三章 救済
第20話 欠けた日常とブラックコーヒー
『間もなく西淀住、西淀住。お出口は左側です。電車とホームの間が空いています。お降りの際は十分にご注意下さい』
いつも通りのアナウンスを右耳から左耳に聞き流し、優悟は学校の最寄り駅を降りる。朝練の早い時間の為、人はまばらだ。
改札を抜けた優悟はふと近くにあったベンチに腰掛け、改札の奥にある男子トイレの方向を見た。
(あいつ朝は腹弱いし、トイレ入ってるとかワンチャン...)
しかしどれだけ待っても、求める人物は出てこない。そうこうしているうちに
「あれ、大久保じゃん。何してんこんなとこで。朝練行かんの?」
と、次に来た電車に乗っていた平先輩に声をかけられてしまった。
「あ、行くっす行くっす!ちょっと考え事してて...」
「...杉内の事か?」
その発言と機微な表情の変化を見逃さなかった平先輩は彼の悩みをあっさりと見破った。エースとして常にチーム全体を俯瞰し引っ張る役目を果たしている為か、平先輩は部員の変化にとても聡い。
「はい...。あいつ、倒れてから連絡一切繋がらないので...」
「みたいだな。大谷もめっちゃ心配してたわ」
平先輩は顔をしかめ、小さくため息を吐く。
晴馬が後夜祭で気を失ってからはや2週間以上。あれから彼は学校に来ないどころか、一切の連絡が取れなくなってしまっていた。
人が背中から突然倒れるという非現実的な光景に優悟は初め、晴馬が皆の笑いを取るために体を張った空気の読めない悪ふざけをしたものだと思った。
しかし体育館をつんざいた渚の悲鳴と先生達の慌てふためき様。そして学校に駆けつけた救急車の存在でようやく、晴馬に何か異常な事が起きたという事実を受け入れた。
晴馬が学校に来なくなってから、迷惑を承知で何回メッセージを送ったり電話をかけたりしたか分からない。でも結局、晴馬から返事が返ってくることは無かった。
「とりあえず朝練行こうぜ?ボール触ったら多少は気も紛れるだろうし」
「はい、ありがとうございます」
そうだ。晴馬が居なくとも自分の時間は変わらず進む。優悟は晴馬の事をなるべく考えないようにする為、「今日はスリーポイントの練習でもしてみようかな」とか「昼何食おうかな」とか、関係の無い事を頭に浮かべながら学校に向かった。
それからの時間は、普段と何も変わらなかった。
朝練をこなして、汗ばんだ身体をボディーシートで拭いた後に教室に座る。ホームルームが終わったら、チャイムの号令で始まるつまらない授業を受け、昼休みになったら食堂で学食を食べる。全ての授業が終わって放課後になったら、再び更衣室で練習着に着替え、臭い自分のバッシュを持って体育館へと向かう。
当然クラスの顔振りや授業の内容こそ変わるものの、本質的な所は3年間何一つも変わっていない、至って普通の学生生活だ。
そう、変わっていないのだ。自分の横にいつもいる、親友の存在を除けば。
練習終わり、優悟はジュースを買いに暗い食堂へと向かっていた。その途中、怪奇現象が起きたトイレを優悟は横切る。
何故か点いていない明かりと水音、二人の心臓を止めかけた、壁か何かを激しく叩く音。
あれは本当に恐ろしかった。けれどその代わり、あの時は隣に晴馬がいた。
友達が突然いなくなる。それによって生まれた空虚感がこんなに辛いとは思ってもみなかった。心に空いた穴が生み出すつきつきとしたこの痛みに比べれば、逃げるだけで消し去ることが出来たあの時の恐怖など足元にも及ばない。
自販機の前に来た優悟は小銭を入れ、購入ボタンを押す。
「あ、やべ」
ボーっとしていたせいでエナジードリンクを買うつもりがその隣にある缶コーヒーのボタンを押してしまった。ガコンッ!という音と共にブラックコーヒーの缶が取り出し口に落ちてくる。
「ま~じか...」
優悟は渋々取り出し口のカバーを開ける。弾ける爽快感が口いっぱいに広がる炭酸のエナジードリンクと、眠気覚ましにぴったりな苦みと酸味がたっぷり含まれているブラックコーヒー。激しい運動で疲れた若人の身体がどちらを欲するかなど、比べるまでも無いだろう。それにそもそも、優悟はコーヒーがあまり好きでは無かった。
「ま、買っちまったもんはしゃあないか...」
優悟はコーヒーを取り出す。冷やされたスチール缶が、火照りが残る掌の熱を奪い始める。プルタブを起こし、飲み口を開ける。芳醇な香りが鼻を突く。
そしてその香りが、優悟の脳の片隅にあった記憶を引っ張り出した。
「そういや晴馬と初めて話した時も、間違えてコーヒー買ったっけ」
四月。春の陽気と初々しい空気が満ちる校舎。そんなある日の放課後、関央に入学したばかりの優悟はふらふらとした足取りで食堂に向かっていた。
(バスケってこんなキツイのかよ...。俺、無理かもしれん...)
バスケ部ならモテるぞ。父からのその触れ込みに影響され、下心しか無い状態でバスケ部に仮入部した優悟はしかし、その凄まじい運動量と、一年生にも全く容赦しない鬼のような顧問のしごきに早くも心を折られかけていた。
(喉、渇いた...)
何とか自販機の前に辿り着いた優悟は小銭を入れ、購入ボタンを押す。
「あ、やべ」
疲れのせいか、エナジードリンクを買うつもりがその隣にある缶コーヒーのボタンを押してしまった。ガコンッ!という音と共に、葉巻を加えたオジサンがトレードマークのブラックコーヒーが取り出し口に落ちてくる。
「やっちまった...コーヒーとか俺飲めないのに...」
だが求めていたエナジードリンクを改めて買う程の余裕は彼の財布には無かった。諦めてコーヒーの缶を引っ張り出し自販機の前を去ろうとしたその時
「コーヒー飲めるんだ」
振り向くと、自分と同じくバスケ部に仮入部していた男子生徒が立っていた。クラスが違う為名前は知らないが、練習中一緒にパスの練習をしたことは覚えている。
「ま、まあね。受験勉強中に飲めるようになったんだ」
優悟はついそんな嘘を吐いてしまった。コーヒーなんて息が臭くなるだけの、苦くて酸っぱい飲み物なのに。
「じゃあコーヒー飲んで勉強してたってこと?凄いね...。俺なんて直前期はココアしか飲んでなかったよ」
彼はそう言うと優悟を横切り、自分も自販機で飲み物を買う。彼が買ったのは丁度優悟が買うつもりだった、炭酸のエナジードリンクだった。
「それにしても練習マジできつかったね...。俺、最初のランニングでもう辞めたいってなったもん。というか入ったばかりの一年生に先輩達と同じ事やらせるとか、あの顧問の先生厳しすぎない?」
「それ思った。それと入部するなら自分のシューズ買っとけって先輩言ってたじゃん?でもさっき調べたらさ、バスケットのシューズって安くても2万位するらしいよ」
「に、二万!?それほんと?めちゃくちゃ良いヤツじゃなくって?」
「ホントだって!ほら、これ見てみてよ...」
優悟の手はポケットのスマホに自然と伸び、当然のように校則を破ってその電源を入れ、先程更衣室で見ていたスポーツ用品店のオンラインショップの画面を彼に見せていた。
これが、晴馬との初めての会話だった。気付いたら休みの日に二人で遊ぶ間柄になっていた為これが特別仲が深まった出来事、という訳では無いが、それでも優悟は確信している。
もしこの日晴馬と出会っていなかったら、自分はここまでバスケを続けていられなかっただろう、ということを。
その日の帰りに一緒に同じ方向の電車に乗り、そこで同じ最寄り駅であることに驚き、その流れで互いのクラスを教えたり、慣れない学校のことを話したり―
小学校の同級生の大多数が地元の中学校に進学する中で、自分は唯一人私立の一貫校に通う。人間関係が完全にリセットされた環境の中で晴馬は、初めて出来た「友達」だった。その関係にヒビが入るのが怖くて、優悟は晴馬に倣って正式にバスケ部に入り、厳しい練習をひたすら耐えた。そしたらいつの間にか中学チームのキャプテンになり、今では高校の先輩達と変わらずバスケに勤しんでいる。
優悟はコーヒーを一気に飲み干す。口に残るねっとりとした苦みと、鼻の奥をくすぐるような独特の酸味。未だにこれらを「美味しい」と感じられない舌は、二年以上経った今でも、晴馬の前で去勢を張ったあの四月の放課後に取り残されている。
「やべ...汗が、目に...」
空になったスチール缶を強く握る優悟の目には、涙が滲んでいた。目に染みる汗なんてもう、一滴もかいていないのに。
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