ボイスレコーダー

パ・ラー・アブラハティ

勿忘草

 春の背中が過ぎて、白南風が吹き始めた頃、気温はみるみると上昇していく。木漏れ日は影を作って、白い雲は南東へ流れていく。


 自転車を漕ぎ、顔を撫でるように過ぎ去っていく風は汗を冷やしてく。リュックサックに入れている林檎が上下に動いて、肩を刺激する。


 僕は今日も君の所へ行く。


 閑静な街並みにポツンと建っている総合病院は、今日も白い外壁を照らしている。

 駐車場横にある駐輪所に自転車を停めて、病院に入る。自動ドアが開くとエアコンの冷気が全身を包む。鼻をくすぐる、消毒液の匂い。


 僕は受付を済ませて、君のいる五階の病室に向かう。


 白く長い廊下を歩いて、『神島叶かみしまかなえ』と書かれた病室をノックする。中から鈴のようなコロコロとした声が聞こえてくる。


「どうぞ〜」


 僕は扉を開けて、君の病室にお邪魔させてもらう。


 ベッドに座り、外を眺めている色白い君。腕には点滴が繋がれている。


「今日も来たんだね、毎日は来なくていいって言ってるのに」


 外の景色から、僕の方に視線を移した君は呆れながら笑って言う。


 高くてキラキラとした美しい笑い声と、対照的な細くて頼りない腕。ビードロのような瞳は僕を真っ直ぐ見ていた。


「いいの、僕が来たくて勝手に来てるんだから、気にしないで。そんなことよりさ、これ」


「わっ、りんご!」


 タッパーに入れた一口サイズの林檎をリュックサックから取りだして、君に見せると夏の太陽のような笑みが咲く。


 昔から君は林檎が大好きで、机の上に置いていたりしたら、皮ごと食べてしまってよく怒られていた。林檎怪人という異名までつくほどだった。


「自転車で来たから、少しぐちゃぐちゃだけど食べれるはず」


 綺麗に揃えて持ってきたはずの林檎は列を崩すして、思い思いに散らばっている。折角、花畑のような林檎を見せたかったのに。


「いいの、いいの、りんごが食べれるだけで嬉しいから」


「はい、どうぞ」


「いただきます」


 蓋を開けて、君の前に置く。甘い香りが病室に満ちていく。


 君は手掴みで口に頬張って、しゃく、と瑞々しい音が響く。


「ん〜、美味しい」


 頬っぺが蕩け落ちてしまうのではないかと錯覚するほどに美味しそうに食べる姿を見て、僕の頬は緩くなって口角は下がる。


 美味しそうにご飯を食べる姿はいつ見てもいいな、君がこうやって美味しそうに食べてくれるから、僕もついつい何かを持ってきてしまいたくなる。


「美味しい? まだまだあるから食べて」


「君は食べないの?」


「僕は家にあるから食べて」


「じゃあ、遠慮なくもらいまーす」


 家に林檎は無いけど、こんなにも美味しそうに食べてる人から貰うことなんて出来やしなかった。ものの数分でペロリと完食して、林檎の蜜でベトベトになった手をテイッシュで拭く。


 本当なら君はこんな狭い空間で林檎を食べてないで、僕と学校へ通っているはずなのに、神様というのは残酷で当たり前を当たり前として与えてはくれなかった。


 君は昔から病弱で体が弱くて、今年の春頃から体の不調が酷くなって入退院を繰り返すようになった。


 前までは入院してもすぐに退院出来ていたはずなのに、今回は長めだ。そのせいか、僕の頭にはいつも考えたく無い未来が付き纏うようになってしまった。


 その未来を払拭するように毎日通って、君がこの世界に居てくれる実感を取り戻す。じゃないと、君がいない世界だと勘違いしてしまいそうになる。


「昨日の看護師さんがね〜」


「うん、うん」


 君とこうやって他愛の無い話をできている幸せを、口の中に沢山詰め込んでゆっくりと味わう。


「ゴホッ……ゴホッ」


「大丈夫? 無理しないで、今日はもう帰るよ」


 数十分話していたら、突然君が咳き込み始める。これ以上居てしまうと君の体にさわると思い、僕は帰ることにした。


「だ、大丈夫だよ……でも、うん。もうゆっくりするね」


「そうして、また明日もちゃんと来るからさ」


「来なくていいって言ってるのに」


「いいの、どうせ家に居てもやることないしさ」


「じゃあ、分かった。明日も待ってるね」


「うん、また明日。次も林檎持ってくるね」


 また明日、本当に君との明日は迎えれるのだろうか。そんな嫌な思考を振り切れない僕は君の顔を見てから、病室を後にした。


 駐輪所に停めていた自転車を漕いで、家に帰る。


 家に帰って扉を開けると、洗濯物を運んでいる母が居た。


「あら、おかえり。また叶ちゃんの所に行ってたの?」


「家にいてもうるさいおばさんしかいないしね」


「そんなこと言うならあんたの夕ご飯抜きにするわよ」


「母上、すみませんでした」


「分かればよろしい。でも、あんたほんとに叶ちゃんが好きね」


「好きとかじゃないし……」


「ハイハイ、そういうことにしておいてあげますよ」


 別に好きとかではないし、僕は君がいることを確かめたくて行ってるだけで好意とかはない。そう、ないはず。だから、無駄に心をかき乱すのはやめて頂きいものだ。


 そうだ、僕と君はただの幼なじみだ。


 僕は抜きにされなかったご飯を食べて、お風呂も入って一日を終えて、ゆっくりと夢の世界であそんでいた。携帯のけたたましい着信が鳴るまでは。突然の騒音に僕は飛び起きて、携帯を見ると「神島叶 母」と表示されていた。


 君のお見舞いによく行っているから、自然とお母さんの方とも面識が生まれて電話番号を交換していた。


 交換した時は特に意味が無いと思っていたけど、鳴っている携帯で、僕はすぐに交換した意味を理解した。


 途端に体が強ばって、息が荒くなっていく。


 出たくない、出たら嫌な思いをする。分かっている、分かっているけど、出ないのもまた後悔の種が生まれてしまう。


 僕は恐る恐る電話に出る。


『もしもし? 遥斗くん? 夜遅くにごめんね』


 鼻声で震えている声。何かを抑えようと我慢しているのがすぐに分かって、この後の言葉が鮮明に脳裏を駆け巡る。


 嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、聞きたくない。


 頼む、頼むから、神様お願いだから、僕の願いを聞いて。


『今ね、叶がね亡くなったの……』


 神様は無情に僕の願いを吐き捨てた。


 上手く息が出来なくなって、目が熱くなっていく。胸の奥が鷲掴みにされてるみたいに痛くなって、視界は滲み始める。


『あ、え、今から、今から向かってもいいですか』


『ええ、もちろん大丈夫よ。叶もきっと待ってる』


 僕は家を飛び出して、自転車に飛び乗って夜の街を駆けていく。静寂を切り裂くようにグングンと速度を上げて、僕は無我夢中に走った。


 溢れる涙はとめどない。でも、それでも君の元へ行かなければならない。君とまた明日って約束したから、まだ約束を守れてない。


 病院に着くと、君のお母さんが待っていてくれた。一緒に君の待つ病室へ向かう。


 いつもここに来る時は、君に会えるって高揚感に満ちていたはずなのに、今はとても空気が重たくて、あるのは悲しみの空気だけだった。


 病室に着いて、一呼吸置いてノックをする。

 ノックをしても、扉の向こうから返ってきていた「どうぞ〜」という鈴の音は返ってこなかった。


 扉を開けた向こうにいたのは、静かに眠っている君だった。


「林檎……持って来れなかった。次、来る時持ってくるって約束したのに、ごめん」


 返事は無い。


「……あぁ、返事してよ」


 縋ってもあの鈴はもう聞こえない。優しく微笑んでくれたあの笑顔はもうない。ビードロのような瞳はもう僕を見つめてはくれない。


 君はもうこの世界にいない。どんなに願っても、生き返ることは無い。


「また明日」って約束をしてくれることもない。


 あぁ、まだ君と話したいことが沢山あったのに、迎えたい明日が沢山あったのに。どうして、神様は連れて行ってしまうんだ。


 君が居なくなってしまった世界は色がなかった。


「あのね、これ。亡くなる前に叶が渡して欲しいって」


 渡されたのはひとつのボイスレコーダーだった。


「遥斗くんに伝えたいことがあるって、叶が言ってたの。聞いてあげて?」


 僕は病室を後にして、外に出た。空を覆い尽くさんと星が煌めいていた。近くにある茂みに僕は座り込んで、貰ったボイスレコーダーを再生する。


『あーあー、マイクテスト、マイクテスト。ちゃんと入ってるかな?』


 ボイスレコーダーから流れてくる鈴のような声。もう、聞けないと思っていた君の声だ。


『まあ、入ってると信じて話したいこと話すね。手紙とかでも良かったんだけど、やっぱり文字は恥ずかしいからさあ……』


 なかなか本題に入らない君。そう、君はいつも話の脱線が酷かった。一つの話題が生まれたら、いつもそこから枝分かれしてあちらこちらへ話が飛んでいってしまう。僕はそれが面白くて好きだった。


『あ、脱線しちゃった。えっと、本題に入るとこれを聞いてる時は私はもうこの世にはいません。なんちゃって、言ってみたかっただけ。でも、居ないのは本当だよ』


「嘘であってよ……」


 なんてボイスレコーダーに言っても無駄なのは知っている。わかっている。


『でね、きっと君は優しいから泣いてるでしょ。ん〜泣いてくれるのは嬉しいけど、ちゃんと前を向いて生きてね、私はもう過去の人間になるからさ。君は君の人生を歩んで、こっちに来た時に沢山の話をしてよ、約束だよ?』


「もちろん、沢山話すよ。いっぱい話す」


『実を言うとね、君が毎日来てくれて嬉しかったよ。いつも扉の方を見てたよ。でもね、恥ずかしいからノックが聞こえたら外の景色を見てたふりをするんだ、気付いてた?』


「全然」


『気付かれてたら恥ずかしいけど、本当に嬉しかったの。だからね、これは君が前を向けるように遺します』


 ほんの少しだけ間が空く。


『……私の人生は早く終わっちゃうけど、君の人生はまだまだ続く! だからさ、天国に来る時までずっーと待ってる! 早く来ちゃダメだからね! じゃあ、また明日ね、ずっと待ってる』


 そう言ってボイスレコーダーは途切れた。


 僕はぼろぼろと泣いていた。大粒の涙が頬を伝っては地面に滴る。星が反射して、目にしみる。


 拭いても、拭いても、涙は止まらなかった。辛くて、悲しくて、世界から飛び出してしまいたい。


 でも、僕は生きなきゃならない。君と最後の約束を交わしたから、これからずっと生きて沢山の話を持ってそっちに行くって。


 林檎の約束は守れなかったから、これはちゃんと守るよ。


「……あぁ、早く明日が来ないかな」


 胸のボイスレコーダーはほんのりと暖かった。

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ボイスレコーダー パ・ラー・アブラハティ @ra-yu482

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