第32話 渦雫剣
駅から秋山神社までは歩いて20分程。その距離を、剣を抱えつつ動きにくいワンピースで全速疾走した為、渚は鳥居の前に着く頃には全身にぐっしょりと汗をかき、息も絶え絶えであった。切羽詰まっていることもあり、蓄積した疲労は部活の時のそれとは比べようもない。
「はぁ...はぁ...。やっと、着いた...」
荒い息を上げながら、渚は鳥居を見上げる。国道に面しているにも関わらず、辺りには人どころか車すら一台も走っていない。そのせいで、曇り空の下に聳えるそれが、とても不気味に見えた。姫神は自分の事を歓迎していないのか、とすら思えるほどに。
「待っててね、晴馬君。今、助けるから」
少し息を整え、渚は鳥居に一礼をして参道へと進んだ。
(なに...これ。凄いじめじめする...)
最初はかいた汗のせいだと思っていたが、どうやらそうではないようだ。境内へと歩みを進めれば進める程、周囲の湿気が強くなっていることに渚は気付く。とても10月初旬の湿度とは思えない。渚は剣の箱を抱える力を強めた。
「うっ...!」
渚は思わず足を止めてしまう。突然、凄まじい生臭さが喉と鼻を突いたからだ。まるで生ごみに顔を突っ込んだかのような異臭に耐え切れず、渚は昼食べたものを足元の石畳に戻してしまった。
(ど、どうなってるの...)
きっと、澱神が境内に進ませまいとしているのだろう。ここは秋水河姫神の住まう神社のはずなのに、そんな事が出来てしまうのか。どこまでも、恐ろしい邪神だ。
「待ってて...晴馬君...」
しかしそれでも尚、渚の心は挫けない。
もう一度晴馬に会いたい。もっと彼の事を知りたい。もっと彼の事を、好きになりたい。その一心で、渚は吐き気と恐怖を押し殺し、更に境内へと進もうとする。だが
「...ッ!!」
境内まで後数十歩と言ったところで視線の先に現れた”それ”を見た渚は、再び足を止めてしまった。そして限界に達した恐怖が、全身に迸った痺れと共に彼女を硬直させてしまう。
「なに、あれ...」
薄汚れた白装束。土気色の素足。そして伸び放題の髪に苔のようなものを付着させた女が、境内の石段をゆらり、ゆらりと降りて来る。それは、晴馬と優悟を陥れた、あの女その者だった。
石段を下り終えた女は俯いた姿勢のまま、渚にゆっくりと歩み寄って来る。更に女が歩を進める度、
ケロ...ケロ...ケロ...
という蛙の声が脳に直接響いて来る。渚は驚きの余り、子供のような悲鳴を上げながら尻もちをついてしまった。その拍子で剣の箱も落としてしまう。
(に、逃げないと...!)
だが身体が言う事を聞かない。逃げるどころか、立ち上がることすら出来ない。その間にも女はどんどんと距離を詰めて来る。
(いや、来ないで...!)
バキンッ!!
その金属音に、渚だけでなく女も動きを止める。音のした方向を見ると、渚と女の間に転がっていた箱の南京錠が異様な形にねじれ、外れていた。まるで、錠そのものを雑巾のように絞ったかのようだ。
カシュッ!バカンッ!!
更に怪現象は続く。錠の外れた箱が突然勢いよく半回転したかと思うと、渚に向けてその蓋を開け放ったのだ。
そしてそのせいで、渚は見てしまった。目にしただけで祟り殺されるという、箱の中身を
「......」
渚の瞳から一瞬にして光が失われた。もはや女の事など眼中にないように、渚は感情の読み取れない魚のような目で箱の中を凝視し続ける。そんな彼女の頬に、一滴の雫が落ちる。
雨が降って来た。最初の数秒はぽつぽつと。以降はどんどんと雨脚が強くなり、ものの数十秒で、辺りはバケツをひっくり返した、なんて表現では生ぬるい程の豪雨に包まれた。まるで荒れた日の海に放り込まれたかのようだ。雨粒が落ちる勢いも尋常では無く、バチバチという音は銃声のようだ。
いつの間にか、女は姿を消していた。それでも渚は微動だにせず、濡れ鼠の状態でへたり込み、箱を見つめ続ける。
意識が次第に薄れて来た。響く雨音がどんどんと弱くなる。視界が暗くぼやけて来る。体も、冷たくなっていく。息をするのさえ、億劫だ。
ゴクロウサマ。オネムリナサイ
意識を完全に失う直後、少女のようなころころとした声が、渚の耳を撫でた。
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