第8話



 ……瞳を開くと、星が見えた。



 一瞬炎の記憶を思い出して背中にゾワと悪寒が走る。

 身を慌てて起こした。


 パチン……と火の中の枝が爆ぜる。


 側に人がいた。

 あの吟遊詩人の青年だった。


 エドアルトは周囲を見回す。

 森の中。

 湖のそばだった。

 月が静かな水面に浮かんでいる。

 側に鎧と、大剣があった。

 胸に十字架が掛かってる。


「……その十字架」


 エドアルトは黒い瞳を上げた。

 吟遊詩人はこちらは見ずに、ただ炎の光が照らす整った横顔だけを見せている。


「聖なる力が宿っているね。その剣のように元々施されたものじゃなくて、長い時を掛けて宿った魔力の結晶のようなものだけど」


 神官だった母が幼い頃からずっと身につけていたものだった。

「これからも旅の時は身につけるといい。お守り程度ではあるけれどね……悪しき力を弱めてくれるよ。それがなかったらあの闇の力の中で君を見つけられなかったかも」

 エドアルトは十字架を握りしめた。


「……ありがとう…………ございます……」


 少年が涙を手の甲で拭うのが視界の隅に見えた。


 出会った時から分かっていた。

 心優しい少年。

 故郷には待っている人がいる。


 ……彼は、同じ旅の境遇でもメリクとは違うのだ。



「不死者には君は関わらない方がいい」



 メリクは静かな声で言った。

 そうなりたいと望んだことは一度も無いけれど、

 彼らと関わって行くのは多分、自分のような人間なのだろう。

 まともな心を持つ者があえて、死霊を相手になんてすることはない。


 本当は無謀なことだったのだから、自分が強く止めてやるべきだったのだ。

 こうして傷を負った後に助けてやるくらいならば。

(でもどうしようもない)

 無謀な場所へ赴こうという他人を、猛烈に、必死に止めたいと思うような情熱が、

 どう自分を𠮟りつけてもメリクの中からは生まれて来ない。

 

 何故貴方はそんなに私を止めるのかと問われた時、

 無事でいて欲しいからだと、欺瞞でも口に出せばいいのは分かっている。

 でも嘘はもう付きたくないのだ。


 自分のことであれ、

 他人のことであれ。


 メリクはサンゴール王国に生きた頃、毎日嘘をついていた。

 それは自分の為ではなく、間違いなく他人の為についていた嘘だったから。

 人間が嘘をつくのは、人間世界において、誰かと生きて行きたいと思うからなのだ。

 いい嘘も、

 悪い嘘も、

 どっちもあるが結局誰かがいて、誰かと上手く生きて行く為のもの。



 ……メリクはもう、誰一人いらなかった。



 たった一人の愛する人さえ捨てて生き延びて来た。

 他人が、それ以上になれるはずがない。


 無意味な嘘などつきたくない。

 それなら果てしない孤独の方がずっとずっとマシだ。


 メリクはそう強く思ったが、今は口にしなかった。


 それこそ、この目の前の少年がメリクのそんな心境など、知る必要は一切ない。

 彼はこれで不死者という存在を学んだ。

 これからは安易に近づいたりしないだろう。

 彼を故郷で待つ家族が喜ぶ。

 それでいい。

 多くのことを考えるのを止めて、メリクはただ短く告げた。

 自分はもはや人助けなどに興味は一切持てないが、

 戦災孤児だった自分が今日まで生きていることには、

 何人かの、人助けの精神が関わっているのだから。

 自分の感情などに関わらず、そんな自分が少しくらいそういう行いをしても、

 彼らから貰ったものを微かに返しただけだ、という理由で済ませていい。



「人助けならどれだけでも出来る。でも命は、一つしかない」



 エドアルトの胸に青年の言葉は響いた。

 自分がどれだけ無謀なことをしようとしていたか、分かったのだ。



 ぱちぱち……と静かに枝が燃える。



「…………あの」



 空を見上げていたエドアルトはふと、口を開いていた。

 ずっと胸にあった疑問だった。

「不死者は……どうして罪のない人を襲うんですか?」

 メリクはエドアルトの方を見る。


「霊が人を襲うなら、悪人とか罪人とか、そういう悪い人を襲えばいいのに。

 どうして彼らは罪もない……平穏に暮らしてるそういう人を襲うんですか?」


 子供の問いだった。

 

 メリクは霊がその時になれば、悪人も善人もいとわず殺すことを知っている。

 それに恨みによる繋がりを考えれば、霊にとって相手はすでに善人ではない。


 ……だが昔から人の書く物語では、確かに霊は善人の所に不意に現われて不幸を招く、そういう描き方をされる。


 世界の真理をまだ知らない子供の問い。

 答える義理もなかった。……でも何となく、答えていた。


 エドアルトのこの、夜色なのにその中に星が瞬くような、無垢な瞳のせいだろうか……。


「……もしかしたら同じなのかも」


「え……?」

 エドアルトが寝そべったままメリクの方を見た。

 魔術師の青年はどこか、遠い方を見て呟いていた。


「不死者にとって、この世の悪人や本当の罪人は自分の同胞なのかも。

 魂を悪意に染めたという意味で、彼らはもう魂が死んでしまっているんだよ。

 だから『同胞』を襲いはしない」


 エドアルトは驚いた。

 自分では考えもしなかった答えだった。


「彼らは生きていて、温かくて、優しい光が嫌いなんだ。

 あまりにも自分達と違くて疎ましいんだよ。だから襲うんだ。

 ……でもそれは世界の大半が幸せである証拠だよ。

 死者と生者は明確に分かれて存在していた方がいいんだ」


 吟遊詩人が笑った。

 それは、自分の言った事に対して、苦笑するような笑い方だった。


「……生きてる世界が違うんだね。だからお互い関わらないことが一番いいんだよ」


 含みを持たせる答えだった。

 自分と目の前の青年もそれくらい違うのだろうとメリクは本能的に感じ取ったからだ。


 関わるつもりはなかった。

 もう二度とないだろう。


「あの……メリクさん……ありがとうございます。助けてくれて……」


「助けるつもりはなかったよ」

 火を枝で静かに整えながらメリクは答えた。

「君を助ける為に命を危険に晒す義理、俺にはないからね」

「でも……」


 

 ――確かにこの人は俺を助けに来てくれた。あんな地獄のような場所まで。



 あの眩しい光……魔力の弱い自分でも分かる。あれはすごい魔法だった。



「ヨークの主人が金貨を積んだんだ」

 メリクは言った。

 金貨の入った小袋を見せる。

「見ず知らずの人間に払うには多すぎるよね」

 彼はそう言って笑う。

「だから俺には礼なんて言わなくていい。報酬の為にやったことだからね。でもヨークに戻ったら、彼には感謝するんだよ」


 はい。


 エドアルトは頷いた。

 眠くなって来た。

 目を閉じると、また背筋が凍り付くあの感覚を思い出しそうになる。

 でも傍らに人の気配があって、なんとなく……これは乗り越えられる怖さに違いないと思えた。


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