Love is.

@sano_ongaku

Love is.

 あらゆる愛がその尊さひとつひとつをもって、あなたたち、そしてわたしたちに降り注ぐことができるのならば、きっとそれは何にも代えられないほど幸福なものといえるだろう。


 冬が死体のように転がっているのを見ていた。

 遠くでサイレンが鳴っていた。

 甘い菓子の匂いが鼻腔を突き抜けていた。

 私は人を待っていた。

 空からは雪がちらついていた。雲の切れ間からは星が誇らしげにこちらを見下ろしていた。私はマフラーに顔を埋めながら人を待っていた。あらゆる人が跋扈する東京の中の隅にある、しずかな駅の前で私は待っていた。

 鞄を抱える。隙のないように。中にある〝想い〟が消えないように。傘を持っていないからなおのことたいせつにしなければならなかった。

 約束の時間は十八時だった。でも、十八時に「さっき仕事終わって急いで向かってる。ゴメン。十五分遅れる」そうメッセージが来たから、私は時計の長針が九十度動くのを待った。

 十五分後ちょうどに彼女——橘みどりの快活な声が私の耳をくすぐった。

 「遅れてごめんね。コーヒー奢るから」彼女は言った。

 「いいよ、気にしないで」私は言った。彼女は時間に遅れたのを見たのは初めてだった。

 そこから、どちらから何を言うわけでもなく駅から十分ほどの距離にある喫茶店に入った。途中、甘い香りを漂わせていたケーキ屋の前は通り過ぎた。

 喫茶店は純喫茶ふうのところで、コーヒーも美味しいが、どちらかといえば時間を過ごすための空間だった。よく〝私たち〟が通っていたところだった。

 木材に硝子が貼られた重厚感のある扉を引っ張るとカラン、とチャイムが鳴る。控えめな照明が焚かれた空間が私を迎えた。初老に差し掛かっている風貌のウエイトレスさんが隙のない所作でしずかにこちらへと歩み、「二名様でいらっしゃいますか」と問いかける。私は頷いた。「こちらへどうぞ」私たちは案内された席に座った。

 座るなり彼女は身に纏っていた黒色のAラインのコートに手をかけた。「外は寒いくせに結構室内は暑いし、何着ればいいのかわからないよね」彼女はそう漏らした。これには同意だ。私は「そうだね」と言いながら続くように自分のコートに手を伸ばす。

 そこから水が運ばれてくるのにさしたる時間はかからなかった。ウエイトレスさんは「ご注文は」と静かに問いかけた。「ブレンドコーヒーで。ホット」彼女は言った。「レモネードをください」私は言った。

 ウエイトレスさんがいなくなるのを見届けてから、私は、「これ、草稿」と鞄の中に突っ込んだ愛をつまんで拾い上げた。

 クリアファイルには収まらないA3の紙がそこにある。走り書きの五線譜だった。

 みどりは「ありがと」と言いながら受け取ってぱらぱらとめくった。ダブルクリップで挟まれたそれは十枚ほどの厚みがある。楽譜は三段でひと組だった。ピアノ伴奏とバイオリンから成る曲だ。私はこれを書いていた。

 コーヒーとレモネードが届く。「弾けんのかまではわからないけど。とりあえず。書いたよ」私はそう音を落とした。みどりのアイシャドウのきらめきをみながらレモネードを飲む。私たち以外に客はいないのか、私の声はやたら響いて、後半は小さな音量となった。

「そうねえ。弾いてみないとわかんないかも」

「みてもわかんないもんなの?」

「わかるわけないじゃん。素人だよ?」

「オケサークルの元部長がなに言ってんだか」

「部長ってのは上手いからなるもんじゃないでしょ。というかオケサーの部長って名ばかりじゃん」

 みどりはボブカットの髪に手櫛を通しながらコーヒーに口をつけていた。五線譜はテーブルの上に散らばったままだ。もう読み終わったのかこれ以上覗き込むことはなかった。愛は散乱している。

 散乱する愛を私はそっと片付けるとまたクリップを嵌める。「これで進めていい?」問いかけると、「わかんないけど、いいよ」みどりはあっけらかんに言い放った。

「わかんないけどさ。あんたのことは信頼してるから」

「あっそ」

「つれないなあ〜。よくできるなーって初心者でもわかるよ」

「なにが?」

「あんたの楽譜のこと」

「は?」

「は? ってなによ。『私たち』の間でこれできるのあんたしかいないからさ」

「稚拙な楽譜なんて誰でも埋められるでしょ」

「オケサーで楽譜書けんのあんたしかいないじゃん。できないから、あんたに頼ってるんだよ」

 ふと初めて楽譜を書いたときのことを思いだした。今日みたいなクリスマスの足おとが聞こえる日だった。〝私たち〟は大学時代オーケストラサークル、通称オケサーで一緒に、音楽に明け暮れていた。

 ちなみにオーケストラサークルって言っても同好会という方が正しく、部員はたったの四人。私はトランペットを吹いて、みどりはバイオリンを弾く。あとの二人はチェロとクラリネットでまあ、編成だけでいえば、木管金管弦二つでそれっぽく聞こえるから私たちはオケサーと呼んでいた。

 やることといっても文化祭に参加するわけでもなく、大抵はスタジオでわけのわからないセッションをするくらいがメインの活動。

 そういう緩い同好の士だったのだけれど、一年のうちの一回だけ他所で演奏する機会があった。チェロの女——ユイコと言う——の母親が勤めている老人ホームのクリスマス会で演奏することになっていた。

 で、その初回に私があくせく楽譜を作ることになる。いかんせん変な編成だから、どの楽譜も参考にならず、ピアノ譜をもとに私がアレンジする羽目になったのだ。

 私がやることになった理由はピアノを唯一習っていたから、だ。誰もピアノ譜なんて読めないからお前がやれ、と言われ私は寝食をこれに費やすことになった。大学一年のこの時期だ(この時期にやるということは練習期間は察してほしい)。

 それが少しずつ発展し、オリジナルの曲を作れ、だのなんだのといわれ、大学に在籍していた四年間、一年に一回くらいのペースでなにかを作る羽目になったし、アレンジもする羽目になった。

 で、今回曲を書いた理由。卒業してから数年経った今、楽譜に触れることも少なくなったけれど、数ヶ月前、「作曲をしろ」とみどりに突然言われたのだった。私は面食らいながら酒を一回奢ることを条件にこれをうけた。それなりの理由がある。

「間に合うの?」

 私は問いかけた。

 半分ほど飲み干したレモネードは氷が溶けて薄まりつつある。みどりはコーヒーを半分まで飲んでからコーヒーフレッシュを落とし入れた。彼女はそういう妙な飲み方をする女だった。私は白くなりゆくコーヒーをじっと見つめるふりをして、彼女の小鼻の化粧のよれを密かに見る。

「ユイコの結婚式まで。あとちょっとじゃん」

「あんたも弾くんだよ」

「ピアノは簡単にしてあんの」

「わ。ずるい」

 三ヶ月後に催されるチェロの女——ユイコの結婚式の余興でこれを弾くことになっている。バイオリンはみどり、ピアノは私だ。絶対ろくなことにならない。「作曲をしろ」と頼まれたときに、みどりは「ユイコに余興をやってくれ」と言われた、と言っていた。

 「やめたほうがいいよ」って相談されたときに私は言ったんだけれど、みどりは「ユイコがどうしてもって言うからさ」と言い訳がましく言っていた。私はそれに根負けしたのだ。

 私はそう騒いでいる彼女を見て、ほんの少しの心の暗澹を得た。私だけ仲間外れにされた気がしたからだ。

 昔からみどりはユイコには甘い。それもそうなのかもしれない。それは致し方ないのかもしれない。わかってはいる、けど。

 ユイコとみどりは一時期交際していたから。

 いつから交際を初めていつ交際を終えたのかは詳しくは知らないが、大学四年の春までは交際していたと思う。ある日いつものようにスタジオでセッションしていた私たちは、そのあと原価酒場で飲み散らかしていた。ちょうど就職活動の時期でオンシャへの恨みつらみを吐き散らしながら酔いに酔い潰れて、とくにみどり、みどりが潰れてどうしようもなかったから、「ユイコに預ける」と託して私はクラリネットの女——アキラと一緒にそそくさと帰った。

 帰る間際の彼女らをちらりと見た。そのときにはもうそれは恋人でしょう、と言わんばかりに手を繋いで身を寄せ合っていたのだ。

 それからしばらくしてみどりは「ユイコと付き合ってんだよね」と私とふたりだけのときに言った。知ってるよ、とは言わなかった。

 それから何年か経ってユイコは婚約をした、と私たちに報告し、そこで私は二人の関係が終わっていたことを知った。

「まあ、練習するしかないっしょ」

 私は薄くなったレモネードの残り香を求めてちゅるちゅると吸い上げて、言う。どうにもこうにも練習する他ない。練習という文字は見たくないが、結婚式で恥なんてかきたくなかった。

 「練習、一番きらいなワードだわ」みどりはコーヒーを飲み切りながら言う。

「私は、二番目にきらいかな」

「え、二番なの? あんたに練習よりきらいなモンあるの?」

「そりゃ、あるよ。人間誰しも苦手なことってあるでしょ」

「えーなに? 結構私たち長い付き合いだけど知らなかった」

「にんじん」

「え?」

「にんじん、好きじゃないんだよね。特に甘いやつ」

「なんだ食べ物かい」

 彼女はからからと笑った。

 私は言えなかった。

 ——ユイコだよ。

 とは言えなかった。

 私が欲しかったみどりの心を奪ったくせに、他の男と結婚をしたユイコのことを私は許せそうになかった。だってみどりはまだ彼女に囚われている。

 結婚式の余興なんていうみどりなら到底やりそうもない面倒なことを嬉々としてやって、無邪気にも私に作曲を依頼する。バイオリンの曲なんて探せばいくらでも楽譜がある、というのに、だ。

 それが私は許せなかった。みどりの好意を利用している、という自覚がないことにも許せなかった。たぶんユイコからすれば、元カノではあるけれど、同じサークルの友人、それ以上でもそれ以下でもない。別に悪い終わりではなかったのだろう、ということは彼女らの態度を見れば明らかだ。

 でも、私はだからこそ、ユイコを許せなかった。まだ悪意や妬心で利用する方がましだった。どうしようもなく純粋で仕方のない気持ちだからこそ。

 今更みどりの心がほしいとは思わない。けれど、こうして、彼女の心を使うのは受け入れ難かった。でも、みどりの言われるままに作曲をした私もきっと同罪だろう。私だって、みどりの気持ちに付け込んで、〝みどりと私〟で彼女の結婚を祝おうとしているのだから。

 許せなくても、祝う気持ちは本当だ、だって、理由はなんであれ確かに私とユイコは友人であり、結婚は晴れであり、友人の結婚は喜ばしくもあり。それは確かだからだ。

「これって長調?」

 私が揃えてクリップに留めた楽譜へと視線を遣る彼女がいる。

「婚姻の場で短調ってありえる?」

「まあ、そうだけど」

「目出度いくらいうんと長調にしてあるから、安心しな。……ねえ、みどり。バイオリン、触るの何年振り?」

「急になに?」

「大学卒業して触ってませーん。とかだったらどうすんの? 余興どころじゃないっしょ」

 「それは」みどりはそこまで言って言葉を区切って、それから初めて目を伏せた。空っぽになったコーヒーのカップを指でふちどるように触れる。

「一年前の春まで」

 彼女の言葉に、私はぐっと息を噛み締めた。ああ、そうだ、と思い出した。私たちの心は同じキャンパスを使っていて、使う色は違えど、描くものも違えど、結局は同じような余白を残しているんだった。

「『私たち』って職種も勤務時間も勤務地も違うし、卒業してからなかなか会えなかったけどさ。『私たち』ってまたいつか集まってスタジオでワーキャーすると思ってたんだよね。終わったあとは原価酒場とかじゃなくて、もうちょっといい場所で飲んでさ。アホみたいな酔い方はまあ、するかわからないけど、とりあえず飲んで」

「うん」

「でもさ、それって叶わないじゃん。だから、それから弾くのやめて。で、今回久々にバイオリン触ったんだよね。……今度の結婚式、アキラの命日の前週だよね」

「確かにそう。次で三回忌、かな」

「ユイコ、アキラに花嫁姿見せたかったのかな」

「どうだろう」

 私は努めて曖昧に答えた。一年前の春。アキラは命を落とした。アキラの死を最後まで見ていたのは私だけだ。他の人にはひた隠しにしていたから。

 彼女は癌で亡くなった。若者の癌は進行が早いという。それは真だったということを私は彼女で知る。死の淵を彷徨う彼女をずっと見舞っていたのは私だった。


「みよこちゃん来てくれてありがとうねえ」

 彼女はいつもそう私に言ってくれていた。

 彼女を見舞い続けるようになったのはいくつかの偶然が重なった結果だった。転職をして、たまりにたまった有休を消化しているときに、彼女の親から娘が倒れて、という話を聞いたのだ。私の実家は床屋をやっていて、アキラの父親はいつからかその客だったのだ。

 見舞いにいくと嬉しそうに、とても嬉しそうに私を迎えたから、一度きりでいいかな、とおもっていたのにずるずると結局転職後も彼女を見舞い続けることになった。少しずつ弱りゆく彼女を見るのは心に堪えたが、きっと私なんかよりアキラ本人が辛かったのは違いない。

 たったの数ヶ月で彼女は病に蝕まれていった。最後は緩和ケアの病院に移り意識があるのかないのかわからないまま、私はただ彼女の手を握りしめていた。

「ユイコちゃんの結婚式っていつやるんだろうねえ」

 結婚をする、ということは彼女が病に倒れる前から明かされていたことだった。だから、アキラもきっと彼女の結婚式、を考えたのだろう。アキラはそう言って窓の外を眺めていた。もう、終末期の病院での出来事だった。

「いつなんだろ。入籍ってもうしたんだっけ……」

 私がスマートフォンのメッセンジャーアプリでトーク履歴を漁っている間彼女はゆっくりと息を吸って吐いて……それから途中でごほごほと咳き込みながら、「私、ユイコちゃんの結婚式、いきたくないな」そう告げた。

 私はトーク履歴を探す手を止めてしまった。

「どうして? ユイコもアキラがくると嬉しいと思うけど」

「こんな、私。私、髪の毛もなにも生えなくなって、細くなって、いきたくないでしょ。わたし、もうちょっとおめかししないと」

「じゃあおめかしするときに一緒に服選びに行こうよ。とっておきの勝負服選びにいこう」

「ふふ。いいよね。楽しいとおもう。でもね、私みよこちゃんには見せていいって思えるの。かわいくない私を、見せていいとおもうのよ」

 それがどういう意味を持っていたのか死人に口なし、わからないけれど、その気持ちを受け取って悪い気はしなかったことは覚えている。

 そして、鮮明であった最後の彼女との会話であったことも、覚えている。


「多分ユイコって一番アキラに花嫁姿みせたかったと思うよ」

 みどりはコップに入っていた水を豪快に飲み干してから、長いまつ毛を瞬かせる。私も倣うようにコップの水を飲み干した。

「なにそれ。元カノの勘?」

「そうかも。結構すぐアキラちゃんアキラちゃん言ってたんだから」

「へえ。知りたくなかった」

「なんで?」

「人の恋事情は犬も食わない」

「つれないなあ。……であんたもトランペットとかピアノって長く弾いてないの?」

「いや、やってるよ」

「うわ、出し抜きだ」

「勤勉って言ってよね」

「はいはい、勤勉勤勉……。で、この草稿はいつ本チャンになるの?」

「みどりがよければだいたいこれで終わりかな。でもこのままじゃ読みにくいから優しい私はパソコンで譜面を書いてあげる」

「助かる〜やっぱみよこ様だわ」

「もっと敬いな? 年明けまでにはデータ送るわ」

「ありがと」

 そこまで盛り上がったところで、ウエイトレスさんがこちらへとやってくる。「そろそろラストオーダーのお時間ですが……」私たちはその声をきっかけに喫茶店を出た。大学時代の『私たち』もよくこの時間で追い出されてたなあということを、ふと思い出した。


 店を出れば雪は濃くふっていた。電車の遅れを気にしながら私たちは駅へと向かう。幸い私は地下鉄だけで帰ることができ、みどりも代替の手段があることにほっと胸を撫で下ろす。

 私たちは違う方面へと帰りゆく。

 「さよなら」を言う前に。

 私はみどりの手を掴んで言った。

「この楽譜ってさ」

「何?」

「愛なんだよね」

「急にどうした? スピってる?」

「なわけないでしょ。でも、やっぱ愛なんだよ」


 だって私たちって愛に溢れてたじゃん。


 彼女は腹を抱えて笑った。そして続きはスタジオで練習したときにきいたげる、そう彼女は言って、手を握り返した。

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