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 「違うの?」

 函崎は、からかうみたいに語尾を上げて、滉青に視線を流した。

 「……違い、ます。」

 必死だった。必死すぎて、声が掠れた。その声を聞いて、函崎が表情を変えた。

 「美雨に、なにか?」

 その言葉を聞いて、滉青は、絶望していいはずだった。やっぱりこのひとにとって、自分はなんでもないのだと。美雨だけがこのひとの表情を変えられるのだと。それなのに、滉青が感じているのは、一種のすがすがしさみたいなものだった。そうか、やっぱり。そう、言いたかった。それは、一番星が輝きだした夕空を見上げて。

 「美雨さんじゃ、ないです。」

 今度の声は、掠れなかった。いっそ明るいくらいの声が出た。それを聞いて、函崎は、硬くなっていた頬を笑みに戻した。

 美雨ではない。それが、このひとの全てなのだ。

 無駄だと分かっていた。絶対に無駄だと分かっていたけれど、これ以上言葉を自分の中に閉じ込めていたくなかった。

 「好きです。」

 口にできた自分が、いっそ誇らしかった。これまでの人生で、こんなふうに他人に感情を伝えたことはなかった。

 函崎は目を瞬き、首を傾け、俺を? と訊きかえしてきた。

 慣れていると思っていた。函崎ならば、こんな情を寄せられることには。けれど、その様子を見るに、そうではないようだった。

 多分、と、滉青は思う。

 多分このひとは、性欲を向けられることにはひどく慣れていても、恋情を向けられることには全然慣れていない。だから、もしかしたら、押し切れるかもしれない。強い情を向ければ、函崎はこちらを向くかもしれない。もしかしたら。

 けれど、滉青にはそれができなくて。

 「……はい。」

 頷いてから、これでいい、と自分に言い聞かせる。恋をするのははじめてなのだから、振り向いてもらえなくても、思いを伝えられただけでも上々だと。

 「あの、美雨さんもです。」

 「美雨?」

 「はい。美雨さんも、あなたのこと、好きなんですよ。言えないだけで。ずっとずっと、言えないだけで。」

 函崎は、しばらく黙って、その場に立っていた。滉青は、そんな彼をじっと見つめていた。この機を逃せば、もう姿を見ることもかなわないひとだ。

 「美雨が……。」

 滉青に向けてではなく、完全な独り言として呟いた後、函崎は踵を返して観音通りの方へと歩いて行った。滉青なんて、もう見えもしていないみたいに。

 滉青は、泣きたい気持ちでしばらくその場に突っ立っていたけれど、ぐっと唇を噛み締め、駅に向かって歩き出した。決めていた。函崎は振り向いてはくれない。それならば、どこまででもいい、気まぐれに電車に乗って行こうと。降りたところに、また新しい恋が落ちているとも思えない。観音通りを離れれば、野垂れ死にするだけかもしれない。それでも、行くのだと。

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観音通りにて・ヒモ 美里 @minori070830

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