第八章 シアワセを刻む者たち
一歩、足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。足が、見えない何かに絡め取られたように重く沈んだ。
扉の向こうは、まるで生き物の腹の中だった。血肉のように蠢く壁が、赤黒い光を発している。足元は赤い液体に濡れ、踏むたびにぬちゃりと音が鳴った。鉄の匂いが、吐き気を伴って喉奥をえぐっている。
赤黒い空間が、肺のように息づき、鼓動に合わせて脈打っていた。壁も床も天井も、すべてが脈打つ巨大な心臓の内部だった。
指先が震え、心臓の鼓動とこの空間の脈動が重なり、境界が曖昧になっていく。
――ここが、【鬼の心臓】
四人は言葉を失い、ただ慎重に前へ進む。踏みしめた場所から、無数の黒い血管が足首に絡みつき、脈動する感触が伝わってくる。
頭の奥で、得体の知れない囁きが無数に木霊した。肺が、冷たい圧迫感に締め付けられる。呼吸が浅く、体の奥に刺すような痛みが走った。
(帰れ……戻れ……ここは……死んだ者の領域……)
それは怒号でも怨嗟でもない。ひたすら、冷たく、底知れぬ空虚さに満ちた声だった。
亡霊たちの声は、言葉というよりも感覚だ。肉体を通り越し、脳髄の奥を直接引っ掻くように響く。耳を塞いでも消えず、むしろ皮膚を通して体内にまで入り込んでくる。その身の毛がよだつ感覚に、千鶴の膝が震えた。
「……これが、システムの中枢……?」
トモヤが絞り出すように呟いた。声が空間に吸い込まれ、赤黒い壁の中に消える。その瞬間、千鶴の背筋に冷気が走った。
見られている。
次の鼓動と同時に、闇の奥から何かが形を成した。
顔――無数の顔。
歪んだ笑顔、絶望に染まった泣き顔、恐怖に引き攣った叫び顔。それらが溶け合い、ひとつの巨大な顔のようになり、彼らを覗き込んでいた。
《ようやく……来たか。幸福を求めし……愚かなる……人間たちよ》
その声は、骨の髄を震わせるほどに深いのに、無数の囁きが重なって聞こえる。過去に犠牲となった者たちの声が、鬼の声の中に含まれているのだと、千鶴は勘づいた。
「……お前が、鬼システムの中枢……?」
《我は……集合意識……幸福を追い求め、堕ちた亡者たちの結晶……》
声が壁を震わせ、鼓動が一際強く響いた。竜二は汗に濡れた額を拭い、舌打ちする。
「だったら、なんで……俺たちに、止め方を教えた?」
その問いに、赤黒い顔が歪む。笑っているようで、苦しんでいるようにも見えた。
《……我が意思では……ない……。取り込んだ者たちの……断末魔の欠片……『生き残れ』と祈る声が……僅かに残滓として……我を……蝕む……》
千鶴の心臓が一拍、痛いほど跳ねた。瑞穂の声、竜二の姉の声、ユウトの声――。
過去に失われた者たちの願いが、鬼そのものの中に閉じ込められ、それでもなお、彼らを生かそうとしている?
《……止めるがいい。我を終わらせることでしか……幸福は……証明されぬ……》
千鶴の全身に悪寒が走った。
鬼は、終わりを望んでいる?
だが、それは同時に、彼らの命も、すべての犠牲者の記憶も――赤い教室そのものも、消えるということだ。
壁の鼓動が速まるにつれ、地面が傾ぎ、血のような液体が四人の足首まで迫る。トモヤが呼吸を乱し、喉の奥で声を押し殺した。
「……これ以上は……正気が……」
耳の奥に、また囁きが届いた。今度は、千鶴にしか聞こえない声。
(――チヅル……笑って……)
瑞穂の声だった。確かに、彼女の声。胸が抉られるように痛み、千鶴は唇を噛みしめる。
頭の奥に、過去の記憶が洪水のように流れ込んでくる。瑞穂の笑顔、竜二の姉の絶望、お松の息子の断末魔……。それらが混ざり合い、自我の境界を削り取っていく。
トモヤの震えた声が、かすかに聞こえた。
「……鬼の意識の中に、俺たちの過去が流れ込んでる……」
竜二が低く唸り声を上げる。
「……ここは、鬼自身の意識……喰われるぞ!」
全身の血液がこの空間の鼓動と同期し、身体の中身を奪われる感覚に吐き気が込み上げてくる。
赤黒い壁が鼓動するたび、目に見えない【何か】が、皮膚の下に入り込んでくる感覚。体が自分のものでなくなるような気がした。
記憶が塗り潰され、意識が分解される。
――ここで負ければ、私たちは【幸福のデータ】として鬼に取り込まれる。
この空間そのものが、彼らの存在を吸い込み、塗り替えようとしていた。
そのとき、赤黒い顔が四人を睨み、空間全体に響き渡る声が轟いた。
《我を終わらせる覚悟があるならば――証明せよ! お前たちの【シアワセ】の形を、この心臓に刻みつけろ!》
空間が激しく揺れ、無数の亡霊の腕が壁から突き出し、四人に襲いかかる。冷たい指先が皮膚に触れた瞬間、彼らの心の奥に押し殺してきた恐怖、罪悪感、絶望が一気に流れ込んでくる。
千鶴は胸を掴まれ、息が詰まり、視界が白く弾けた――。
襲い来る亡霊の腕が、千鶴たちを絡め取ろうと蠢いていた。指先が冷たく肌に触れるたび、意識が削がれ、思考が砕かれていく。声にならぬ悲鳴が重なり、空間が歪む。
「千鶴――っ!」
千鶴の背中に迫る赤光を見た瞬間、竜二の身体は迷わず動いた。もう、考える必要はなかった。彼の胸の奥に残り続けた問い。
――「なぜ自分だけが生き残ったのか」
その答えを、いまやっと見つけたのだ。
竜二は反射的に彼女を背に庇い、腕を大きく広げた。亡霊の群れが彼に集中して殺到し、その身体を切り裂かんばかりに押し寄せる。視界が赤黒く染まり、胸に鋭い痛みが奔る。それでも竜二は歯を食いしばり、足を踏ん張った。
――また、守れなかったら……?
過去の記憶が、刃のように彼の脳裏を抉る。崩れ落ちる瓦礫、姉へ伸ばせなかった手、あの夜の絶叫。
熱が背骨を貫き、意識が白く弾ける。だがその刹那、竜二は初めて、生き残った意味を確かに掴んだと感じていた。
【守る】ということこそ、自分が生きてきた証だ。生き残ったことへの罪悪感も、積み重ねた孤独も、いまなら――すべて受け入れられる。
「……あぁ、やっと、意味があったんだな」
竜二の口元に、乾いた笑みが浮かんだ。亡霊の腕が胸を貫き、血が口端から溢れ出る。それでも瞳には、奇妙な安らぎが宿っていた。
(これが、俺にとっての倖せ。偶然であれ、誰かを守れた、その一瞬だ。)
「……千鶴、ここから先は……頼んだぞ」
声は掠れ、今にも消えそうだった。竜二は胸を裂かれたまま、それでも微笑みを崩さず、最後の力で千鶴を後方へ突き飛ばした。
背後で、亡霊の群れが一斉に竜二を引きずり込んでいく。微笑んだ唇から、鮮血がこぼれ落ちた。
千鶴の喉から、押し殺した悲鳴が漏れる。
「――竜二っ……!」
何も守れなかった、という絶望が千鶴を呑み込む。体の芯が砕け、赤黒い闇に沈みかけたその時――竜二の最後の笑みが胸に深く刺さっていた。崩れそうな心を、あの笑みが必死に支えている。
「いやだ……いやだよ、竜二……!」
自分の叫びが虚空に吸い込まれ、赤い光の残滓に溶けて消えていく。
その中で、長い罪悪感の果てにやっと辿り着いた竜二自身の倖せが、赤黒い壁に静かに刻まれていた。
千鶴の心に、激しい痛みと同時に、竜二の想いが鮮明に流れ込む。
彼が選んだのは――過去ではなく、これからを生きる者たちの未来だった。そのために積み重ねてきた痛みも、失った時間も、すべてこの瞬間のためにあったのだと。
――これが、竜二の選んだ、倖せ……。
亡霊の群れが収まると、赤黒い壁に小さな波紋が広がり、やがて静けさが戻る。だが、竜二の存在は、もうこの世界のどこにもなかった。
千鶴は膝をつき、震える手で血に濡れた床を掴む。視界が涙で滲む中、彼の最後の笑顔が、焼き付いたように消えない。
――また、仲間を失った。
千鶴は喉の奥で嗚咽を噛み殺す。
「泣いてる暇なんか……ないんだよね」
立ち上がらなければ。彼の命を、このまま闇に喰わせはしない――。
竜二の最後の笑みが、背中を押した。千鶴の胸に小さな炎がともる。震える膝を叱咤し、千鶴は血の匂いに満ちた闇を、もう一度睨みつけた。痛みを抱えたまま、奥歯を噛み締め、立ち上がる。
鬼の声が、低く、空間に響き渡る。
《……これが……お前たちの【倖せ】か。守り、失い……それでも前に進むというのか……?》
千鶴は、声を震わせながらも、はっきりと言葉を返した。
「……進む。私たちの【シアワセ】のために……竜二のためにも!」
赤黒い壁が激しく脈動し、再び亡霊たちの群れが蠢き始める。その中で、千鶴は竜二の声を確かに聞いた。
(……生きろ、千鶴。あとは頼んだぜ)
――――――――――
竜二の最後の笑顔が、赤黒い闇に溶けて消えた。残された千鶴とトモヤを嘲笑うかのように、空間そのものが震えている。亡霊たちの囁きが、次の獲物を見定めた。――今度は、トモヤの番だった。
耳を塞いでも、脳内に直接響き渡る声は消えない。
《――お前の罪を告げよ》
《――あの日、吐き捨てた言葉を、もう一度繰り返せ》
トモヤは膝をつき、震える手で自分の顔を覆った。掌の内側まで染みついた「落ちない血」の感触が、今も指先にまとわりつく。
――ずっと、隠してきた。
――忘れたふりをして、演じてきた。
あの日、教室の隅で聞いた声が、鮮明に蘇る。
『――そんなの、努力が足りないだけじゃん』
自分の口からこぼれた、その一言。ほんの気まぐれだった。苛立ちのはけ口に、相手を傷つけることなど、何の意味もないと思っていた。
だが、その夜――少女は本当に命を絶った。
「……っ、あぁぁぁぁぁ!」
胸をえぐる痛みに、トモヤは叫び、赤黒い床に額を押しつけた。身体中を這いずり回る亡霊たちの冷たい指先が、過去の記憶を無理やりこじ開け、血のような罪悪感を吐き出させる。
《――それが、お前の罪》
《――お前は、誰かを死に追いやった》
亡霊たちが、彼に絡みつき、責め立てる。息が詰まるほどの恐怖に、心が砕けそうだった。
千鶴と目が合う。彼女は竜二を失ったばかりの瞳で、それでもまっすぐに彼を見据えて、頷いてみせる。
亡霊たちの叫びが、トモヤの耳に突き刺さる。
『――お前の言葉が、私たちを殺した』
あの日の冷たい一言が、無数の声に増幅され、彼を引き裂く。トモヤはかつての自分に問いかけるように、目を閉じた。落ち着かせるように、深く息を吐きだす。
「もう、わかってる……」
トモヤは震える声で、過去の自分に答えた。
「……僕があの日、君たちを傷つけたのは、事実だ」
トモヤは、足元から絡みつく亡霊の腕に、静かに手を伸ばした。
「僕は、あのときと同じじゃない。……僕は、もう、誰も見捨てない」
亡霊たちの囁きが、一斉に静まり返った。トモヤの声は涙で途切れ、喉が張り裂けそうに痛む。
「……ごめん。でも、もう繰り返さない。ここで終わらせるよ。僕たちが――あの言葉で囚われ続けるのは」
亡霊たちの顔が、苦悶から安堵に変わる。それは、彼が初めて他者と、自分自身の過去に、真正面から【許し】を差し出した瞬間だった。
亡霊たちの声が薄れ、胸に重くのしかかっていたものが、ふっと消えた。胸を縛っていた鎖が、ひとつ、音を立てて解ける。
沈黙を切り裂くように、ひとつの声が届く。
『……トモヤくん、ありがとう』
聞き覚えのある、けれどもう絶対に聞こえるはずのない声。亡霊の群れの奥から、あの日の少女が、微笑んでいた。その笑顔には、恨みも憎しみもなく、ただ穏やかな光が宿っている。
「……僕、許されて……いいの……?」
《――もう、いいの。あの時の私も、救われたかっただけだから。》
少女の声が霧のように溶け、亡霊たちが赤黒い壁の中に吸い込まれていく。トモヤは両手を見下ろした。もう、あの【落ちない血】はどこにもなかった。
「……僕の、【幸せ】……。――許されること、そして、自分自身を許すこと……」
膝の力が抜け、赤黒い床に崩れ落ちる。泣き笑いのような表情で、トモヤは肩で息をしながら、嗚咽を漏らした。
「これが、僕の幸せなんだ……」
その瞬間、トモヤは本当に自由になった。
千鶴はそっと彼の肩に手を置き、静かに告げた。
「……ようやく、言えたね」
その瞬間、赤黒い空間に微かな亀裂が走る。亡霊たちの呪縛が一枚剥がれ、鬼の声が苦しげに軋んだ。
《……幸福の定義、……さらに、揺らぐ……?》
――――――――――
赤黒い空間の壁が、蜘蛛の巣のようにひび割れていく。亡霊たちの囁きが遠のき、代わりに耳の奥に、自分の心音だけが響き始めた。
千鶴は深く息をする。竜二が庇ってくれた傷跡が、今も焼けるように痛んでいる。倒れた彼の姿が、鮮明に胸の奥に刻まれていた。
――竜二の倖せ
それは、偶然の救い。誰かのために光となり、そして笑って逝くことだった。
彼の最期の笑顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
「……竜二……ありがとう。今度は、私の番だね」
懐中時計を握りしめる。
――仕合わせ。
出会いも、喪失も、すべて含めた巡り合わせを受け入れること。
無数の亡霊の囁きが、耳を裂く。
《――お前たちは、何を選ぶ?》
千鶴は深く息を吸い込み、胸に刻んだ仲間たちの想いを抱きしめた。
「私が選ぶのは……すべてだ。出会いも、別れも、痛みも、巡り合わせの一片も手放さない」
竜二が残した笑顔、トモヤの涙、お松の覚悟。すべてが、今の彼女を作っている。
鬼の声が、軋むように響いた。
《……理解不能……。お前たちの【幸福】は、定義から逸脱している……。何故、痛みを抱えたまま……笑える?》
千鶴は、赤黒い虚空に向かって答える。
「……痛みがあるから、笑えるんだよ。失ったものも、繋がれたものも、全部抱きしめて……それでも、前に進む。それが、私の仕合わせ」
言葉と共に、ひび割れた空間から、無数の光が零れ落ちた。その一つ一つが、かつての犠牲者たちの記憶、意識の残滓だった。瑞穂、竜二の姉、そして、お松の息子のユウト……。
彼らの意識は、鬼の中に取り込まれ、同化させられていた。しかし、その奥底には――「生き残った者たちを、どうか生かしたい」という、微かな祈りが残っていたのだ。
《……我、選択の根拠を失う。停止条件……不明……》
鬼の声が揺らぎ、巨大な中枢が赤黒い光を明滅させる。千鶴は一歩踏み出し、言葉を紡いだ。
「――この学園は、もう終わらせる。でも、私たちが繋いだ想いは、ここから始める」
その瞬間、彼女の足元に新たな光の道が現れる。亡霊たちの悲鳴が遠ざかり、虚空がぐらりと傾いた。
トモヤが立ち上がり、彼女の背を支える。
「……千鶴、君ならできる。きっと、僕らのしあわせを繋げられる」
千鶴は小さく頷き、深く息を吸い込む。
目の前には――システムの中枢と融合しようとする、お松の背中があった。赤黒い光の奔流に飲み込まれようとしている。その姿は、まるで巨大な獣の心臓に吸い寄せられているようだ。
鬼の中枢――犠牲者たちの意識を束ねる、呪いの塊。
空間が、まるで生き物のように蠢き、壁一面にびっしりと刻まれた回路が不気味な鼓動を打っていた。亡霊たちのざわめきが、嵐のようにお松の耳に押し寄せる。
背後で、千鶴とトモヤが、必死に声を張り上げているのがわかる。
「お松さん、やめて! 戻ってきて!」
その叫びは届かない。いや、届いてはいた。
だが、振り返らない。
この選択こそが、長い年月の果てにたどり着いた唯一の答えだった。
お松は、穏やかな笑みを浮かべたまま、足を止めなかった。深く息を吸い、胸の奥に刻まれた息子の笑顔を思い浮かべた。胸元で、見えない息子に語りかける。
(……ユウト。母さん、やっと、あなたを見つけたよ)
お松は自らの胸に手を当て、心臓の鼓動を確かめた。
「これが、私の死合わせ。命を懸けて、すべてを終わらせる……さぁ、代償を払おう」
鬼の声が再び轟いた。
《――【死合わせ】。対象の生命と引き換えに、システムの全機能を停止。選択は不可逆。》
トモヤが息を呑み、千鶴の目から涙が零れる。
「死合わせ……そんな……!」
「お松さん……!」
お松は、赤い光に包まれながら振り返った。
「……ありがとうね、みんな。私、やっと……償えるよ」
その目には、迷いは一切なかった。何十年も胸に閉じ込めてきた後悔と、息子を救えなかった痛み。
――そのすべてを、今ここで終わらせる覚悟。
「このシステムは、犠牲者たちの意識で成り立っている……ユウトも、瑞穂ちゃんも、竜二くんのお姉ちゃんも。本当は、みんな……あなたたちを生かしたいって、願っていたんだよ」
空間が軋み、亡霊たちの声が絶叫に変わる。鬼の核が動揺し、地下全体が激しく震えた。
《――……自己崩壊……回避不能……》
お松の足元から、白い光が立ち上る。その中に、微笑む少年の幻影があった。お松は、最後にもう一度、その頬に触れる仕草をした。
「……ごめんね、ユウト。でも……ありがとう」
赤黒い光が、一瞬にして白に塗りつぶされる。耳をつんざく破裂音と共に、崩壊を始めた。
その中心で、お松は静かに微笑んでいた。長年刻まれた皺の間に、かつて息子にしか見せなかった安らぎの表情が浮かぶ。
――ようやく、終わらせられる。
千鶴は絶望に凍りつき、声を張り上げた。
「お松さん、やめて! 一緒に――」
空間が軋み、赤い光の奔流が全てを飲み込む。お松の声だけが、はっきりと響いた。
「ユウト……もう、自由におなり……」
壁が剥がれ、足元の床が溶け落ち、まるで世界そのものが崩れていく。千鶴は足を踏み出そうとしたが、トモヤが必死に抱きとめる。
「千鶴! これ以上は無理だ!」
お松は二人の前に立ち、振り返らない。
「私は、ここで全てを断ち切る。……そのために、ここまで来たの」
無数の亡霊のざわめきが、お松の身体に吸い込まれていく。その瞬間、千鶴は理解した――お松の【死合わせ】は、システムそのものと同化し、すべてを消し去ることであると。
決死の思いで千鶴は、トモヤの腕を掴む。
「――逃げるよ!」
二人は崩れ落ちる空間を駆け抜ける。背後では、鬼の断末魔と共に、すべてが光に呑み込まれていった。亡霊たちの声が歓喜と悲鳴に入り混じり、すべてが無音に消える。
――最後に聞こえたのは、お松の柔らかな声だった。
「これで――やっと、自由になれる」
赤い光が、音もなく掻き消えた。
世界は一瞬、色も音も匂いも奪われた真空のようになり――そして、重力が戻る。
千鶴とトモヤは、硬い床に転がるように着地した。見上げれば、そこにはもう赤い教室はなかった。鬼システムの痕跡も、圧し掛かるような怨念の声も、すべて消えている。
耳の奥で、まだ亡霊たちの断末魔が反響している。千鶴は震える指先で、胸にしがみついた懐中時計を確かめた。ひび割れた文字盤に、もはや針は動かない。それでも、重みだけが確かにそこにある。
「……終わった、の……?」
トモヤの声はかすれていた。
顔は涙と汗でぐしゃぐしゃだ。それでも、生きている。
千鶴は答えられなかった。
胸の奥で、竜二の最後の笑顔が何度も蘇る。彼は自分を庇い、満足げに微笑んで――もう、いない。
堪らず膝を抱え、地面に額をつける。その震えは、止めようがなかった。
――お松の、最後の声が耳から離れない。
(……これで、やっと、自由になれる……)
――――――――――
赤い光が、音もなく掻き消えた。世界は一瞬、色も音も匂いも奪われた真空のようになり――そして、重力が戻る。
千鶴とトモヤは、硬い床に転がるように着地した。見上げれば、そこにはもう、旧校舎はなかった。鬼システムの痕跡も、圧し掛かるような怨念の声も、すべて消えている。
ただ、焼けつくような赤い残光の幻が、網膜の奥にしつこくこびりついていた。
耳の奥で、まだ亡霊たちの断末魔が反響している。千鶴は震える指先で、胸にしがみついた懐中時計を確かめた。ひび割れた文字盤は、もはや意味がない。それでも、重みだけが確かにそこにある。
「……終わった、の……?」
トモヤの声はかすれていた。顔は涙と汗でぐしゃぐしゃだ。それでも、生きている。
千鶴はそれに答えられなかった。胸の奥で、竜二の最後の笑顔が何度も蘇る。彼は自分を庇い、満足げに微笑んで――もう、いない。
堪らず膝を抱え、地面に額をつける。その震えは、止めようがなかった。
――お松の、最後の声が耳から離れない。
(……これで、やっと、自由になれる……)
胸の奥に、あの温もりが深く刻まれている。ユウトを抱き締めるような、お松の笑顔が焼きついたまま消えない。
トモヤが、泥だらけの手をそっと差し出した。
「……行こう、千鶴。ここで……止まっちゃダメだ」
顔を上げると、トモヤの頬に涙の跡が光っていた。彼の瞳には、どこか穏やかな光が宿っている。――許されたあの瞬間から、彼の【幸せ】は確かに始まっている。
千鶴は、握り返したトモヤの手に微かな力を込めた。
「……うん。私たちの番だね」
目を閉じ、深く息を吸う。胸の奥に、竜二の【倖せ】、お松の【死合わせ】、そしてトモヤの【幸せ】が交差した。
――すべての因果を受け入れ、新たな世界を創る。それが、彼女に託された【仕合わせ】だった。
「……私たちで、この学園をやり直そう。二度と、誰も、こんな想いをしないように」
崩壊した空間の裂け目から、夜明けの光が差し込んでいた。それは、血と絶望に塗れた長い夜が終わりを告げる、初めての光だった。
暖かさが頬に触れ、肺の奥まで新しい空気が満ちていく。千鶴の胸に、言葉にできない痛みと確かな希望が、ひとつに溶け合った。
二人は立ち上がり、互いに支え合いながら、その光の中へと足を踏み出し始めた。
――もう、過去に囚われる彼らはいなかった。
竜二の笑顔も、お松の声も、そして多くの亡霊たちの祈りも、確かにこの背中を押している。
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