が少し心配になった。


彼女は、盲目の人々が使う白と赤の杖で、歩道の視覚障害者用の黄色いタイルを探りながら歩いている。


ぼくは、重いエコバッグを持ち直しながら、彼女を何回も振り返った。


あの人は、あんなに恐れ知らずに、にこやかに歩いているけれど、石に蹴躓いたりしないだろうか‥?通行人にぶつかって転んだりしないだろうか‥?


そんな僕のお節介をよそに、彼女はまっすぐ前を向いたまま、凛とした姿勢で歩き続ける。それどころか、彼女はちっとも杖を頼りにしていなかった。


もちろん、杖で黄色のタイルをある程度探りはするけども、それよりも何よりも、彼女は自身の聴覚や嗅覚、感覚に全幅の信頼を置いているように見えた。



多くの視覚障害者のように、杖をブンブンと振り回さず、彼女は電車のドアすらも、手を少し伸ばし、手探りの自らの感覚で発見する。


その姿は、なぜかひどく美しかった。ぼくは、固唾を飲んで、彼女を見守る。


すると、突然、彼女が踵を返し、自身が乗っていた電車に戻っていく。戻る時も、彼女は手を伸ばしてドアを探し、杖で電車とホームの隙間を確認していた。


やはり、目は見えないのだろう。


それにも関わらず、彼女は、電車で1人寝こけていた男子高校生を見つけたのだった。この駅は終点だ。取り残された青年は、放っておけば、そのまま逆方向に連れ去られるだろう。


彼女は、うとうとしている青年の前で身を屈ませ、手探りで優しく、彼の膝に触れた。


終点ですよ。


そんな事を囁いたのだと思う。僕はその時、彼女をどこかの高校のシスターだと思っていた。だから、自分の学校の生徒が電車から降りてこない事に気が付き、慌てて彼を起こしに行ったのだろうと。


僕の予想を大きく外れて、欠伸をして立ち上がった青年は、眠そうな顔をしながら、恩人の彼女に目もくれず、どんどん離れていく。


そして、彼女も、また青年の方を気にせず、また晴れやかな顔で歩き出した。彼らは全くの他人だったのだ。


コツコツコツコツ。


リズミカルな靴音と、杖の音が重なる。優しく微笑を讃えて、見えない眼を開けて、まっすぐ前を向いて、凛とした眼差しの女性。



その慈愛に満ちた姿は、頭に巻いた頭巾も相まって、まるでマリア様だった。



僕は、思わず手を合わせていた。



マリア様だ‥。



青春時代を過ごした母校に佇む、白い石像が目に浮かんだ。



マリア様は、風を切って歩いている。目が見えなくても、確かな足取りで、自分が起こした小さな優しさも、きっと彼女にとっては、日常だった。


生活に疲れ果てた僕には、その姿が、泣きたくなる位、神々しく見えた。



寝こけている人を、終点で起こしてあげるなんて、大した事ではないと思う人もいるかもしれない。



でも、皆がそう思って誰も起こさなかったら、どうなるだろう?



きっと、寝ていた人は、逆方向で下されて、困ってしまうよね。



冷たく考えれば、自業自得で済む話かもしれない。けれども、そんな冷たい世の中は、ぼくには苦しく悲しく感じる。



目が見えている誰もの視界に、あの寝こけた青年の姿は入っていただろう。


でもそれは、ただ風景として入っていただけで、助けるべき存在として認知されていなかった。


忙しいから。面倒くさいから。自分に関係ないから。



ぼくらは、誰もが、自分の持った重い荷物に目を向けて、そう言い訳する。もちろん、ぼくもそうだ。ぼくたちは、見えているのに、全然見えていないんだ。



だけど、あの盲目のマリア様には、確かに彼が見えていた。嗅覚と、聴覚と手探りだけの真っ暗な世界にいるマリア様には、助けるべき存在が、確かに見えていた。見えていないはずなのに、はっきりと見えていたんだ。



ぼくの心は、なぜかマリア様の小さな優しさを見ただけで、酷く癒された。



ぼくは、仕事で沢山ミスをした。会社の利益の為だけに、考えられなかったからだ。会社に取って、相手にするのが時間の無駄のようなとあるお客様がいた。彼女は、電車に乗るお金すらないほど、貧しかった。


ご飯が食べたい。もう食べる物がないの。だから、取り引きして欲しい。



そう言われた時、ぼくは拒絶出来なかった。



ぼくも、冷蔵庫を開けて、空っぽだった時の気持ちをよく理解していたからだ。



ぼくは、会社員として失格なのだろう。上司にも注意されたし、貧乏なお腹が空いたお客様との取り引きは、会社にとって、間違いなく不利益だった。



でも、その時、お客様に言われた。



ありがとう。貴方が担当で本当に良かった。貴方、いい人ね。



ぼくは、その一言だけで、良かったと思ってしまった。



見ず知らずの、どこに住んでいるかも分からないお客様がご飯を食べられるように、会社にとって時間が無駄なショボい取り引きをした。



このミスが無ければ、もしかしたら、ぼくはまだあの会社にいられたのかもしれない。



クビになった時、そんな後悔をしながら歩いていたぼくにとって、通りすがりのマリア様との邂逅は、小さな奇跡だった。



マリア様は、目が見えていなくても、見えるべき物がはっきりと、見えていた。



マリア様は、杖に依存するのではなくて、自らの感覚を大事にして、大地をしっかりと自らの足で踏み締め、彼女のペースで歩いていた。



その姿は、ひどく美しく、神々しくて、慈愛に溢れていた。



マリア様は、自らが起こした優しさを、息をするのと同じように行い、振り返りもせず、爽やかに通り過ぎて行く。



本来、優しさとは、愛とは、こんな物なのかもしれない。



ぼくは、やっぱり、まちがっていなかった。



そう呟いて、ぼくもマリア様に背中を向けて、歩き出す。



誰にどう思われるからではなく、ぼくがありたいように、振る舞えばいいんだ。ぼくが満足するぼくで、いたい。



ぼくもいつか、あのマリア様のように、自分の感覚に全幅の信頼を置いて、人生を歩んで行きたい。



晴れやかな顔で、慈愛に満ちた微笑を浮かべながら、他人に優しくした事すらも、よくある事と、爽やかに忘れて生きていきたい。



盲目のマリア様。ありがとう。今日この時、あの場所で。人生に迷いを感じたぼくの前に現れてくれた貴女の姿は、心が震える位、美しかった。



貴女とすれ違えて、本当に良かった。



リズミカルな靴音と杖の音が遠ざかっていく。


コツコツコツコツ。


いつの間にか、肩にかかっていた重いエコバッグが、心なしかいつもより軽く感じた。


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