訳アリ陰陽師、現代東京で古物商を営む  〜依頼人が持ち込んだのは日本神話の厄ネタでした〜

オテテヤワラカカニ(KEINO)

プロローグ

第一話 禁断の神宝、天逆鉾の胎動

 宮崎の霧島連山の更に奥の秘境。


 そこは、地図からその存在を意図的に消されたかのような、忘れ去られた土地だった。

 鬱蒼うっそうと生い茂る原生林が天を覆い、昼なお暗い森の奥深く、その廃社はいしゃはひっそりとたたずんでいた。


 苔に覆われた鳥居は半ば崩れ、社殿しゃでんであっただろう木造建築は朽ち果て、自然に還ろうとしている。

 

 一歩踏み入れると、虫の発する音が消えた。

 そこは命の営みさえも拒絶するかのような、静寂が支配していた。


 じんわりと汗をかいていた肌に冷ややかな風が刺ささる。


 鳥のさえずりは途絶え、風が木々を揺らす音すらも、まるで分厚い壁に吸い込まれるように消えていく。

 湿った土と腐葉土の匂いに混じり、微かに、鉄錆のような血の匂いが漂っているのを、橘 澪たちばなみおだけが感じ取っていた。


「おい、澪。こっちの石碑せきひ、古文書の記述と一致するぞ!」


 サークルのリーダーである健太が、興奮した声で手招きする。

 彼の足元には、土に半分埋もれた石碑があり、そこに刻まれた古代文字をライトで照らしながら、他のメンバーたちも身を寄せ合っていた。


 彼らは、大学の古代神話研究サークルの面々。


 古文書に記された一つの伝説――日本神話に登場する禁断の神宝、「天逆鉾あまのさかほこ」がこの地に眠るという、荒唐無稽こうとうむけいとも思える記述を信じ、この発掘旅行を計画したのだ。


 学術的探求心と若さゆえの冒険心が、彼らの目を輝かせている。

 しかし、澪の心は鉛のように重く沈んでいた。


 生まれつき霊的な感受性が強い彼女にとって、この場所は尋常ではなかった。

 廃社はいしゃの敷地に足を踏み入れた瞬間から、無数の見えない視線に射抜かれるような悪寒と、鼓膜の奥で低く響くような不快な耳鳴りが止まない。


 それは警告だった。


 この地の静寂せいじゃくは、何かが眠っているからこその静寂せいじゃくであり、それを起こしてはならないという、土地そのものの悲鳴のようにも感じられた。


(ここにいては駄目だ。早く立ち去らなければ)


 胸の内で繰り返される警鐘けいしょうに、澪は無意識のうちにポケットに忍ばせていた小さなお守りを強く握りしめた。

 幼い頃、祖母が持たせてくれた、古い布でできた簡素なもの。


 いつもなら指先に伝わる布の感触と、中に込められた守護の念が、ささやかな安心感をくれるはずだった。

 だが、この土地から発せられる凍えた気配の前では、その温もりさえもかき消されそうだった。


 この感覚を話したところで、仲間たちは非科学的だと笑うだけだろう。

 オカルト趣味だと揶揄やゆされるのが嫌で、彼女は自身の特異な体質を誰にも明かしていなかった。


 それに、この発掘に誰よりも熱意を燃やしていたのは、他ならぬ澪自身だったのだ。


 天逆鉾あまのさかほこの伝説は、彼女を強く惹きつけてやまなかった。


 神代の時代、混沌とした大地をかき混ぜ、国を生み出したとされる神宝。

 しかし、その裏には黄泉の国と深く関わる、禍々しい側面も伝えられていた。


 光と闇。

 創造と破壊。


 その両極端な性質に、澪は自身の内に潜む力と通じるものを感じていたのかもしれない。


「よし、古文書によれば、この石碑の真下に祭壇さいだんがあるはずだ。みんな、準備はいいか?」


 リーダーの号令一下、メンバーたちは手際よくシャベルやツルハシを手に取る。

 澪も、心の動揺を隠すように、黙々と土を掘り始めた。


 ザク、ザク、と乾いた音が静寂を切り裂いていく。


 掘り進めるほどに、澪が感じていた血の匂いは濃くなり、心臓を直接掴まれるような圧迫感が強まっていく。

 冷や汗が背筋を伝い、呼吸が浅くなる。


(何か、よくないものを目覚めさせようとしている)


 その予感は、確信に変わっていった。

 数時間後、ツルハシの先が硬い何かにぶつかる甲高い音が響いた。


 一同の動きが止まる。

 土を慎重にかき分けると、そこには一枚岩の巨大な蓋が現れた。


 表面には、石碑と同じ古代文字で、複雑な文様がびっしりと刻まれている。


 これが石室……。

 誰もが息を呑んだ。


「魔法みたいに開いたりはしないか……。よし、みんな、これを人力で動かすぞ。縁をもう少し掘り出して、テコを差し込む隙間を作るんだ」


 健太の指示で、メンバーたちは再びシャベルを手に取る。

 蓋の周囲をさらに慎重に掘り進め、数人がかりでやっとツルハシの先端を差し込めるだけの隙間を作り出した。


「せーのっ!」


 健太の掛け声に合わせ、数人がツルハシの柄に全体重をかける。

 ミシリ、と石が軋む鈍い音が響くが、巨大な蓋はびくともしない。


「くそっ、重すぎる……!」


 誰かが悪態をつく。

 何度か試みるうちに、全員の額に汗が滲み、呼吸が荒くなる。


 澪だけが、その作業に加われずにいた。

 蓋に近づくほどに、耳鳴りは激しさを増し、足がすくんで動けなかったからだ。


「もう一度だ!息を合わせろ!」


 健太が叱咤しったする。

 メンバーたちは顔を見合わせ、頷き合うと、今度は一斉に力を込めた。


 ゴリゴリ……ッ!


 嫌な音を立てて、ついに岩の蓋がわずかに浮き上がった。


 その瞬間、できた隙間から、これまでとは比較にならないほど強烈な鉄錆のような血の匂いと、淀んだ冷気が噴き出した。

 それはどこか神聖でもありながら、同時に底なしの奈落を覗き込むような、冒涜的な瘴気をまとっていた。


「うわっ!」


 その冷気に、何人かが思わず後ずさる。


「怯むな!あと少しだ!」


 彼らは再び力を込め、今度は横にずらすように押し始めた。


 ゴゴゴ……と重い音を立て、一枚岩はゆっくりと、しかし確実に横にスライドしていった。



 ---



 開いた穴の底は、深い闇に包まれて何も見えない。


 だが、そこから吹き上げてくる冷気は、真夏であるにもかかわらず、肌を刺すように冷たかった。


「やった……!本当にあったんだ!」


 誰かが歓喜の声を上げた。

 恐怖よりも好奇心が勝ったメンバーたちは、次々とロープを使って闇の中へと降りていく。


 澪は躊躇ちゅうちょした。

 行くな、と魂が叫んでいる。


 彼女は再び、ポケットの中のお守りを、今度は爪が食い込むほど強く握りしめた。   

 それが、最後の抵抗だった。


 しかし、その叫びとは裏腹に、彼女の足は抗いがたい力に引かれるように、穴の縁へと一歩踏み出していた。


 闇の底から、何かが彼女を呼んでいる。


 抗えない、甘美な誘惑だった。


 地下は、洞窟というよりは人工的に作られた石室のようだった。

 湿った壁には松明を掲げるための受け皿があり、メンバーがそこに携帯用のライトを置くと、ぼんやりと空間全体が照らし出された。


 石室の中央には、黒曜石を思わせる滑らかな祭壇が鎮座していた。

 そして、その中央に、それは突き立てられていた。


天逆鉾あまのさかほこ……」


 誰かが、畏怖と感動の入り混じった声で呟いた。


 それは、およそ二尺ほどの長さを持つ鉾だった。


 柄の部分は朽ち果てているのか失われているが、穂先だけが祭壇に深く突き刺さり、まるでそれ自体が大地から生えてきたかのように屹立している。

 黒ずんだ金属でできた穂先は、神話の威光など微塵も感じさせない、禍々しいまでの存在感を放っていた。


 ライトの光を鈍く反射する表面は、まるで濡れているかのようにぬらりとしている。

 よく見ると、それが生き物の呼吸のように、ごく微かに、しかし確かに脈動しているのがわかった。

 そして、穂先の先端からは、蛍火のような、淡くも不気味な光が明滅していた。


 メンバーたちが呆然と立ち尽くす中、澪の体は金縛りにあったように動かなくなっていた。

 心臓の圧迫感は最高潮に達し、呼吸すらままならない。


 脳内に、直接声が響いてくる。


 ――来い。手に取れ。さすれば、汝に力を与えん――


 それは男の声のようでもあり、女の声のようでもあった。

 老人のようでもあり、子供のようでもあった。


 幾千、幾万もの魂が混じり合ったような、混沌とした声。

 その声に導かれるように、澪の足が再び、彼女自身の意志とは無関係に一歩、また一歩と祭壇へ向かって進み始めた。


「澪?どうしたんだ、危ないぞ!」


 健太が制止の声をかけるが、澪の耳には届かない。

 彼女の瞳には、脈動する鉾の穂先しか映っていなかった。


 引き寄せられる。

 抗えない。


 まるで、失われた半身を取り戻しに行くかのように、彼女の魂が鉾へと焦がれていた。


 ついに祭壇の前までたどり着くと、澪はゆっくりと右手を伸ばした。

 白く、華奢きゃしゃな指先が、黒光りする金属に触れようとする。

 その瞬間、サークルの一人が慌てて彼女の腕を掴もうとした。


「駄目だ、触るな! 貴重なものだぞ!!」


 しかし、間に合わなかった。

 澪の指先が、天逆鉾あまのさかほこの穂先に触れた。


 その瞬間、これまで彼女をかろうじて守っていたポケットの中のお守りが、悲鳴を上げるようにパンッと音を立てて破裂した。

 布は裂け、中に込められていたはずの護符は一瞬で黒い灰となって霧散し、無残な残骸となって地面に落ちた。


 守りの力が完全に消え去ったのと同時に――世界が爆ぜた。


 凄まじい衝撃。


 それは物理的なものではなかった。

 澪の指先から、灼熱の奔流と絶対零度の氷塊が同時に体内に流れ込んでくるような、矛盾した感覚の嵐だった。


 一つは、天を衝くほどの苛烈で神聖なエネルギー――神気。

 もう一つは、地の底から湧き上がる、万物を腐敗させ死に至らしめる淀んだ瘴気――黄泉の穢れ。


 二つの相反する力が、彼女の血管を、神経を、骨の髄までをも駆け巡り、その存在そのものを内側から作り変えるかのように暴れ狂った。


「きゃ……あ、ああああああああああッ!!」


 声にならない絶叫が、澪の喉から迸る。

 全身の骨がきしみ、筋肉が引き千切れんばかりに痙攣する。

 彼女の体を中心に、目に見えないエネルギーの波紋が同心円状に広がった。


「うわっ!」


「何だ、これ!?」


 近くにいたサークルメンバーたちが、まるで巨大な壁に突き飛ばされたかのように、石室の壁まで吹き飛ばされ、次々と意識を失っていく。


 阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄絵図の中で、ただ一人、澪だけが立ったままだった。


 彼女の体から立ち昇る、黒と金の入り混じったオーラ。


 苦悶に歪んでいたその顔から表情が消え、ゆっくりと伏せていた顔が上がる。


 そして、彼女が開いた瞳は――人間のものではなかった。


 その双眸そうぼうは、溶かした黄金を流し込んだかのように爛々らんらんと輝き、この世ならざる異形の光を宿していた。


 もはやそこに、以前のたちばなみおの面影はない。


 神気と穢れを受け入れた器と化した彼女は、まるでそれが当然の所作であるかのように、祭壇に突き刺さっていた天逆鉾をやすやすと引き抜いた。


 ズシリ、と手に伝わる重み。

 それは単なる金属の質量ではなかった。


 幾千年の時を経て蓄積された神々の威光と、黄泉の国から漏れ出した怨念の重みだった。


 鉾を手にした澪の口元に、微かな、しかし残酷な笑みが浮かぶ。


 彼女は、意識を失って倒れる仲間たちを一瞥だにすることなく、ゆっくりと踵を返した。


 そして、まるで長年住み慣れた我が家から散歩にでも出るような足取りで、地上へと続く闇の中へと消えていく。


 彼女が立ち去った後、石室には不気味な静寂が戻った。


 だが、その静寂は以前のものとは異なっていた。


 祭壇から引き抜かれた鉾の跡から、まるで墨を垂らしたように、じわりじわりと黒い霧が湧き出し始めた。

 その霧は意志を持っているかのように、生命を探し求めるように床を這い、やがて地上へと向かった澪の足跡を追うように、ゆっくりと広がっていくのだった。


 禁断の神宝は、永い眠りから目覚めた。

 そして、一人の少女を依り代として、世界に再びその禍々しい胎動を告げ始めたのである。

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