第41話 妻夫木の名
※紫生視点
「では、また来週の診察の時に。お大事にね」
「……はい。ありがとうございました」
一週間の入院を経て、漸く退院許可が下りた。
そしてたった今、回診に来た主治医と挨拶を交わしたところ。
先週の火曜日に学校で倒れ、その日の深夜に救急外来にかかり、腹部に溜まった水を抜く処置を緊急でして貰い、結局そのまま入院となった。
精密検査の結果、肝静脈の数箇所に塞栓、または狭窄が見つかり、翌日にカテーテル手術を受けた。
その他にも、下肢静脈にも同じ傾向が診られるというので、点滴で血液を凝固させないための処置を受けた。
一番厄介なのが、肝腫大気味だということ。
炎症を起こすことで肝臓自体が腫れ上がってしまうこと。
『バッドキアリ症候群』の中でもこの肝腫大は急性型の特徴でもあり、腹水もまたかなり重度の症状と言える。
一時的に薬物とカテーテル手術などでそれらを抑えてはあるが、難治病と言われる『バッドキアリ症候群』では、今の治療が限界なのかもしれない。
「紫生くん、お待たせ。お会計済ませて来たら、行こうか」
「いつもありがとうございます」
迎えに来てくれた水野さんと共に病室を後にした。
**
「退院できて、気持ち的に解放されたところ申し訳ないんだけど、今回の件を機に、正式に先方様から縁を切りたいとの意向を言われてしまって……」
「そうですか……。まぁ、ある程度は予想してたので覚悟はできてます」
両親が既に他界している紫生は、身内と呼べる家族がいない。
夜間の緊急処置を伴うに際して、水野の夫(弁護士)が都内に住居を構える紫生の叔母に処置同意書に記入して欲しいと頼みに行ったのだ。
これまでも手術の度に事前にお宅に伺い、手術内容を説明した上で記入をして貰えるように配慮して来たのだが、今回は深夜ということもあって、半ば門前払いのような感じであった。
それでも大切な紫生のことを思い、水野の夫は誠心誠意頭を下げて署名して貰ったのだ。
というのも、『速水』という名は母方の性である。
紫生の父親の実家は、由緒ある老舗呉服屋。
全国の百貨店や呉服問屋などに卸すような、かなり有名な家柄で許嫁もいたのだ。
けれど、とある百貨店の催事場で紫生の母親と出会い、一目で恋に落ちた。
許嫁がある身だと分かっていても、惹かれた心はどうすることも出来ず。
結局家からは破門され、駆け落ち同然で結婚した。
それもあって、母親の親戚からもかなり反対された経緯もあり、疎遠になっている。
紫生の父親は、何年も前から構想していた洋和装の世界を開拓するようになり、全国的に展開できる『貸衣装』の流通を開拓し、莫大な財産を残した。
「今後は、
「……」
自宅マンションへと向かうタクシーの車内で、隣りに座る水野さんから大きな茶封筒を差し出された。
今までは母親が病気を患っていて自分は未成年ということもあり、水野夫妻が病院の手続きとか学校関連とか、法的な書類関連をしてくれていた。
だけど、法的には誕生日を迎え、成人(十八歳)扱いになっている。
家族でなくても同意書には記入できるし、意識があれば、当然自分で記入する。
今回は深夜に激痛があり、水野さんに連絡した後に意識喪失してしまったから
水野さんは『身内』というものを最優先したのだろうけれど、『
父親が妻夫木の名を捨てたおかげで、父親の姉である
実の弟は好きな人と自由に生きている一方で、継ぎたくもない家業を継いだのだから、恨まれていても仕方ない。
これまでかかわってくれたことですら、感謝でしかない。
だいぶ悪化してきている状況で、この先のことを考えると、頭が痛くなる。
両親が残した財産は、一部は千景さんに譲渡しようと考えているし、水野さんを始めとした愛寿園の皆に還元できるものは還元したい。
お墓は……速水の墓に入り、両親のそばで眠れたらそれでいいと思っている。
十八歳になったばかりの男が、死後のことまで考える人が世の中に何人いるだろうか。
紫生は流れる景色を車窓越しに眺め、小さな溜息を零した。
「あっ、そうだ! 朱里ちゃんがね、自宅で待ってるわよ」
「え? でも今日平日……あ、開校記念日か」
毎日を生きるだけで精一杯の紫生にとって、学校行事のことなんて、頭の片隅にもなかった。
*
「おかえりっ」
「……ただいま」
「じゃあ、私は園に戻るわね」
「水野さん、ありがとうございました」
「ど~致しまして~。何かあったら電話ちょうだいね」
「はい」
正午少し前に自宅マンションに到着すると、愛らしい笑顔の彼女と、ほんのり美味しそうな匂いが俺を出迎えてくれた。
「神谷さん直伝のお粥作ったの」
「……俺の家にも朱里のスリッパ用意しないとな」
「会話になってなーい」
靴下で出迎えてくれた彼女の足下に視線が留まったのだ。
彼女の家で歓迎して貰えているように、俺の家にも彼女の居場所をつくってあげたい。
「ちょっと待っててね」
「ん?」
小首を傾げる彼女を残し、俺は自室へと。
そして、机の引き出しからとある物を手にして彼女の元へと戻る。
リビングに移動していた彼女に手の中にある物をそっと手渡した。
「来たい時にいつでも来ていいからね」
「……いいの?」
「いいよ。ってか、もっと早くに渡せばよかったね、ごめんね」
俺から手渡されたこの家の合鍵をまじまじと見つめ、嬉しそうにする彼女。
入院中に彼女から百を超えるメッセージが届いていた。
即レスは出来なかったけれど、それほどまでに心配させてしまっていることに心苦しくて。
せめて、少しでも不安を取り除いてあげたい、そう思った。
*
「お粥は、『あ~ん』してくれるんだよね?」
「……し、しないよっ」
冗談で口走った言葉なのに、顔を真っ赤にしてお粥をよそる彼女。
いつか、こういう光景が日常になったらいいなぁだなんて、胸の奥が切なく疼いた瞬間であった。
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