にらのリハビリ短篇集
ニライカナイ
君はなぜ書くのか
「君には無理じゃないかな……。だって田丸、小説の基礎が出来てないんだもん」
教室の隅、放課後の静けさの中で、松丸の言葉はよく響いた。
「文章力も乏しいし、キャラ作りも雑。プロットの作り込みも甘い。何を伝えたいのか、テーマも主人公の目的も、さっぱり見えてこない。読んでるとイライラするよ。正直、シュレッダー行きのゴミ作品だね」
田丸は拳を握りしめた。けれども、言い返せなかった。事実、彼の書く小説が何一つ面白くないことは彼自身も痛いほど分かっていたからだ。だが、丹精込めて書いた作品をゴミ扱いされ、彼のプライドはズタズタだった。
「俺の作品が面白くないことぐらい、自分が一番よく分かってる。でも、ちょっと言い過ぎじゃないか? 確かに忌憚のない意見が欲しいとは言ったが、何もここまで……。俺だって努力してるのに……」
「努力してるって? 笑わせるなよ。報われないのは、お前の努力が努力と呼べる水準にすら達してないからだろ。大体お前は学校のお勉強すらマトモに出来ちゃいない。現代文の点数もクラスで一番低いし、心情描写も情景描写もまるで読めてない。そんな奴が小説家? 夢見るのは自由だけどよ、せめて現実見てから言えよ」
一言一言が、胸に杭を打ち込まれるように突き刺さる。
「もう二度とこんなゴミみてーな作品持ってくんじゃねーぞ」
その言葉を最後に、松丸は席を立って教室を出て行った。
田丸は何も言えず、その場に立ち尽くした。
机の上には、自分が書いた原稿が無惨に晒されていた。
▶▶▶
気付けば、辺りは闇だった。
いや――違う。黒い空。亀裂の入った灰色の大地。刺さった本、崩れた活字、にじむインクの海。ここは現実ではない。だが夢でもない。
ここは――俺の中。
周囲を見回していると、後ろから声を掛けられた。
「ここは君が作り上げた世界だ。すなわち、君の頭の中に広がる情景を投影した精神世界のようなものだ」
田丸の前に立っていたのは、どこか重々しい威圧感をまとった老人だった。
黒く染まったローブ、長い杖、無表情の奥に微かな好奇心のような光をたたえた目。まるで全てを見透かしているかのようだった。
「……精神世界?」
田丸は混乱しながらも、どこかでこの存在に心当たりがあるような気がしていた。
「……あれ? あなたって、もしかして……」
そう――思い出した。
「お前は……、いや……、あなたは……、バグラム大老……!」
名前を口にした瞬間、記憶がよみがえった。中学の頃、夢中で書いていたファンタジー小説の登場人物。冷酷な賢者でありながら、主人公に何かを気づかせ導く役割を果たす、“かつて自分が生み出したキャラクター”。
「やっと思い出したかい」
バグラム大老は目を細め、どこか誇らしげに微笑んだ。
「そう、私は君が過去に創り出した数ある登場人物の一人。だが今、君の内側の世界でこうして語りかけているのは、君自身の想像力が私に再び命を与えたからだ。――つまり私は、君の創作の火種が再び燻り始めた証だ」
田丸は胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
「君はこの世界を美しいと思うか?」
その問いは、まるで心の奥に直接響いてくるようだった。田丸は答えられなかった。目の前に広がる世界は、美しいどころか、まるで廃墟だったからだ。
地面には自分が書いた物語の断片が、破れたページとして風に吹かれて舞っていた。鉛筆の走り書き、消し跡の残る台詞、削除されたキャラクターの設定……全てが無造作に積み重なり、腐葉土のように重たく堆積していた。
バグラム大老は、そんな田丸の沈黙に満足げに頷くと、杖を軽く一振りした。
「ついておいで。君に見せたいものがある」
田丸は無言のまま後を追った。歩くたびに、足元で紙の断片がくしゃりと音を立てた。
やがて、二人は巨大な建物の前に立った。
それは図書館だった。だが、普通の図書館ではない。外壁は無数の原稿用紙で覆われ、ドアには「黒化沈静」と書かれた看板がぶら下がっていた。
中に入ると、そこには途方もない数の本が、天井の見えない棚に詰め込まれていた。すべて、田丸の“未完成の物語”だった。
「ここにあるのは、君が書いては捨てた物語たち。完成することも、誰かに読まれることもなかった、君だけの記憶の書だ」
バグラム大老は、棚から一冊を抜き取って田丸に手渡した。
「読んでごらん」
恐る恐るページをめくると、そこには、小学五年生の頃にノートに書き殴った冒険譚が記されていた。拙く、未熟で、今ならきっと笑ってしまうような文章だった。
だけど、ページをめくる指が止まらなかった。忘れていたはずの興奮、何かを生み出す喜び、友だちに読ませて「すげえな!」と言われた時のくすぐったいような誇らしさ――。
涙が頬をつたった。
「……俺、こんなにも書くことが好きだったんだな」
「そうさ」
バグラム大老の声は低く、どこかあたたかかった。
「君は書くことで、世界と繋がろうとした。評価されるためではない。ただ、自分が感じたものを、誰かに届けたかったからだ」
田丸は何かを思い出すように、ポツリと呟いた。
「でも、怖くなったんだ。誰かに笑われるのが。馬鹿にされるのが。だから途中でやめて、完成させるのをやめて……」
「恐れは悪ではない。ただ、恐れに負けて筆を止めてしまうこと――それが、本当の敗北だ」
田丸は拳を握った。
「……まだ遅くないよな? もう一度、書いてもいいかな?」
バグラム大老はニヤリと笑った。
「もちろんさ。だがその前に、ひとつだけ試練を与えよう」
「試練……?」
「この図書館の奥には“君自身が否定した物語”が封印されている部屋がある。そこには、君が“絶対に失敗作だ”と信じている一本が眠っている。まずはその物語を、最後まで読んでごらん」
田丸は息を呑んだ。
忘れていた、いや、封印していた作品があった。誰にも見せず、誰にも読ませず、自分でも直視できなかった――黒歴史と呼ぶには重すぎる、物語が。
「……わかった」
恐怖と、ほんの少しの勇気を胸に、田丸は奥の扉へと足を踏み出した。
▶▶▶▶
「ここが“封印の間”だ」
バグラム大老に導かれ、田丸は図書館の最奥――厚い鉄扉の前に立っていた。扉の表面には幾重もの鎖と錠前、そして中央には黒インクでべっとりと書き殴られた文字がある。
『閲覧禁止』
その文字を見た瞬間、田丸の心臓が跳ねた。見覚えがあった。自分が書いたのだ。
「……ここにあるのは、君がもっとも見たくない物語。君自身が“失敗作”だと断じ、誰にも見せず、自分からも隠した記憶の断片だ。だが、それこそが今の君に最も必要な物語でもある」
バグラム大老の言葉は、優しくも鋭かった。
「君はこの部屋に入る覚悟があるかい?」
田丸は唇を噛んだ。心は揺れていた。扉の向こうにあるものが何か、彼にはわかっていた。
(あれは……俺が初めて“本気で”書いた物語だ)
高校1年の冬。誰にも見せるつもりはなかった。だけどその作品だけは、どこかで「自分の代表作になるかもしれない」と信じていた。しかし、ある日ふと読み返して、恥ずかしさと自己嫌悪が押し寄せた。プロットは幼稚、台詞は浮つき、感情描写はぎこちない。思わず「見る価値もない」とファイルを削除し、記憶からも封印した――つもりだった。
「……入りたい。というか、入らなきゃいけない気がする」
田丸は一歩踏み出した。
すると、鎖がひとりでに外れ、錠前がカチリと音を立てて開いた。鉄扉は重たく軋みながら、彼のためだけに口を開いた。
中は静寂だった。
暗い部屋の中央に、ぽつんと机と椅子が置かれている。机の上には、原稿用紙が一冊だけ。そこに書かれていたのは――
『箱庭の王』
田丸の喉が詰まる。忘れられなかった。自分が初めて、世界観もキャラクターも何もかもを本気で作り込んだファンタジー長編のタイトル。
おそるおそる椅子に腰掛け、原稿をめくる。すると、文字が光を帯び、まるで映像のように周囲の空間が変化した。
視界が一変し、彼は物語の世界に入り込んでいた。
▶▶▶▶
乾いた大地、砕けた空、崩れかけた城。その中心に立つ少年王――かつて田丸が描いた主人公・レクス。
レクスはぼろぼろのマントを翻し、剣を引きずりながら、無数の敵と対峙していた。
「……俺は、世界に認められたいんだ。
けど……どうしても、怖くて、足がすくんで……」
それはまるで、今の田丸そのものだった。少年王の声は、まるで心の内を代弁しているようだった。
田丸は呆然と立ち尽くす。
「この世界は、君の創作に見捨てられた世界だ。君が自分の中の“未熟さ”を嫌い、すべてを否定したとき、この物語もその影響を受けて崩れ始めた」
バグラム大老が背後から静かに語った。
「でもね、田丸。この世界は、まだ生きているよ。君が心から“続きを書きたい”と願えば、彼らは再び立ち上がる。君の物語を待っているんだ」
田丸は、崩れかけた王国の城壁に目をやった。
そこには――レクスと共に戦うはずだった仲間たち、そして未来に出会うはずだった人物たちの影が、ぼんやりと浮かんでいた。彼らはまだ、生まれていなかった。筆が止まったからだ。
「……俺、逃げてたんだな」
震える手を胸元に当てる。
「怖くて、自信がなくて、全部“黒歴史”にして、なかったことにして。でも本当は――完成させたかった。ずっと、気になってた。あの物語がどう終わるのか、自分でも知りたかったんだ」
涙が頬をつたう。けれど今の田丸は、泣いても立っていられた。
「俺、もう一度書くよ。最初からでも、またこの物語を作り直したい」
その言葉と同時に、王の剣が光を放った。
レクスがゆっくりと顔を上げ、田丸の方を見て微笑んだ。
バグラム大老は、満足げに頷いた。
「それでこそ、物語の創造主だ。ようやく、スタート地点に立ったな」
田丸は再びペンを握る。書くことは怖い。でも、書かずにはいられない。
物語はまだ、終わっていなかった。
▶▶▶▶
目が覚めたとき、田丸は教室の片隅に座っていた。
机の上には、あの原稿用紙が散乱したまま。松丸の姿はすでにない。窓の外には夕暮れが滲んでいて、オレンジ色の光が部屋を染めていた。
(夢……だったのか?)
でも、掌にはインクの跡がくっきりと残っていた。
(いや、違う。あれは――)
田丸は胸の奥に、確かな何かが根を下ろしたのを感じていた。それは、言葉にするにはまだ頼りない。けれど、確かに「創りたい」という衝動だった。
机に手を伸ばし、散らばった原稿を一枚ずつ拾い上げる。
それは数週間かけて書いた“あの小説”――松丸に酷評された物語。
けれど今、田丸は思う。自分に足りないものがあるのは分かってる。文章力も構成力もキャラクター造形も、まだまだ未熟だ。でも――
“書かなければ、何も始まらない”
手が震える。まだ怖い。けれど、筆を取った。
今度は誰の顔色も窺わず、自分の言葉で、自分の信じた物語を書き始める。
▶▶▶▶
翌週。昼休み。
教室の隅で、田丸は一枚の封筒を松丸に差し出していた。
「……なんだよこれ」
「読んでほしい。新作を作ってみたんだ。たぶん、まだ下手だし粗いと思うけど……。それでも、“今”の俺の全力を込めた」
松丸は眉をひそめる。
「またレベルの低い作品だったら今度こそ職員室のシュレッダーに――」
「それでもいいよ」
田丸は言った。穏やかに、でも強く。
「その代わり、最後まで読んで。そんで、お前の言葉でちゃんと教えてくれ。どこがダメで、どこが良かったのか」
松丸は数秒黙ったあと、ため息をついて封筒を受け取った。
「……バカ正直すぎんだよ、お前」
その言葉に田丸は、少しだけ笑った。
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