メゾン・グリーンサイドの小さな謎

そーえい

第1話 引越しと、少しばかり個性的なご近所さん

新しい生活というものは、いつだって段ボール箱の匂いから始まる。


テープの粘着質な香り、紙の乾いた香り、そして、どこからか紛れ込んできた前の住まいの埃っぽい香り。それらが混じり合った独特の匂いが満ちるリビングで、水野沙耶(みずのさや)は、目の前にそびえる段ボールの山を見上げ、ひとつ、長い溜息をついた。


「さて、どこから手をつけようか」


三十四歳、シングルマザー。この春から小学一年生になる娘の莉子(りこ)を育てるため、心機一転、都心から少し離れたこの「メゾン・グリーンサイド」へ越してきた。


築三十年という年季は、真新しいとは言えないまでも、丁寧に手入れされてきたことがうかがえる落ち着いた佇まいを見せている。


何より、以前のアパートより一部屋増えて、家賃は二万円も安いのだ。選ばない理由はなかった。


「ママ、お城、できたよ」


背後から、娘の莉子の声がした。


振り返ると、莉子は引越し業者さんが置いていった空の段ボールを巧みに組み合わせ、自分だけの小さな城を築き上げていた。その小さな玉座にちょこんと座り、満足げに母を見上げている。七歳にしては、どこか大人びた、静かな光を宿した瞳だった。


「あら、素敵なお城ね。お姫様は、まずはお腹が空いていないかしら」


「空きました。家来に、おにぎりを要求します」


「はいはい、かしこまりました」


沙耶はくすりと笑い、まだ荷解きもままならないキッチンへ向かった。とりあえず今日のところは、近くのコンビニで調達したおにぎりと唐揚げが、親子二人の最初の晩餐となる。


明日から、週末だった。引越しの挨拶は、早いうちに済ませておくのに越したことはない。沙耶は莉子の小さな手を引き、まずは真下の部屋のインターホンを鳴らした。


「はい」という少し掠れた声とともにドアが開くと、そこに立っていたのは、いかにも好々爺といった風情の、しかしどこか詮索するような目をした初老の男性だった。胸には「管理人」と刺繍された紺色のベストを着ている。


「はじめまして。昨日、四〇三号室に越してまいりました、水野と申します。娘の莉子です。これからお世話になります。どうぞ、よろしくお願いいたします」


「りこです。よろしくおねがいします」


莉子がぺこりと頭を下げると、管理人は目を細めた。


「ああ、どうもどうも。私がここの管理人の山田です。みんなからは『山さん』なんて呼ばれてますんで、お気軽に。いやあ、お若い方が来てくれると、マンションも明るくなりますなあ。お一人で、大変でしょう」


最後のひと言が、ほんの少しだけ声のトーンを落として尋ねられたことに、沙耶は気づいた。


「はあ、まあ」


曖昧に返事をすると、山田は「まあまあ、何か困ったことがあったら、いつでも言ってくださいよ」と人の良さそうな笑顔を見せた。このマンションのことは、何でもお見通しだ、とでも言いたげな自信がその笑顔には滲んでいた。


次に訪れたのは、自治会長の田中一郎さんのお宅だった。インターホンを押すと、背筋の伸びた、真面目という言葉をそのまま人にしたような四十代半ばの男性が、きっちりとアイロンのかかったシャツ姿で現れた。


「四〇三号室の水野です。はじめまして」


「ああ! 引っ越してこられた。自治会長の田中です。これはご丁寧にどうも。我が『メゾン・グリーンサイド』へようこそ。何か規則などでご不明な点があれば、遠慮なく私まで。ゴミの分別は、火曜と金曜が可燃、第三水曜が不燃と資源です。ああ、それから、廊下は共有部分ですので、私物を置くことは原則として禁止されております。回覧板は、お隣の佐藤さんから回ってきますので、ご確認の上、速やかに裏のお宅へ…」


立て板に水とばかりに語られる規則の数々に、沙耶は圧倒されながらも懸命に相槌を打った。この人は、きっと悪い人ではない。ただ、少しばかり真面目すぎるのだろう。莉子は、田中のきっちりと分けられた七三分けの髪を、じっと見つめていた。


挨拶回りを終えて自室に戻る途中、一階の廊下で、数人の主婦が井戸端会議に花を咲かせている場面に出くわした。


中心にいるのは、ふくよかな体型の、声の大きな女性だ。目が合うと、彼女はにこやかに、しかし値踏みするような視線を沙耶親子に向けた。


「あら、新しい方? 四階の」

「は、はい。水野と申します」

「まあ、よろしく。私は鈴木。ねえ、あそこのお宅、またお一人なんですって。大変よねえ」


同意を求めるように周囲に視線を送りながら、鈴木と名乗る女性は言った。沙耶の耳にも聞こえる声量で。悪気はないのかもしれない。ただ、思ったことがすべて口から漏れ出てしまう種類の人間なのだろう。沙耶は苦笑いを浮かべて会釈し、そそくさとその場を離れた。


部屋に戻り、ドアを閉めた瞬間、どっと疲れが押し寄せた。


「いろんな人がいるのねえ」

「うん」


莉子は、ソファに置かれたスケッチブックを開くと、何やら熱心に絵を描き始めた。


「莉子、さっきの田中さん、面白かったわね」

「うん。あのひと、ボタンが一個、ちがうのついてた」

「え?」


莉子は顔を上げずに言った。


「シャツの、上から二番目のボタン。すこしだけ色がうすかった。かたちが、ちょっとだけ丸かった」

「……そうなの?」


まさか、と沙耶は思った。あのきっちりとした人が、そんなミスを?


「あと、鈴木さんってひと、エプロンにケチャップついてた」

「……」

「管理人の山さん、ズボンの膝が、ちょっとだけ白くなってた。昨日、床に膝をついたんだと思う」


娘の淡々とした言葉に、沙耶は背筋に微かな寒気のようなものを感じた。七歳の子供の観察眼としては、あまりに鋭利すぎないだろうか。いや、子供というのは、大人が思いもよらないような細部を見ているものだ。きっと、そういうことだろう。


沙耶は無理やり自分を納得させ、荷解きの作業に戻った。このマンションでの新しい生活は、どうやら一筋縄ではいかないかもしれない。そんな予感を、胸の奥にしまい込むようにして。

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