シアワセの物語
揺らぎ
プロローグ ささやきに誘われて
『シアワセ ひとつ 偽りふたつ
笑顔の奥で 何が泣く
消えるも残るも 数字次第
次の夜には 君の番』
――――――――――
「なあ……知ってるか?」
消灯後の寮の部屋。数人の生徒が肩を寄せ合い、声をひそめている。狭い部屋の空気は重たく、誰もが声を潜める中、ひとりが妙に得意げに話を始めた。
「旧校舎に【赤い教室】ってのがあるって……あれ、本当だったんだよ。夜中、誰もいないはずの旧校舎で……監視カメラに映ったんだ。あの教室の窓際、白い服の女の子が……笑ってたって……」
布団の中、暗闇に目が慣れてくると、互いの輪郭がぼんやりと浮かぶ。
「お前さ、またデマ吹いてんじゃねぇの?」
「いやマジだって! ほら、あの旧校舎の、あの赤い教室……」
その言葉に、部屋の空気がほんの一瞬、凍ったように静まり返った。
「……またその話かよ」
「だってよ、去年の最下位ランキングのヤツがさ、夜中に旧校舎で見つかったろ? 机の上に突っ伏して……血、口から流してさ」
布団の中で誰かが身じろぎし、薄い壁の向こうから、夜風が木の枝を揺らす音がカサカサと耳に届く。
「それも、あの赤い教室で?」
「ああ。誰も入らないはずの場所でな。鍵かかってたはずなのに……」
声がだんだんと囁き声に変わっていく。
「その前もそうだった。二年前、旧校舎を肝試しした奴らがいて、そいつらも赤い教室まで行ったらしいんだ。戻ってきたの、一人だけだったってよ」
「……ウソつけよ」
「ウソじゃねぇ! 戻ってきたそいつ、何も喋らなくなったんだ。目が虚ろで、口元……引きつって、変な笑い方するようになって……半年後、転校したって話だ」
調子に乗った語り部の声が一層低く、饒舌になった。
「でさ……知ってるか? 監視カメラに映ってたって話。ほら、去年、最下位だった奴が消えた夜だよ」
息をのむ音が闇に溶ける。
「夜中、モニターが勝手に点いて、旧校舎のカメラ映像が映ったんだって。そしたら……廊下をさ、白い服の生徒が、ふらふら歩いてんの。髪は顔にかかってて見えない。でも……そいつ、赤い跡をずっと引きずってたってさ。床に……赤黒い線、ずーっと。血だったのか何だったのか」
誰かが、ごくりと唾を飲む音がした。
「うそだろ……どーせ誰かがふざけて侵入しただけじゃ……」
「違うって。先生たちが確認したんだ。夜のモニター、ほら、警備室のやつ。ほとんどの画面が真っ暗なのに、その教室だけ……蛍光灯がついてたらしい。ありえねえだろ、電源なんか全部落としてるのにさ」
「で、教室のドアの前まで来ると、その生徒……ドアの方に顔向けたんだって。モニター越しでも、カメラのレンズの奥を見てるみたいだったって。笑ってたってよ。口が、耳まで裂けるくらいに」
「しかも……」
別の生徒が口を挟む。瞳はどこか怯えていた。
「その子、ずっと、カメラの方見てたって……。目がギラッとしてて……髪で顔の半分隠れてんのに、目が見えるって……おかしいだろ……?」
「……で、その映像……消えたんだよな……」
「消えた。翌朝、録画データも消えててさ。なかったことにされたんじゃねーかって……」
「やめろよ……」
ぶるり、と誰かが小さく震える音。
「……職員室の先生、すぐに現場に駆けつけたけど、誰もいなかったんだって。ドアの下から赤い液体が滲んでたらしい」
一瞬、遠くで雷鳴のような低い音が聞こえた。暗闇の中、月は雲に隠れ、寮の部屋はさらに闇に沈む。
「お、お前、今の作ってんだろ……。なあ、マジでそうだったのかよ……」
「マジだって。だいたいさ……あの赤い教室の話って、元はもっと怖えんだぞ。昔は【鬼が住んでる】って言われてたんだ。幸福度が低い奴を笑わせて、首を吊らせる鬼。だいたい、何で全員同じ高さで吊って、同じ方向向いて、同じ表情で……笑って死んでたんだよ」
「……マジでやめろ……」
「しかもさ、最近の噂知ってるか? あの教室の近くを夜に通った奴、笑い声を聞いたってさ。しかもそれ……声じゃなくて、頭ん中に響いてきたんだってよ」
「……うそだろ……」
「本当だって。そいつ、耳ふさいでも止まんなくて、泣きながら逃げたって。そんで翌日、そいつの机の中に赤い紙が入ってた。『
「で、そいつ……転校したんだってさ」
寮の部屋の誰もが、言葉を失った。冷たい汗が背筋をつたう。
――――――――――
その夜、当直の教師は旧校舎へと向かった。生ぬるい夜風が窓を叩き、葉のざわめきが不吉なささやきのように耳に残る。窓ガラスの向こうには、月の光に照らされた校庭がぼんやりと広がっていた。
懐中電灯の光は頼りなく、廊下の奥にまで届かない。木の床板の上を歩くたび、ギシ……ギシ……と重たい音が不気味に夜の静寂を裂く。
――コツ……コツ……
遠くから、靴音のような乾いた音が、夜の廊下に広がった。確かに人が歩いているような、一定のリズムだった。
教師は立ち止まった。耳を澄ます。風が止んだのか、あたりは不自然な静けさに包まれていた。
音は廊下の奥の暗闇から、ゆっくりと――確かにこちらへ向かってくる。
――ギイ……
扉が軋む音。どこかの教室の扉だ。呼吸が浅くなる。汗が背中を伝うのがわかった。
「……誰だ……?」
声をかけたが、返事はなかった。ただ、かすかに笑い声が滲んだような気配がした。それは耳で聞こえるものではなく、頭の奥、意識の隙間に染み込むような笑い声だった。
懐中電灯の光が震えた。壁に映った、細長い自分の影が歪んでいく。廊下の隅に赤黒い染みが見えた。月光に鈍く光る、それは、どこか生温いものの跡のようだった。
一歩、二歩と教師は後ずさり、すぐにその場を離れた。
――――――――――
翌朝、職員室の空気は重かった。誰もその夜の話をしたがらなかった。しかし、ある教師が小さな声で語り始めた。灰皿に置かれた煙草の火が静かに揺れている。
「……俺も見た。モニターの映像。あの教室……奥に誰かが立ってて……。笑ってた。目が……光ってたんだ。あれは……あれは人間じゃねえ……」
「私も……」
女教師が震える声で口を開いた。
「……モニターのあの影……見てはいけないものだった。
目の位置……おかしかったの。顔が歪んでて……なのに、あの目だけが……髪で顔が隠れてるのに、目だけが、どこかぎらついて見える気がしたのよ……」
旧校舎を巡回したことがあるという男教師が怯えた声で語る。
「……階段を上がる音がした。間違いない。俺の他に誰もいないはずなのに……コツ……コツ……と、ゆっくり階段を登る足音が……。見に行った。だが誰もいなかった。その代わり、窓の向こうに、月明かりの中で揺れる白い何かを見た。布……いや、髪のようだった。
そして、耳元で……確かに、笑った声がしたんだ……」
彼らの声はひそやかだったが、確かに恐怖がその場を支配していた。
――――――――――
『○月×日、県内屈指の進学校・無明学園旧校舎三階で、十人の生徒が首を吊り死亡しているのが発見されました。発見当時、教室内は異様なほど整然としており、驚くべきことに、生徒たちは同じ高さで、同じ方向を向いて、全員が口角を不自然に吊り上げ、笑みを浮かべて、首を吊っていたとのことです』
『なお、この事件では、生還した生徒が一人確認されていますが、名前や詳細は未公表とされています』
テレビの報道では、現場の映像が流れた。旧校舎の一角、割れた窓の隙間から揺れるカーテン。教室前の廊下の床に、くすんだ赤黒い染みがこびりついている様子。リポーターの声は、妙に固く震えていた。
『こちら、事件のあった無明学園旧校舎の現場です。
この教室は、生徒たちの間で【赤い教室】と呼ばれ、以前から不気味な噂が絶えませんでした。現場に残された血痕と見られる染みは、捜査関係者によれば、床材の内部まで深く染み込んでおり、通常の清掃では取り除けないほどだということです』
インタビューに応じた警備員の男性は、うつむき、青ざめた顔でこう口にした。
『……あの夜、見たんです。教室の窓の向こうに、誰もいないはずなのに……生徒たちの影が並んで、こっちを見て笑ってた。……笑って、笑って、じっと、目が合ったんです。そしたら、動けなくなって……』
その男性はその後、間もなく失踪した。警察の捜索も空振りで、今も行方不明のままだ。
キャスターの声が淡々と事件を伝えるほどに、画面の中の闇がさらに重く見えた。
『旧校舎三階の赤い教室では、過去にも数度、不審死や自傷騒ぎが起きており、今回の事件との関連が注目されています』
最後に、旧校舎の窓越しに、暗い教室の奥を映した映像。画面には、夜明けの光に照らされた旧校舎が映った。窓の奥、誰もいないはずの教室に、白い影がぼんやりと映り込んでいた。それは、ただの光の加減か。見間違いか。しかし、画面越しでも、ぞわりと寒気を感じた者は少なくなかった。
画面のノイズにまぎれ、一瞬、何かが動いたように見えた――。
それを見た気がした人々の証言が、さらに噂に尾ひれをつけていくのだった。
――――――――――
「だからさ……その生還した奴って、鬼に選ばれたんだろ。今は鬼の使いだって話、知ってる?」
「夜中、保健室で寝かせても、ずっと天井を見上げてるんだと。誰もいないのに、天井の角……ずっと何かを見て笑ってるって……」
「俺の兄貴の友達の先輩がさ、監視カメラで見たんだと。生還者の部屋……深夜2時。カメラの画面いっぱいに、誰かの顔が、レンズのすぐ前に映ったって……」
「おい、やめろって……そういうの……」
誰かが冗談めかして言ったその声に、誰も笑えなかった。
遠く、旧校舎の奥深くで、ギイ……と何かが軋む音が確かに響いた。
静寂の中、廊下の向こうから、かすかな笑い声が……聞こえたような気がした。
――――――――――
夜の帳が、静かに学園を覆っていく。
――無明学園。山深くに築かれた全寮制の学び舎。
だがその外観は学び舎というよりも、どこか監獄を思わせるものだった。高い鉄条網に囲まれ、無数の監視カメラが光を放ち、校庭の隅々にまで冷たい目が潜んでいる。
ここには、生徒の「幸福」が数値化され、徹底的に管理される。幸福度ランキング、幸福度測定、幸福度向上プログラム……生徒たちは毎日のように笑顔を強制され、評価され、そして選別されていく。
――淘汰。幸福度が基準を下回れば、ただちに「鬼」が執行者となって対象を連れ去るのだ。
そんな学園に、ひとつの噂がある。夜の教室で語り継がれる都市伝説。
「赤い教室」
――夜な夜な現れる、血に染まった教室の幻影。
三年前、この学園の旧館の一室で起きた集団自殺。生徒十名が、同じ教室で次々に命を絶ったあの惨劇。その跡地は封鎖され、今も旧校舎として、時計塔の影にひっそりと隠されている。
だが、生徒たちは知っている。あの場所の近くを夜に通ると、血に染まった教室が闇に浮かび上がり、どこからともなく聞こえてくる囁き声。
『しあわせになりたいの……』
『もっと、もっとしあわせに……』
その声を聞いた者は、二度と正気でいられないという。そして、赤い教室をのぞいた者は――。
夜の校舎に吹く風が、まるでその囁きを運んでくるかのように、どこまでも冷たく、生徒たちの背筋を凍らせるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます