18

 遠回りをしたから、美雨のアパートまでは徒歩10分。函崎はなにも言わず、じっと前を見て歩き続け、滉青はマグカップを抱えるようにしながら、ちらちらと時折、函崎の白い横顔を盗み見た。街灯もまばらな細い路地でも、函崎の白い頬は、ぼんやりと発光しているみたいに澄んで見えた。

 なにか言いたい。

 滉青は、そんな感情で、喉を焦がしていた。

 自分がなにを言いたいのかが分からないのに、ただ、なにか言いたい。つまりは、函崎にこっちを向いて、なにか言ってほしいのだ。美雨のことしか頭にないのであろう函崎に、少しだけでいい、ほんの少しでいいから、こっちを向いてほしい。

 それなのに、言葉の一つも思いつけないから、ずっと胸が苦しいし、喉が熱い。

 美雨の部屋は、アパートの二階の角部屋。滉青と函崎は、その灰色のドアの前に立ち、一瞬目を見かわした。そして、短い沈黙の後、滉青が部屋の鍵を開けた。函崎はこの部屋の鍵を持っていると美雨は言っていたけれど、彼はこの前部屋に来た時も自分で鍵を開けようとはしなかった。

 招き入れられないと、部屋に入れないタイプの妖怪みたいだ。

 滉青は、ざわめく胸をそんなふうに誤魔化しつつ、靴を脱いで部屋に上がった。函崎も、後についてくる。

 リビングで、テーブルの上にマグカップを二つ並べて置いた。函崎は、その様子を、やっぱり黙って見ていた。

 白い、ごく殺風景な部屋に置かれた、小さなテーブルと、クッション、マグカップ。滉青からすると、それらは別に、大きな変化とは思えない。なんなら、そんなもので自分を変えようとしている美雨が、痛々しいくらいだ。美雨も、函崎も、変化を大きくとらえ過ぎているのではないかと思う。それでも、静かに立って、部屋の中を見まわす函崎の、感情の色の浮かばない白い顔を見ると、滉青はもう、なにも言えない。

 美雨も、函崎も、変化を大きくとらえ過ぎている。

 確かにそう思うのだけれど、それはつまり、滉青が美雨のことをなにも知らないということにもなるだろう。もちろん、函崎のことも。

 これまで滉青はずっと、誰のことも知ろうとしなかった。一緒に住んでいれば、飼い主の性格や過去は、段々透けて見えてくる。でも、それらからはずっと、目を逸らし続けてきた。知らないふりばかりしてきたのだ。そうしなくては、暮らせなかった。おんなや男の間を周遊するみたいに生きてきたのだ。情報が多すぎて、疲弊してしまう。その結果、今も、いくら知りたいと願っても、美雨や函崎のことを知るための手立てが一つも思い浮かばない。

 悪いのは、結局、俺自身だ。

 滉青は、じっと佇んでいる孤独な白鳥みたいな函崎を見つめながら、そう心の中で呟いた。

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