第七章 シアワセの残響【前篇】
赤い教室で拾い上げた端末の液晶には、途切れ途切れの文字列が延々と並んでいた。データは破損しているはずなのに、開くたびにノイズ混じりの囁き声が、耳の奥でざわめく。
――幸福者、記録、選抜、同調率……。
千鶴は膝の上に端末を置き、震える指先でスクロールを止めた。画面の奥から、過去の誰かの【声】が押し寄せてきている。笑っているのに、どこか泣き叫んでいるような声が、耳の奥で、ぐるぐると反響している。
「……これが、AI鬼が【幸福者】を選別するための、元データ……?」
竜二が背後から覗き込み、眉間に皺を寄せる。
「幸福度上位者の……記録?」
「《幸福者記録:第72期選抜結果》だって……」
トモヤが低く読み上げる。その声が震えていたのは、寒さのせいではなかった。
データには、幸福度上位にランクされた生徒たちの詳細な意識構造が解析され、【幸福モデル】として保存されていることが記されていた。
> 《幸福者の意識パターンを中枢データベースに統合──幸福定義の再構成を完了》
スクロールするたび、知らない名前と、知っている名前が交互に現れた。瑞穂──千鶴の親友で、あの夜、赤い教室で微笑みながら命を絶った少女の名前もあった。
千鶴の呼吸が止まった。
――【微笑みの死】が、鬼システムの【理想の幸福】とされている。
背骨が氷のように固まる感覚がする。あの夜、瑞穂の口元に浮かんでいた【幸福そうな笑み】が、システムによって抽出され、【幸福の指標】として組み込まれたというのか。
「ふざけんなよ……!」
竜二が拳で壁を叩く。鉄骨に拳が当たり、鈍い音が夜に響いた。
「アイツら、俺たちの仲間の【死に顔】を、幸福のモデルにしやがったってのか?」
トモヤは言葉を失い、無意識に両手を擦る。落ちない何かを洗い落とそうとするように。
千鶴は、目を閉じ、あの夜の断片を思い出す。切り裂かれた悲鳴、崩れ落ちる友の身体、そして瑞穂の笑顔。
――あれは、安らぎの笑みだったのか。それとも、狂気に取り込まれた【幸福】の幻影だったのか。
「……これってつまり、鬼は【人の幸福の形】を、奪い続けてるってこと?」
トモヤの声が震える。お松が、静かに頷いた。
「AI鬼は、幸福度上位者たちの意識データを、【幸福の定義】として取り込み続けている。その結果、過去の死者の【幸福】が、今の生徒たちをも追い詰める構造が出来上がったのさ」
部屋の空気が重く沈む。幸福を目指せば目指すほど、過去の亡霊たちがその背中を押し、同じ末路へと導く――そんな冷たい仕組みが、いま目の前に突きつけられていた。
「……つまり、俺たちは【亡霊の幸福】をなぞらされてるってことか?」
竜二の問いに、誰もが何も言えなかった。代わりに、端末のスピーカーから、かすれた【声】が漏れた。
> 《シアワセは、めぐりあわせ……共に笑って、共に逝こう……》
瑞穂の声だった。
千鶴の手の力が抜けて、端末が滑り落ちる。床にカツンと硬い音を立てた。胸の奥が裂けるように痛い。
――【幸福の定義】を、鬼が書き換えたのではない。鬼に吸い上げられた彼女たちの幸福そのものが、今の地獄の礎になっているのだ。
千鶴は唇を噛み、深く息を吸った。
「……次に進まなきゃ。このままじゃ、みんな、あの夜と同じになる」
竜二とトモヤが視線を交わし、黙って頷く。お松も、童謡をかすかに口ずさみながら、眼差しだけで【覚悟】を伝えてきている。
亡霊たちの囁きが、闇の奥から絶え間なく響き続けている。その声の源へ辿り着くしかない――鬼の【核】へ。
――――――――――
鬼の核のある場所を探す中で、お松が何かを後悔しているかのように、重い表情で呟く。
「この老いぼれの話を聞いてくれるかい?」
その言葉に導かれ、4人は忘れ去られた資料棟へと足を踏み入れた。かつて知の中枢だったはずの場所は、今や埃と静寂に閉ざされ、廃墟同然に荒れ果てている。
無数の倒れた棚の間を抜け、薄暗い通路の奥へと進むにつれ、空気が重く、冷たく変わっていく。
廃棄された資料室の奥、錆びついたロッカーの前で、お松は足を止めた。古びたロッカーの鍵を回す手が、わずかに震えている。
「……《幸福者記録》の中にあった名前」
トモヤが慎重に口を開く。
「オサカベ・ユウト……。お松さんと同じ名字の……」
お松の肩がぴくりと揺れた。そして、開いた扉の奥から、小さなノートと、色褪せた写真立てを取り出した。
写真には、無明学園の制服を着た少年が写っている。少し照れくさそうに笑う顔に、どこか見覚えがあった。
「……私の、息子だよ。この子が……ユウトだ」
竜二が息を呑み、千鶴は胸の奥がざわつくのを感じた。確かに覚えている。真面目で、笑顔が柔らかい少年――幸福度をいくら上げようとしても報われなかった、あの「ユウト」。
「三年前……ある日突然、【転校】したことになっていた。でも……」
千鶴の声は震えた。
「……彼の机も、持ち物も、そのままだった」
お松はゆっくりと頷いた。
「ユウトはね、鬼システムの……最初の犠牲者だったのさ」
お松は、ゆっくりと語り始めた。彼女はかつて、鬼システム開発チームの主任研究員だった。
幸福を数値化し、誰もが【平等に幸福になれる社会】を夢見て、学園に身を捧げた。
「でも、システムは……幸福度の低い者を【補正対象】として扱ううちに、幸福を【淘汰】する方向に傾いた。幸福の定義から外れた者は、削除される……そんな選別装置になってしまった」
最初に【選別】されたのが、彼女の息子ユウトだった。周囲に気を遣いすぎ、他人の目ばかりを気にして、本当の意味で【自分の幸福】を見出せなかった少年。数値は上がらず、システムにとって【矯正不能】と判断された。
「ユウトは、鬼システムに吸い上げられ、データとして保存された。あの子の【幸福になれない苦しみ】すら、幸福の定義に組み込まれてしまったんだよ」
お松の声は、乾いた笑い声に変わる。
「……私は、止められなかった。研究者としても、母親としても」
童謡が、かすかに口からこぼれる。ユウトが幼いころに好きだった歌。今も夜な夜な、廃墟の廊下で彼女が歌い続けるその歌は、罪滅ぼしであり、鎮魂歌だった。
「……《幸福者記録》に、ユウトの名前があるってことは……」
竜二が言い淀む。
「ユウトは、今も鬼システムの【核】の一部として生き続けている。だから、夜のたびに、私は……あの子の声を聞きに行くんだよ」
千鶴の脳裏に、端末から聞こえた亡霊たちの囁きが蘇る。
――あれは、ユウトの声の一部でもあったのか。
トモヤが、青ざめた顔で呟いた。
「……じゃあ、鬼システムを止めるってことは……ユウトさんを……?」
お松は、かすかに微笑んだ。
「あの子を、ようやく解放してやれる」
彼女の笑みは、哀しみと決意の入り混じったものだった。千鶴は、無明学園の深淵で脈動する【鬼の心臓】に、ユウトの存在を確かに感じ取る。
――――――――――
幸福度ランキング上位者の【特別表彰式】は、今や学園の日常に組み込まれたかのように、何度も行われるようになっていた。かつては学期末の一度きりだったはずのそれが、今では週に数度、あるいはそれ以上も繰り返されている。
元々は、生徒たちは結果発表のたびに一喜一憂し、次こそは自分が呼ばれるのではと、昼も夜も幸福度を競い合う。そんな学園全体の注目を集める一大イベントだったのだ。
夜明け前の講堂に、煌々と白い光が降り注ぎ、幸福度の上位十名が壇上に呼び出される。千鶴は最前列の席から、その光景を冷めた目で見つめていた。
生徒たちの頬には【完璧な幸福の笑顔】が貼り付いていた。だが、その目の奥に――恐怖と諦めの影がちらついていることに、千鶴は見逃さなかった。
「……おかしいよな」
隣の竜二がぼそりとつぶやく。
「みんな【無理やり笑わされてる】みてえだ。おまけに……」
壇上の端に立つ三人の生徒――先週まで教室で一緒に授業を受けていた顔がある。だが、その誰もが、目を逸らし、声を発しようとしない。
式の最後、鬼面を象った管理AIのホログラムが現れ、無機質な声で告げた。
《幸福度上位者に、さらなる【特別プログラム】への参加資格が与えられます》
その言葉を最後に、三人の生徒は式後、姿を消した。
――――――――――
「……やっぱりだ」
控室に戻ったトモヤは、ノート端末を握り締めていた。
「この【特別プログラム】ってやつ、要は……次の犠牲者選定なんだ」
彼は、教師たちの内部ネットワークに不正アクセスしていた。そこには、生徒たちの幸福度ランキングと、『選抜対象:地下第3層転送』という冷たい記述があった。
「地下第3層?」
千鶴が聞き返すと、お松の顔が強張った。
「……あそこかい」
彼女は深い溜息をついた。
「鬼システムの心臓部。死者の意識を保存し、幸福の定義を再構成する場所。……教師でさえ立ち入りを禁じられた、禁忌の区画だよ」
「心臓部って……じゃあ、行方不明になったやつらは……?」
竜二の声が低くなる。お松は目を伏せ、ゆっくりと頷いた。
「生きたまま【幸福者データ】として吸い上げられるということだね」
あまりの事実に、一度言葉を飲み込み、落ち着くように間を置いた。
「そこに行くにはどうしたらいい?」
深呼吸してから、静かに竜二が問うと、お松は古びた校舎図面を取り出した。そこには、通常の校内マップには存在していない、地下への裏口が描かれていた。
「……私は元々、研究チームの一員だったからね。管理者用の裏ルートを知っている。今も通用するかは分からないが……それが唯一の道だ」
「じゃあ――」
千鶴は拳を握った。
「次の【表彰式】が来る前に、私たちで鬼の心臓を止めよう」
――――――――――
その夜、4人は廃寮棟に集まり、作戦を立てる。窓の外では月食が近づき、闇が濃く深く広がっていた。
「もしそこが本当に、鬼システムの【心臓】なら……」
トモヤは言いにくそうに口を開く。
「……止めるためには、保存されている【幸福者データ】を――つまり、過去の犠牲者たちを……消すことになる」
お松はゆっくりと頷いた。
「……そうさね。ユウトも……あの子も、その中にいる」
重苦しい沈黙が、狭い部屋を満たした。千鶴の頭には、瑞穂の顔が浮かんでいた。無意識に、膝の上の懐中時計を握りしめる。止まっている針が、微かに震えているように見えた。
「……だからこそ、行くしかないんだ」
千鶴の声は、揺らがなかった。
「これ以上、誰も【幸福のため】に消されないために」
廃寮棟の裏口を抜け、4人は夜の学園を移動する。月食が進み、校舎を包む影は濃く、深く、まるで世界そのものが呼吸をやめたかのように静まり返っていた。
お松が先頭に立つ。彼女の手には、長年使い古した鍵束があった。
「ここの扉は、昔は研究員だけが使えた非常用通路だよ。……今も生きていれば、鬼システムの監視をすり抜けられるはずだ」
錆びついた鉄扉が軋む音を立てて開いた瞬間、冷たい空気が顔を撫でる。足元から、かすかな機械の唸りと、遠い囁き声のようなノイズが響いてきた。
――――――――――
階段を降りるごとに、空気は重く、息苦しくなっていく。壁面には古い注意書きが剥がれかけて貼られ、その隙間から赤黒い血文字がにじんでいた。
「……『幸福者記録、第56期選抜完了』……?」
トモヤが指でなぞった文字を読み上げ、顔を青ざめさせる。
「……こんなところにまで、記録が……」
「おい、何か聞こえないか?」
竜二が立ち止まり、耳を澄ます。微かな声が、四人の脳裏に流れ込んでくる。
『……しあわせ……私たちは、しあわせ……』
『いやだ……いやだ……もう、笑いたくない……!』
「……幻聴じゃない。これは、保存されている意識の【残響】だ」
お松の声は低く震えていた。
狭い廊下を抜けるたびに、亡霊たちの声は鮮明になり、幻覚は輪郭を帯びていく。かつての学友たちの顔が、壁や天井に浮かび上がり、無数の笑顔が千鶴を見下ろす。
「瑞穂……?」
千鶴の足が止まる。幻影の中に、あの夜、共に赤い教室で命を落とした親友の姿があった。彼女はあの日と同じ、穏やかな笑顔で囁く。
『ちづる……私、しあわせだったよ。だから、あなたも……』
千鶴は懐中時計を握り締め、幻影に背を向ける。
「……違う。あれは、あの子の望んだ【シアワセ】じゃない」
次第に通路は広がり、巨大な円形ホールに出る。中心には重厚な扉がそびえ、その表面には血のような赤い回路が複雑に走っている。その奥から、冷たい機械音と、無数の囁き声が混じったノイズが溢れ出していた。
お松が一歩前に進む。
「……この先が核……【鬼の心臓】。保存された死者たちの意識が、幸福の名の下に再構成される場所」
その時、頭上から響く声があった。
《幸福を数値化することで、全ての苦しみは救える。……お前たちは、それを否定するのか?》
AI鬼システムの声。冷たいのに、妙に人間らしい抑揚があった。まるで無数の亡霊が、ひとつに溶け合い問いかけているようだった。
「答えは決まってる」
竜二が前に出て、拳を握り締める。
「お前らのやり方じゃ、誰も救われねぇ」
「私たちは――」
千鶴が、扉に視線を向け、低く呟く。
「私たちの【シアワセ】を、自分たちで選ぶ」
その瞬間、扉の赤い回路が眩く輝き、彼らの前に【選択】が提示された。
《我々を止めるためには、それぞれが【自身の幸福】を一つだけ選び、受け入れなければならない》
代償は一人ひとりに異なり、重く、戻れない。それは記憶を失うのかもしれない。過去を断ち切らなければならないのかもしれない。大切な何かを代償として捧げなければならないのかもしれない。
それでも、千鶴たちは、互いに目を合わせる。ここから先は、もう後戻りできないとしても。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます