第十話 ネルヌル
戦況は泥沼の様相を呈していた。
アバドンが花子に木の棒を振るうと、木の棒はただ泥の体をグニャリと通り過ぎるだけで、花子は何ら痛がるなどの反応を見せず、そうしている間にも足元の泥沼は拡張していき、今やリビングの床全体が泥沼と化していた。
常に足踏みしていないと深みにはまってしまう泥沼に。
ネルヌル。沼地の魔物。
泥沼の姿形をし、近付く者を自らの体内に沈みこませて窒息させ、死に至らしめる
アバドンがネルヌルと花子の魂を発見できなかったのは、それら魂が地中奥深くに身を潜めつつ、虎視眈々と狩りの時を待っていたからだった。
さて、とアバドンは勝利の糸口を探りつつ考える。
花子ごとネルヌルを殺す方法はごまんとあるが、ネルヌルだけ殺して花子だけ生かす方法となると、あまり簡単ではなかった。
とりあえず探り探り立ち回ってはいるものの、泥沼に足を取られて体力の消耗が著しく、何らかの革命的なアクションを起こさねばならない局面に立っていた。
「服毒自殺を図るほど追い詰めていたのだな」
アバドンは泥沼に沈みこんでいく両足を、左右交互に引き抜きつつ呼びかける。
「さぞ辛いことがあったのだろう。可哀相にな」
と、心にもないことを言う。
現在、花子の魂は昏睡状態にある。肉体の瀕死状態とリンクして。
また、一つの肉体に複数の魂が共存している場合、その全ての魂が肉体の状態とリンクするわけではない。美波がプレハブ小屋で倒れた時、リンクして意識を失ったのは美波の魂だけで、アルミラージの魂は覚醒していた。
では、
何かしら呼びかけて花子の魂を目覚めさせることで、ネルヌルの魂を昏睡させようと。
「………………………………」
ネルヌルは反応しない。自らは何もせず、アバドンが力尽きるのを待っている。
「プレハブ小屋に隠しカメラを仕掛けていたようだな。……まあ、案ずる気持ちも分かる。夕陽台は以前にもあのような企てをしたのだろう? 異性と強制的にまぐわろうとしたことがあったのだよな。……貴様は娘を心配する純然たる母親心から、隠しカメラなど取り付けたのだろう。涙ぐましいことよな」
ネルヌルはなおも反応しない。口内から眼窩から耳の穴から泥を垂れ流しつつ、頭皮の毛穴から泥を滲み出しつつ、そこに佇んでいる。
「
ここでようやく、ネルヌルは一定の反応を示した。
俯きがちだった顔を僅かに上げた。
「聞くところによると貴様は知的ぶるのが趣味らしいな。テレビで討論番組やニュース番組を視聴しては、そこに出演するコメンテーターの発言に茶々を入れ、『自分はこんな難しい話題にもついていけるのだ』と自らの知性を褒めそやす。そして娘にも賢い人間になるよう強制するが、――思うに娘は、貴様の想定より賢くなりすぎたのではないか?」
とうに貴様を上回ってしまったのではないのか? と吐き捨てる。
「しかもその上、娘はゴートに目覚めたときた。卓抜した知性を育み、そのうえ超人的な異能まで手にした娘に、貴様は強い嫉妬を覚えたのではないか?」
そして自ら死に瀕し、貴様はゴートになろうとしたのだろう。
労せず娘に匹敵しようとしたのだ、とアバドンは嘲る。
「そして、死に物狂いで手に入れた力が、その気色の悪い泥沼というわけか。……寓話的というかなんというか、どこまでも無様な女だな、貴様は」
「なにガわカルノヨ」
と。
花子はなおも眼窩と耳の穴から泥は垂れ流しつつも、活舌が不明瞭ながらも、口から出すものは言葉になっていた。
まず第一段階はクリアした、とアバドンは思った。
花子の魂が発話できる程度には優位になり、相対的にネルヌルの魂が劣位になったためだろう、泥沼と化していた床一面はその半分ほどが干上がって黄色い土になっており、これでいくらか戦いやすくなったと思った。
が、安心していたのも束の間、彼の右隣に広がっていた泥溜まりから、人の手の形をした泥の塊が飛び出し、アバドンの足首を掴んでいた。
アバドンは即座に足を振り上げ、泥の手の手首を棒で叩き切り、泥溜まりから飛び退くが、その行動も着地地点も予め推測していたとしか思えないことに、彼の着地地点には既に泥溜まりが回り込んでいて、そこから飛び出した泥の手がまたもアバドンの足を強く掴んだ。
全体的な泥沼の体積は減少したものの、その泥沼には目覚めた花子により知性が付加され、総合的に相手の戦力は強化されてしまった。
*
泥沼の攻撃は多岐にわたった。
引きずり込むだけではなく、叩く、躓かせる、滑らせるなど、あらゆる方法でアバドンの足を引っ張り、ただ泥沼の上で足踏みしていればよかった時と比べ、アバドンの体力の消耗は格段に激しくなっていた。
「あなたの魂胆は見え透いているわ」
花子は、明瞭な活舌で唱えつつ得意げに鼻を鳴らす。
「隙を見て、花実ちゃんを人質にするつもりでしょう。バレているのよ、あなたがさっきから鳥かごの方を気にしているのは」
事実そうだった。
アバドンは周囲の家財などがことごとく泥沼に呑まれていく中、鳥かごの真下の地面だけはフローリングのままであることを確認していた。……花子はあの鳥だけは大事にしているのだなと判断し、有事の際にはその鳥を犠牲にすることも視野に入れていた。死なせてしまったら焼いて食べて供養するつもりでいた。
「美波も男を見る目がないわね。こうも魂胆が見え透いた男ではね。……今からでも目に浮かぶわよ。あなたは美波とのデートの最中に他の女に目移りするのよ。美波より可愛くて綺麗な女の子しか都会にはいないんですからね。そしてあなたの目移りはバレバレだから美波に幻滅されるのよ。……ガッカリするのでしょうね。自分はどこまでいっても女として駄目なのだと深く傷つくのでしょうね。……私は孫の顔なんかよりも、そうやって落ち込んでいる娘の顔の方が見たいわ」
「おい待て、今のは聞き捨てならんぞ」
アバドンが木の棒を花子に向けて言うと、泥の猛攻がピタッと止まった。
「何が? うちの娘が可愛くないという話かしら。ごめんなさいねただの謙遜なの。そんなことは思っていないわよ。あの子はムッとはしているけど笑えば可愛いと思うわよ? まああの子が笑っている顔を私は見た記憶がないけれど」
「貴様、娘の幸せを願っていないのか? だからこそ過剰に勉強を強いて、よりよい進路を辿れるよう導いているのではないのか? いささかやり過ぎではあるし決して褒められたことではないが、根底には娘のためを思う親心が」
「ないわよ、そんなもの」
と、花子は言い切った。
「私は周りが望むから恋人をつくっただけで、周りが望むから旦那をつくっただけで、周りが望むから娘をつくっただけ。そこには何の思い入れもないわよ。最初からそうなの」
「……意味不明極まるな」
アバドンは息を整えつつ、花子を睨む。
「何の思い入れもないのなら、夕陽台を精神的に死ぬほど追い詰める理由はなんだ。あれならまだ無視してやった方がマシだ」
「あの子が知性に興味を持ったからよ。あの子の苦悩はあの子自身が招いたことなの」
花子は眼球と瞼の隙間から泥を流しつつ、少なくとも晴れ晴れとはしていない表情で呟く。
「あなたも聞いたでしょう? 美波は小学生の頃から小賢しかったのよ。一丁前に私の行動分析なんかしちゃってね。私が好んで見ていたテレビ番組の録画だかなんだかをネットで見て、コメンテーターのセリフを私の前で真似て、自然な感じを出すために友達と電話してるフリすることで私に構ってもらおうとしたのよ。……ほーんと、」
可愛げのない子。
と吐き捨てつつ、花子は攻撃を再開する。泥の手を立て続けに繰り出す。
猛攻に次ぐ猛攻でアバドンに口を挟まれないようにしつつ、一方的に捲し立てる。
「女が学校に行くのは社交性を身につけて伴侶を見繕うためでなくてはならないの。女が知的であろうとしてはいけないの。それが常識なのだから」
泥沼から飛び出してくるのは、手ではなく棘の形状になりつつあった。
鋭利な棘の先端が、アバドンのブレザーを掠めて裂く。
「それなのにあの子は知的ぶろうとした。私に構ってもらえないのを知性で解決しようとした。女としての正しい生き方を放棄しようとしたのよ」
だからお望みどおり、好きなだけ勉強させることにしたわ。
「勉強しか出来ない無能に育て上げるためにね」
と、花子が気持ちよくなっている隙に、アバドンは泥沼からの攻撃が徐々に手薄になっていることを把握している。
今や、花子の覚醒率はかなりの高さまできている。長台詞を淀みなく話すことが出来ている。すなわち相対的にネルヌルの方が昏睡状態に陥りつつあるはずで、その証左として攻撃が弱まっているのだと判断した。
が、攻勢に転じようと花子に一歩踏み出した直後、アバドンの全身は真下から突き上げる泥の柱に呑まれてしまった。
その柱が溶けて床の上に流れ出すと、アバドンは泥の手に首を絞められ、足が床に着かない高さまで持ち上げられていた。木の棒も泥に持っていかれた。
「ここぞというタイミングで一気に動かせるよう、泥を一箇所に纏めて地面の中で待機させていたのよ。……さて、」
殺す前にお喋りに付き合ってもらいましょうか。
一方的に話すのが好きなのよ、私。と呪詛する花子。
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