郷里の花

@natama

郷里の花

山形ではまだ戦前のような雰囲気が漂っている。

雑草がざわざわと道端に生い茂り、奥には幻影のような山が見える。

空や川は、色を忘れたように静かだった。

辺りでは、ただ稲がしゅらしゅらと風に身を任せて揺れていた。

鼠色の古い帽子をかぶった老人が、がたがたと音を立ててトラクターを動かしている。

手拭いをほっかむりにした老婆が、ぎゅっと詰まった野菜をゆっくりと運んでいる。

車が通る気配なんて一切ない。

ただ、激しい太陽がぼんやりと草々を照らし、みいんみいんと蝉の鳴き声が残響していた。

夏休み。マサルは母方の実家へと帰省していた。

この畦道の向こうに、マサルの実家はあった。

東北といえど、やはり夏は暑い。

汗がだらりと垂れ、瑞々しい風がゆらっと流れる。

山の上には、もわもわとした入道雲が浮かび、空の上で悠然と遊んでいた。

それがマサルには神秘的に見えた。


喉が乾いたマサルは、リュックから麦茶を取り出した。

水面が、ちゃぽちゃぽと生き物みたいに揺れる。

一寸温くなっていた。

ごくごくと飲む。ぬるく湿っぽい味が、舌に残った。

涼しい風がびゅーっと吹いて、稲がさーっと靡く。

麦茶のボトルをリュックに戻すと、マサルはまた歩き出した。

畦道の先に、小さな橋がある。

その向こう、蝉の声に包まれた瓦屋根が、ちらりと見えた。

マサルは麦わら帽子を大事そうに押さえながら、一歩ずつ実家に近づいていく。

夏の始まりの風が、マサルを夢へ連れていった。


雲がふわりと影を落とし、日光がきらりと差し込む。

不思議な雰囲気が家を包みこんでいた。

窓に光がぎらぎらと反射している。

古びた岩の塀がずらっと囲い込んでいる。

玄関の引き戸はぴたりと閉じていて、

表札がしゃかりと光っていた。

見覚えのある家なのに、どこか違う気がした。

マサルは立ち尽くしていた。

迫られている気がして、マサルはただぼーっと立ち尽くすことしかできなかった。


しばらく経つと、がちゃっと扉の方で音がした。

お婆ちゃんが、穏やかな顔で立っていた。

マサルは足場を得た気がして、ふうっと息を吐いた。生きた心地がした。

「あら、マサルかい。大きくなったねえ…。ほら、入りな。」

懐かしい声で、マサルは不思議な安心感に包まれた。


家の中は静寂が漂っていた。

隙間風だけがひゅいと吹き込む音以外、何も聞こえない。

まるで、青く若い熟す前の果物のようだ。

嵐の前の静けさと言おうか、いや違う。

何にも形容できないような、胸のどきどきとノスタルジーを感じる。

何十年も歴史が刻まれたはずなのに、ここにある全てが生き物のように鮮やかで、森の中を彷徨っているようだ。


けろんけろん、ざわわ…ざっざ、つく、つくつく…


自然と蛙の鳴き声や、さざ波の音や、蝉の鳴き声が聞こえてきた。

どこからか、誰かの息づかいが届いた気がして、

マサルは思わず背筋を伸ばした。

ここは幻なのだろうか?

過去に引き戻されてゆくような…。

感傷が脳裏を走り出すような…。

トランス状態のようなものに覆われてゆく…。


マサルは息を吸い込んだ。


ほおうしい、つくっつくっつく、くぅおわああん、ぼぉおおうううん…

けろっろぉん、けろぉん、けろ、け、け、けろぉおん…

ほおうしい、つくっつくっつく、ぎゃありいいぃん、しゅぉぉおおうん…

ほぉおう、ほおぉう、ほぉおうん、ほおぉううん…


優しい霧の中へと包まれてゆく…

眼を閉じると夏の感情がじぃわぁっと滲んでゆく…

嗚呼、嗚呼、嗚呼、

マサルはもう一度、すぅうっと、さっきより息を大きく吸った。

鳥が呼んでいる、空が共鳴する、蝉が遊んでいる、蛙が詠っている…



…………る?、さる?、まさる?まさる?」


段々と大きくなって残響する。

まるで、まだ青い果物のように。

マサルは目覚めた。


そこは、まだ玄関であった。

とても静かで、窓の煌めきと隙間風が溶け込んでいるだけだった。

カーテンはモノクローム色に染まり、少しずつ夕暮れ模様が近づいていた。

「起きたかい?あんた玄関で寝とったよ?」

一寸微笑みながら、お婆ちゃんが言う。

マサルの頭の中は真っ白だった。


夕暮れが窓の奥でぼわぁんと輝いている。

入道雲はどこかへ行ってしまったが、それを探す気力はマサルにはなかった。

ただ、時間が経つごとに沈んでゆく。

その風景がマサルには、夢のように思えた。

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