16
滉青が次に函崎と会ったのは、雨の降る夜だった。美雨は観音通りに出勤していて、滉青は美雨に頼まれたマグカップを買いに、駅前の雑貨店にいた。これまでは、コップがなかったのでペットボトル飲料を直飲みしていたのだけれど、出勤前、目覚めの珈琲を飲みながら美雨が、珈琲はマグカップで飲んだ方がおいしいわね、と言ったのだ。美雨が家具類をほしがるのは、どんなに些細なものだとしても、それがはじめてだった。部屋には滉青が買ったテーブルとクッションを置いていたけれど、滉青も美雨に気を使って、それ以上勝手に家具を増やそうとはしなかった。
女性客しかいない、白とピンク色がベースになった雑貨屋で、来る店間違えたな、と思いながらなるべくシンプルなマグカップを探しだし、会計をすませた滉青は、ふと顔を上げ、駅の方から出てくる、黒い傘の男に目を止めた。スーツ姿に革靴のその男は、別に目立つような恰好はしていなかったのだけれど、あきらかに、周りの男たちの目を引いていた。すれ違う男が、ほぼ確実にその男を振り返る。そして、おんなはその反対に、怖がるみたいにその男から目を逸らす。
函崎だ。
その男の顔は、傘に隠れて見えなかったけれど、確信だった。滉青は、反射的に店を飛び出して、その男を追いかけていた。
「函崎さん!」
雨の中、傘も差さずに水を跳ねかせて走り、黒いジャケットの背中に、自分でも少し驚くほどの必死さで呼びかける。すると、黒い傘の男は全く驚いた様子も見せずに足を止め、静かに振り返った。
「ああ。」
函崎は、滉青を見て、少し笑った。このひとは、こんなふうに呼び止められることにすら、ひどく慣れているのかもしれなかった。
「滉青くん。」
それは、あの日床に書いて教えた漢字まで覚えていそうな、くっきりとした発音で、滉青は、そのことを自分でもどうかしていると思うくらい、単純にうれしく思った。そして、そのうれしさに押しつぶされそうになって、次の言葉を探せないでいる滉青が口を開く前に、函崎が、滉青が持っていた、包装されていない二つのマグカップを見て、軽く首を傾げた。
「美雨のところにいるんじゃないんだ。」
「あ、います。」
「美雨は、そういうの嫌がるでしょ。」
「美雨さんに、頼まれたんです。」
もしかしたら、迎えに来てくれるんじゃないかって、思ってて。
そう言った美雨の、色のない唇を思い出した。函崎と暮らしていた頃だけ、家があったと言った彼女も。
「……美雨に?」
「はい。」
滉青は、無意識にマグカップを抱え込むようにしながら、函崎と向き合っていた。
「……あの部屋に、なにか、物を?」
函崎の声音は、静かで揺れがないようでいて、内にひきつるような違和感を感じさせた。その違和感に意識を持って行かれながら、滉青は、ただ黙って一度、頷いた。
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