第54話 卒業、そして、遂に……

「音声だけだけど、紫生も出席できて良かったな」

「うん!!」

「お式が終わったから、今から卒業証書を届けに行くんでしょ?」

「勿論!!」


 三月一日、都立S高校の卒業式が無事に終わり、クラスメイトの子たちと写真撮影も終わって、朱里は今すぐにでも帰りたくて仕方がない。

 他の子たちは卒業することに寂しさを感じているのかもしれないが、朱里はこの日をずっと待ちわびていた。

 新と萌花に朱里は満面の笑みを向けた。


 大晦日の緊急手術から容体が悪化した紫生は、自力で立つことも困難だが、辛うじて会話ができるため、音声Liveでの卒業式参加という形になったのだ。

 朱里は誰一人欠けることなく卒業できたことに、心の底から嬉しさが込み上げていた。


 本当は一緒に写真を撮って、彼から第二ボタンを貰って。

 通い慣れた正門を肩を並べて通りたかったけれど。

 ここ半年ほどの彼との生活を振り返って、当たり前の日常がとてつもなく贅沢だということ知った。


 両親がいることも。

 友達と笑い合うことも。

 毎日眠気と闘いながら授業を受けることも。

 代り映えのない食べ慣れたメニューのおかずが食卓にならぶことも。

 大切な人に『ありがとう』と伝えられることも。

 大好きな人に『おはよう』と言えることも。


 何も考えずに過ごしていた日々が、本当はかけがえのない時間の積み重ねだったのだと改めて知った。


 紫生くんは、そんな当たり前の日常を過ごすことすら難しくて。

 それでも弱音を吐くこともせず、怒り散らして暴れることもせず。

 いつも優しい笑みを浮かべて、私を見つめてくれる。

 その存在がどれほど大きいか。


『生きる』という意味も。

『諦めたくない』という願望も。

『好き』という感情も。


 全て、彼から教わったこと。

 今彼に『あなたに出会えて、私は幸せだ』と、伝えたい。


♢ ♢ ♢


「先生、……数値はどうですか?」

「おっ、凄い! だいぶ改善されてますね」

「本当ですか?」

「ほら、見てごらん。ここのALTの数値が、37U/Lまで下がってる」

「確か、基準値が40でしたよね?」

「ん」

「それじゃあ!!」


 三月中旬のとある日。

 朱里は紫生の主治医である神坂医師から連絡を貰い、例の相談室に来ている。


 実は、卒業式に出席した両親と一緒に紫生のお見舞いをし、その後に両親に見守れている中、二度目の採血検査をしていたのだ。


 若いから短期集中型がいいと言われ、朱里は朝10㎞、夜15㎞を毎日走り込み、時間を見つけては縄跳びをしたり、新の家にあるバイクマシン(エアロバイク)をやり込んでいた。

 運動にプラスして、食事を徹底的に見直し、間食を完全にやめた。

 おかげで脂肪肝を示す数値が短期間で改善されたのだ。

 

 よくあるアルコール性脂肪肝とは元々違い、年齢も若く、数値も異常に高いというほどでもなく、生活習慣を見直す程度で正常値に近づくレベルではあった。

 しかも、母親が糖尿病を心配し、事前に神坂医師(妻の夕映医師)に相談していたのだ。

 それを朱里に伝えてしまうと、ついつい甘えからリバウンドしてしまう恐れもあると踏んで、わざと伝えなかったのだ。


「あとは、紫生くんにきちんと説明して、同意して貰うこと」

「……」

「それと、ご両親の同意もちゃんと貰わないとダメだからね?」

「っ……」


 数年前から戸籍関連の届出に捺印は不要になったらしく、本人の署名と証人の直筆署名があったら受理されるらしい。

 高校生の朱里は、細かいことまでは知らなかったのだ。

 けれど、『区役所には出さない』と約束して書いて貰った婚姻届を勝手に出したのでは、彼を騙したことになる。

 両親は土下座で頼み込めば、折れてくれそうだけれど。

 彼をどうやって説得すればいいのか。


 やっぱり水野さんに相談して、何か手立てを考えるしかないかな……。 

 朱里は一難去ってまた一難の状況に溜息を漏らしながらも、漸く一歩前進出来たことに嬉しくて堪らなかった。


**


「もう少しだけ頑張って……」

「…………ぁ……か…………り」


 意識が朦朧としている紫生の手を朱里は優しく握る。

 指先まで浮腫んでいて、氷のように冷たくなっている。


 何日も前からこの状態に陥っている紫生は、肝不全の末期症状にまで悪化していた。

 このままでは肝臓だけでなく、他の臓器も機能が著しく低下して多臓器不全に陥ってしまう。


「……ご、め……ん……」


 最後の言葉かと思うくらい弱々しい声が紫生の口から漏れる。

 朱里は『謝らないで』と顔を横に振る。

 朱里の瞳から零れ落ちた涙が、紫生の手の甲を濡らした。


♢ ♢ ♢


「朱里……? 緊張してるの?」

「…………ぅん」

「大丈夫よ。神坂先生は、うちの江南病院でも有名なほど、凄腕の外科医なんだから」

「……うん」


 朱里の肩を朱里の母親が優しく抱き寄せる。

 二人の視線の先に、病室から手術室へと向かう紫生の姿が。

 次に彼と会う時には、健康な肝臓が移植された状態になっているはず。

 手術中に命を落とすことも可能性としてはゼロではないが、神坂医師が『大事な肝臓の一部を貰うのだから、必ず助けます』と誓ってくれた。

 だから、朱里はその言葉を信じる以外にないのだ。


「紫生くん、頑張ろうね」


 朱里は紫生の手に触れ、エールを送った。



 正常な肝臓は一部を切り取られても、再生能力が備わっているため、一年ほどでほぼ元の大きさに戻ると言われている。

 ドナー提供者の術後は、二~三週間ほどで退院できるし、日常生活に制限はない。

 適度な運動とバランスの良い食事を心掛け、飲酒を控えるのが望ましいと言われている。

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