最終話 泥入れ鳥の子
それから間もなく、リビングの壁を貫通するように、四方八方から魔物のオーブが家の中に侵入してきた。
死にかけの花子の体を奪いに来たのだろうかと、アバドンは刺身包丁を振り回す。
死の臭いを嗅ぎつけた魔物の魂はその斬撃で数分足らずで駆逐され、アバドンはレベルの上昇と共に致命傷を回復した。腹を刺された傷口が塞がる。
玄関で物音がし、間もなく夕陽台の肉体を借りたアルミラージがリビングに現れた。
「あ、もう終わった感じ? 流石の戦士サマってやつ?」
アルミラージはキョロキョロと室内を見回し、大体の経緯を把握する。
「貴様から聞いた通りだった」とアバドンは刺身包丁を掲げる。
「戦士は剣を持たなくてはな」
「ああ、攻撃力が爆上がりしたって意味? 言われてみればオーブのオの字もないもんなこの部屋。もう全部やっちまいやがったのか」
まあ、アゲアゲなのはいいにしても、刃物はどっかに隠しとけよ。警察にパクられるから。
という助言を受け、アバドンは包丁を地面に落とす。泥沼に沈み込み、万事解決になる。
「オーブをこの部屋に誘導したのは貴様か」と尋ねるアバドン。
「ああ、そうだよ。……ただ尻尾巻いて逃げるだけってのもアレかと思って、あちこち飛び回りながら魔物の魂に声かけたんだよな。『死にかけのやつがいるから憑りついてこい』ってな。経験値の足しになっただろ?」
「お陰で助かった。こう見えてさっきまで瀕死の重体だったのでな」
「見りゃわかるよ。腹ンとこ血塗れだし。……ていうか、死にかけと言えばそいつもか」
二人して、黄色い土の上に横たわる花子を見る。
「俺は今から救急車を呼ぶ」とスマホを取り出すアバドン。
「……一応聞くけどよ、見殺しにするって選択肢は」
「ない」と断じる。
「俺が殺生するのは平和のためだけだ。例えそれが見殺しであってもな」
「こいつはもう平和を乱さないだろうから殺さねえって? そりゃいくらなんでも楽観が過ぎやがらねえかなあ。……ていうか現実的な話、瀕死のこいつはまた別の魔物に憑りつかれるかもだぜ? どーすんだよ、もっとヤバめな仕上がりになったら」
「そうならないためにも、俺は魔物の魂をこの世界から駆逐せねばな」
アルミラージは耳元の髪をかき上げつつ、「意見は変わらねえみたいだな」と目線を外した。
アバドンは救急車を呼ぼうとスマホをポケットから取り出すが、泥が機器の内部に入り込んで破損しており起動せず、固定電話も地中に埋まっているのだろう見当たらなかったため、「スマホを貸してくれないか」とアルミラージに頼む。
「俺に聞くなよ。本人に頼みな」
と、直立したままアルミラージはガクンと項垂れ、次に顔を上げるとキョトンとした面持ちになっていた。
「起き抜けにすまないがスマホを貸してくれないか。救急車を呼びたいのだ」
美波はアバドンのみぞおちが血塗れになっているのを見、『返り討ちにあったのか』と推測しつつスマホをブレザーのポケットから取り出して、
「私が呼ぶわよ。あなたは安静にしておきなさい」とスマホのロックを解除する。
「いや、俺は平気なのだ。レベルアップで回復したのでな。……救急車を必要としているのは、お前の母親だ」
アバドンは花子に視線を送り、美波はそれに追従することで、ようやく己の背後で横たわっている母親の姿を確認した。
そして視線は母親の方に向けたまま、アバドンにスマホを渡し、母親の元に歩み寄った。
その背中にアバドンは呼びかける。
「お前の母親は自らの意思で瀕死に陥り、 泥の魔物を憑依させた。お前が妬ましくてそうしたそうだ。……交戦の末、俺はその魔物を自らの体内に取り込んで奪うことに成功し、今のそいつは無害だ」
何か話したいことがあるなら話しておけと言い残し、アバドンは119番にかける。
美波は黄色い土の上に横たわる母の姿を、ただ見下ろした。
しきりにえづいているが、それ以上何も吐けるものはないと言わんばかり、口から血混じりの唾液を垂れ流している。
仮にここから生還し果せたとしても、元の健康体とはいかないのだろうな、と美波は冷静な脳で分析していた。
「……何よ」
花子はガラガラの声で呟く。
息も絶え絶えに呪詛を吐く。
「私は、あなたの顔なんて、全く、これっぽっちも見たくないのよ。……本当に気に入らないのよ。……あれだけ勉強ばっかりさせたのに、なんで友達をつくれるだけの社交性があるのよ。死ぬほど思い詰めたくせに、なんで生きているのよ。異能なんか手に入れているのよ」
あなたは恵まれすぎているわ。才能にも機会にも。
そんなあなたが私は死ぬほど憎い。
「……………………………………」
美波はどこかで幻想を抱いていた。
母親が勉強を押しつけてくるのは彼女なりの愛情なのではと。……娘の将来を思って、心を鬼にして厳しくしてくれていたのではと、心の片隅ではそれを期待していた。
しかし花子は、このまま死ぬかもしれないという段になってもなお、美波への愛情を吐露することはなかった。
美波は部屋中の家財がどこかへ消えている中、ヨウムとその鳥かごだけは無事に残されていることを確認し、……あの中に入っていたのがヨウムではなく自分だったら、きっと無事にはしてくれなかったのだろうなと思った。
美波は何も話さなかった。
話が通じる相手じゃないと知ったから、
ただひたすら肩を震わせながら啜り泣いた。
*
それから一ヶ月が経ち、アバドンは都内の小奇麗なマンションの一室で、美波が作った料理を馬車馬のように舌鼓していた。
一連の騒動の事後処理がようやく片付いてきた時分、美波は近況報告がてら自室にアバドンを招き、謝礼にと手料理を振る舞っていたのだった。
「……これで全部なのだけど、足りなかったかしら」
エプロン姿の美波は山盛りの唐揚げを乗せた大皿をテーブルに置き、アバドンの向かいに座る。
ファミリーサイズのテーブルの上には、一縷の空きもないほど料理の皿が犇めいていたが、その半分ほど平らげてなお、アバドンの食べるスピードは全く衰えていなかった。
アバドンは口に料理を詰め込んだまま答える。
「欲を言えばこの倍は欲しいほど美味だが、さしもの俺もそこまで鬼ではない。あと0.5倍ほど追加してくれないだろうか」
「これで全部だと言ったのよ。数字を減らせばいいというものじゃないの」
美波は自らが料理した唐揚げを箸で摘まんで口に運ぶ。満足のいく出来に仕上がっているなと思った。
「料理はどこで習ったんだ?」とアバドン。
「ネットに載っているレシピ通りに作っただけよ。習うも何もないわ」
「俺と交戦した時にキックボクシングのような動きをしていたが、アレもネットを見て参考にしたのか?」
「見よう見まねでね。流石に一時間足らずの動画視聴では完全再現とまでいかなかったけど」
それであれだけの動きが出来るのだから大したものである、とアバドンは感心しつつ、チャーハンを小皿に取る。彼の強い希望で卓上のラインナップは脂っこいものばかりだった。
そして、この会は美波の近況報告会が主であることを彼は思い出し、
「母親の容体はどうなのだ」と尋ねた。
美波は咀嚼していたものを嚥下してから、ぶっきらぼうに答える。
「さあ? 死んではいないみたいよ。快方に向かっているとも言い難いらしいけど」
花子はあのあと病院に運び込まれ、薬でやられた胃を洗浄したりと治療したはいいものの、心身ともに後遺症があり、現在も入院しつつリハビリ生活を送っていた。
美波はそのような花子まわりの手続きを、単身赴任中の父親を無理やり呼び戻してやらせ、……自らは、母親から独立するために奔走していた。
父親に一切の事情を説明して一人暮らしを認めさせ、多忙を理由に塾も一つを除いてほとんど解約し、新たにマンションを借りて移り住み、インフラを整えたりとを、通学しながら一人でしてみせた。
美容院に行って頭髪もセミロングに整えてもらい、表情は未だ朗らかではないものの、変に強張ったりはしなくなっていた。
「というか、そっちはどうなの? ネルヌルは大人しくしているのかしら」
アバドンは手羽先にむしゃぶりつきつつ答える。
「大人しくしすぎているほどだな。本当に俺の中に存在しているのか不安になるくらいには」
「まあ、無害ならいいんじゃない? ……それにしても、無茶なことをするわね。魔物を駆除するんじゃなくて、自分の中に閉じ込めて飼い殺すなんて」
「あれがあの状況における最適解だと思ったのだから仕方ない。……もっといい方法を編み出さねばな。自分で自分のみぞおちを刺すなど、出来ればしたくないのだ。死ぬことはないと分かっていてもな」
「……ほーんと、そうよね」
と、美波はアバドンの左足をズダンと踏む。骨が折れかねないほどの勢いで。
「私のことを救ってくれたことには本当に感謝しているし、頭が上がらないのだけど、……いくら他人を救うためとはいえ、そう易々と自らを瀕死に陥らせていいわけがないわよね」
美波は厳めしい目つきになりつつ、アバドンの左足を踏みにじる。
「もしあなたが相打ちなりなんなりして死んでしまっていたら、私は酷く落ち込んだでしょうね。自分のせいで他人を死なせてしまったことに後悔してもしきれなくなり、自責の念を極めてその果てに、……ということも有り得たのよ」
「……いや、だからその、みねうちの剣には攻撃対象のHPを必ず1以上残すという特殊効果が」
「あるから死なないんでしょ?
美波は食い気味に詰め寄る。
「これからもあなたは、幾たびも死地に赴くことになるのでしょうね。……けど、命を軽んじるような方法は禁止して頂戴」
平和の戦士であるあなたにはこう言った方が響くと思うから、あえて押しつけがましいことを言うけれどね。
世界に平和が訪れるその時まで、あなたは死んではいけないのよ。……と、美波は真剣な眼差しでアバドンの目を見つめた。
「………………………………」
アバドンは美波の主張を、頭では理解していた。
が、それと同時に、やはり彼はこう思っていた。
『俺が瀕死になることで解決するような局面にまた陥ったとしたら、俺は再びそうするのだろうな』と。
ただ、その意見を口にしたところで議論が泥沼になることは明らかだったから、アバドンは何も返事せず、泥溜まりになって玄関に滑り逃げていた。
「出ていってもいいのかしら。残り全部私が食べてしまっても」
まだデザートもあるのにねと告げると、泥溜まりは逡巡の後、リビングにソロソロと戻ってきた。
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