高架下の羽音
ZuRien
高架下の羽音
真夜中、高架橋の下の公園で、私は目を覚ました。
居酒屋で軽く飲んでから帰ろうと思っていたら、酔いつぶれてしまったようだ。
寝ころんでいたベンチから起き上がると、近くの遊具に人影が見えた。
「……」
しかし、なにか違和感がある。
その人影は、人影にしては柔らか過ぎた。
目の前の影がこちらに振り向く。
私の視線に気が付いたのだろうか。
周りが暗いからか、まだ影の全容はつかめない。
私はさらに目を凝らす。
まだ、影の正体はつかめない。
足元が明るくなってゆく。
隠れていた月が出てきたのだ。
月明かりはみるみるうちに奥へと進み、ついにその影の主を暴いた。
正体は……人と同じくらいの大きさの、蝶だった。
しかしそれを見た瞬間、どこから込み上げてきたのか、私は涙を流した。
胴体から生えた、ステンドグラスに似た羽が、月光を通して輝いていた。
私とその蝶は、しばらくにらめっこしていた。
だんだん、酔いが覚めていくのを感じる。
私は恐怖で泣いていたのだと、この時理解した。
一歩ずつ、後ずさりしながら公園を出る。
その間も、蝶はずっとこちらを見ていた。
しばらく踵を引きずっていると、右手に冷たい感覚が走った。
公園を取り囲むフェンスに当たったようだ。
蝶はまだ、こちらを覗いている。
視線を蝶に向けたまま、私はゆっくりと公園から出る。
しばらく後ずさりを続けて姿が見えなくなったところで、私は蝶から視線を外し、小学生以来の全速力で走った。
途中、何度か吐き出しそうになったが、なんとか堪えて家まで帰って来た。
家に着くと、案の定吐いた。
吐いた後、なにかしらあった気がしたが、酔いが覚め切っていなかったせいかよく覚えていない。
私は私の知らないうちに寝ていて、起きていた。
「あの時の怪物が、もしかしたら自分を探しているかもしれない」
あの真夜中の出来事以来、私の頭の片隅で、そんな考えがちらついている。
しかし、私は今日も働かなければならないので、支度して外に出る。
私にとっては、あの怪物に見つかることよりも、会社を休んで仕事を溜めることのほうが恐ろしかったのだ。
「やば、もうこんな時間」
腕時計は始業30分前を指していた。
私は少し急いで、会社に向かった。
朝礼が終わってからというもの、私はいつも通り業務をこなしていた。
いや、業務と言えるほど、高尚な営みではない。
回した歯車が、その後ろの歯車たちも一緒に動かすように、昨日の自分が仕事をしていたから、今日も仕事をする。
その連続だ。
「ピロンッ」
携帯の通知音が鳴る。
チラッと覗くと、そこには懐かしい名前があった。
学生時代の友人が、久しぶりに連絡をしてくれていたのだ。
あいにく、今は返せないので、昼休みに返信することにした。
昼休み、自販機とテーブルが置かれたオフィスの一角で、私は残り物を詰め込んだ弁当を口に運んでいた。
友人からの久々のメールの内容は、特に変わったものではなく、「今度お茶しない?」というような旨がつづられていた。
私は快諾し、「日曜の昼過ぎに」と約束した。
普段、休みに予定を入れることなんてないので、ちょっと楽しみだ。
「やば、もうこんな時間」
ふと腕時計を見ると、もう午後の業務が始まろうとしている頃になっていた。
私はテーブルに広げた弁当を片付けて、急いで自分のデスクに戻った。
日曜日の昼過ぎ、私は2年前にできた、周りよりも新しい喫茶店で、友人を待った。
私が早く来すぎたのか、もうかれこれ15分待っている。
「やっぱり、来るわけないか……」
私の予想が当たりそうになった、その時だった。
「カラン、カラン」
入店のベルが鳴る。
入口を見ると、懐かしい顔があった。
友人だ。
「久しぶり~ いつ振りだっけ?」
友人はいかにもはつらつに、そう言った。
昔はそんな性格じゃなかったのに。
私は恐る恐る「なんで、今日誘ってくれたの?」と、友人に訳を尋ねた。
「ちょっと、昔の話がしたくって。行こう?」
そう言うと、友人は私の手を引き、喫茶店を出て、昔話を始めた。
私と友人が初めて出会ったのは、中学の時だった。
そのころの友人は、隅っこで本を読んでいるような、人見知りだった。
私と友人は同じクラスだったので、席が隣になっている期間が少しあった。
その機会に、私が友人に話しかけた。
最初は怯えた様子だったが、次第に打ち解けた。
ある日、友人の髪型が変わった。
当時流行っていたスタイルだ。
私には似合わなかったが、友人には抜群に似合っていた。
その影響からか、その日を境に友人は男子にモテ始めた。
モテるだけなら良かった。
けど、そうはいかなかった。
しばらくしてから、友人へのいじめが始まった。
主犯格の女子が言うには、友人が、自分の彼氏に自分の悪口を吹き込んで、彼氏を取ろうとしているらしかった。
もちろん友人がそんなことをするわけないし、第一その人に彼氏がいることすら知らないはずだった。
友人へのいじめは、日を追うごとにエスカレートしていった。
私はそれを見ていることしかできなかった。
その頃になると、もう友人と話すことすら攻撃の対象になった。
それから、友人は学校に来なくなった。
みんな、友人のことを忘れていった。
駆け寄って来た男子までもだ。
結局私は友人に会えないまま中学を卒業し、高校、大学を経て社会人になった。
「結構つらかったんだよー」
友人は、にこやかにそう言った。
話しながら歩いていたら、いつの間にか、この間の公園に来ていた。
この時はまだ、蝶はいなかった。
「だから、こんなになっちゃった」
友人はそう言うと、両腕で腹を抱えながらうずくまった。
「だ、大丈夫?」
昔の後悔を払拭するように、私は友人を気遣う。
しかしその声は、友人に届くはずがなかった。
もう、何もかも遅いのだ。
私は、見ていることしかできなかった。
友人の背中が、みるみるうちに膨らんで、やがて服を突き破る。
それに合わせて足と腕、胴体も細くなる。
顔は笑顔を保ったままその輪郭を崩す。
仕上げに、膨張した背中が剝がれて、
一組の大きな羽をつくった。
友人が、あの日見た蝶に変身した。
「あなたは、私を憂いてくれていた。だから、
一つ聞いておきたいの」
蝶は、私に言った。
「どうして、助けてくれなかったの?」
私は今も、それを見ていることしかできなかった。
高架下の羽音 ZuRien @Zu_Rien
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