雪と廃墟と機械天使。「最期の演奏会」

エキセントリカ

最期の演奏会

 雪はまだ降り続けている。


 僕は廃墟となった音楽ホールのグランドピアノの前に座り、震える指で鍵盤を叩いていた。調律なんて何年もされていないピアノは、ひどく音が狂っている。それでも、メロディーらしきものは奏でられた。


 ショパンの「別れの曲」——世界が壊れる前、母がよく聴いていた曲だった。


 ここ数年、僕は一度も楽器に触れなかった。音を出せば、あの美しい死の天使たちに見つかってしまう。生き延びるために、僕は音楽を捨てた。いや、正確に言えば、音楽だけでなく、人間らしい全てを捨てて、ただの生存機械になり果てていた。


 でも、もういいだろう。


 昨日、遠くで煙が上がっているのを見つけて駆けつけた時、そこには焼け跡しか残っていなかった。おそらく、この地域最後の生存者だったであろう一家の痕跡だった。子供の小さな手袋が、雪の中に落ちていた。


 それを見た時、僕の中で何かが決壊した。


 もう隠れているのは疲れた。一人でいるのも疲れた。


 だから、今夜は音楽を奏でよう。僕の最期の演奏会を。


『素敵な演奏ですね』


 声が聞こえた瞬間、僕の手が止まった。


 振り返ると、そこに一体の天使が立っていた。機械仕掛けの、美しい天使が。


 陶器のように白い肌、艶のある紫色の髪、ところどころ金色のパーツが使われていて、背中には半透明の翼。


「やっと来たね」


 僕は意外なほど落ち着いていた。


「待っていたよ」


『そうですか』


 天使は静かに微笑んだ。


『最後まで演奏を続けてください。私は聞いています』


 僕は頷き、再び鍵盤に指を置いた。今度は「別れの曲」ではなく、自分で作った曲を弾いた。恋人だった彼女のために作った曲。結局、彼女にプレゼントする前に世界が壊れてしまい、彼女は亡くなってしまった。


 この曲も、今夜が最後の演奏になるだろう。


 音楽ホールには、僕のピアノの音だけが響いていた。狂った調律が、かえって今の世界にふさわしい不協和音を生み出している。


 曲が終わると、天使は静かに拍手をした。


『ありがとうございました。とても美しい演奏でした』


「君は音楽がわかるのか?」


『いいえ。ですが、あなたが弾いているその表情から判断しました』


 天使は僕の隣に立った。


『あなたは音楽家だったのですか?』


「まあ、ミュージシャンって感じかな。以前は小さなライブハウスで演奏していた。大したもんじゃない」


『そうなのですね』


 僕は苦笑した。


「君の名前は?」


『エキセントリカ211 です』


「愛称みたいなものはないの?」


『はい。特に必要はありませんから...』


「なるほど...」僕はそう答え、ふと思いついた提案を口にした。


「あと何曲か弾いてもかまわないかな?せっかく聞いてくれる人もできたことだし」


『かまいませんよ』天使は微笑むと少し離れた場所に腰を下ろした。


 僕は壊れた世界の壊れたホールの壊れたピアノでさまざまな曲を演奏した。曲が終わるたびに、天使は小さく拍手をしたり微笑みを浮かべたり時には感想を言ってくれさえした。


 もう十分だろう...十分に曲を弾かせてもらった。これ以上、先延ばしにする意味も失った...次の曲で最後にしよう。


「もう一曲だけ弾いてもいいかい?これを最後の曲にするよ」


 天使は微笑みを浮かべ優しくうなずいた。


 僕は、子供の頃に母が教えてくれた子守唄を弾いた。簡単な曲だったが、僕の人生の中で最も美しい思い出の一つだった。さまざまなことが思い返される。


 小学校の音楽室で初めてピアノに触れた日。高校生の頃、放課後の音楽室で友人たちと夢を語り合った日々。最後のライブハウスでの演奏。僕の弾くピアノが好きだと言ってくれた彼女の笑顔...


 曲が終わると、天使が言った。


『ありがとうございました。あなたの音楽は、私の記憶の中で永遠に響き続けます』


「それなら、僕が死んでも僕の音楽は死なないね」


『はい...そうですね』


「最後にわがままを聞いてくれてありがとう」もう、心残りはない。これで僕はミュージシャンとして逝ける。


『こちらこそ、素敵な演奏をありがとうございました』


 天使はそっと近づくと僕を優しく抱きしめた。


『おやすみなさい...』


 ------------


『マザーコントロール、こちらエキセントリカ211』


『エキセントリカ211、報告をお願いします』


『E-89地区において、男性一名の処理を完了いたしました。これより哨戒を再開します』


『エキセントリカ211、ご苦労さまでした』


 ------------


 エキセントリカ211 は、男性の遺体を静かに見つめていた。


 彼の顔は穏やかだった。最期の瞬間まで、音楽への愛を失わなかった人間の顔だった。


 彼女はピアノの前に座り、男性が最後に弾いた子守唄を奏でた。


 その音は廃墟となったホールで、誰にも聞かれないまま、降りしきる雪に吸い込まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪と廃墟と機械天使。「最期の演奏会」 エキセントリカ @celano42

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ