第3話 飛ばされてきた、黄色い風船

「三十七.二度、中々下がり切らないわね」

「そのうち下がるよ。……仕事遅れるよ?」

「冷蔵庫に食べれそうなもの入れてあるから、お腹が空いたら食べなさいね」

「ん」

「暑い中、どこかに行こうとしないで寝てなさいよ?」

「分かってるって」

「あ、そうだ! 新くんが今日お見舞いに来たいって連絡があったから」

「別にいいのに……」

「じゃあ、ママ仕事に行くわね」

「うん」


 都立病院で看護師として働いている母親が、出勤前に朱里あかりの様子を見に来た。

 終業式の日に体調を崩した朱里は、その後、高熱に魘され、母親が勤務する病院で検査したところ、季節外れのインフルエンザA型と判った。

 処方された薬を服用して高熱は翌日に収まったが、発熱から一週間経っているのに平熱(三十六.一度)にまでは戻らず、微熱がずっと続いている。


 薬の効きが悪いのか、後遺症なのか分からないが、体のあちこちが未だに微妙に痛い。

 バイト予定はなく、塾に通う予定でもなかったから、良かったと言えば良かったのだが、夏休み初日から寝込んでしまって、気分が鬱々としていた。

 発熱から一週間経ったからだと思うが、新が来てくれるというのが嬉しい。

 毎日天井と睨めっこするのにも飽きたし、動画もマンガも観終えてしまったから。


♢ ♢ ♢


 昼過ぎになり、太陽の位置が変わったことで夏のギラギラした陽射しが窓から差し込んで来る。

 クーラーをつけていてもさすがに暑くて、朱里はカーテンを閉めようと上体を起こした。

 すると、視界の片隅に揺れる黄色いものが映り込んだ。


「何だろう?」


 朱里の部屋の窓は南側のベランダに面してはいるが、直接ベランダに出ることは出来ない。

 いわゆる腰高窓というやつで、換気をするために窓の開け閉めをする程度の窓だ。

 窓を開けて顔を外に出し、黄色いものの正体を掴もうと身を乗り出す。


「……風船?」


 朱里は少し動きの鈍い体で、隣りの両親の寝室へと行き、南側のはき出し窓からベランダへと出てみる。

 庭に植えてある栃の木の枝がベランダの端に差し掛かっていて、その少し上の部分に黄色い風船が引っかかっていた。

 糸の先に白い紙が付いていて、何か黒っぽいマークのようなものが描かれている。


「懐かしい」


 小学生の時に学校の行事で風船を飛ばした記憶がある。

 小さな紙に一言メッセージを書いて、小学校名と名前を書いたっけ。

 何の行事だったのかは憶えていないが、その一週間後くらいに担任を通して、隣りの県の男性から連絡があったことを知らされた。

 自分が飛ばした風船が、隣りの県まで飛んで行ったということが嬉しくて、その時のことをよく憶えている。


 朱里は風船に吸い寄せられるようにベランダから身を乗り出し、腕を目一杯伸ばして、枝に引っかかっている糸部分を取ろうとする。

 だが、微妙に手が届かず糸に触れることすら出来ない。


 じわりと汗が滲む。

 一週間ぶりに直射日光を浴びた体は気怠さを訴える。

 全快とは言い難い状態の朱里の体は鉛のように重く、外気温と高湿度のせいか、呼吸が息苦しく思えるくらい酸素の供給が追い付いていないように感じた、その時。


「窓開けっ放しじゃん……って、おいっ、朱里っ!!」


 閉め忘れた自室の腰高窓から新の発狂に似た声が聞こえて来た。

 思わず、朱里の体がビクッと震えた。


 新は腰高窓からそのままベランダに飛び出て、サンダルも履かずにベランダの手すり部分から身を乗り出している朱里の体を抱き掴んだ。


「何してんだよっ!! あっっっぶねぇ~」


 いつもぶっきらぼうでちょっと口が悪い新だけど、朱里を傷つけたりしない。

 むしろこんな風にいつだって朱里のことを守ってくれるヒーローみたいな人。

 一週間前の終業式の時も、小学校の運動会の徒競走で転んだ時も、人目を気にせずおんぶしてくれた。

 口は悪いけど、本当にいいやつなんだよね。


「新、アレ取れる?」

「あ? ……風船?」

「木に引っかかってて、気になっちゃって」


 朱里は先ほどと同じように手摺りから身を乗り出し目一杯腕を伸ばした。


「お前、馬鹿だろ」

「なっ……」

「こうやったら、簡単に取れんじゃん」

「あ……」


 新はベランダに差し掛かっている枝を掴んで手元に手繰り寄せ、風船の糸が絡まっている根元でパキっと枝を折ったのだ。

 朱里は絡んだ糸を掴んで取ろうとしたが、新は枝ごと手元に取るという技を見せた。


「思いつかなかった。物置に高枝切りばさみがあるから、あれを使えばよかったのか。今度見つけたらそうしようっと」

「いやいや、そんな頻繁に風船なんて飛ばされて来ねーから」


 やれやれと嘆息を零す新と共に両親の寝室を抜けて自室へと戻る。

 

「おばさんが微熱が続いてるって言うから心配したのに、元気そうじゃん」

「倦怠感はあるけど、動けないわけじゃないし」

「免疫力が低下してる時にかかったから、暫く怠さが抜けねーんだろ」

「……そうかも」


 手折った枝から糸を切り離し、気になった紙の部分を見てみると、黒いマークのようなやつの正体はQRコードだった。


「今時の小学生って、名前とか学校名をQRコードにするんだね」

「は? ってか、何で小学生限定なんだよ」

「え、これって小学生が飛ばすやつなんじゃないの? うちら小学生の時に飛ばしたよね?」

「飛ばしはしたけど、店の開店記念とか、結婚式の余興でとか、飛ばすイベントなんて色々あんだろ」

「そうなの?!」


 すっかり飛ばした相手は小学生だと思い込んでいた朱里は、豆鉄砲を喰らったみたいにキョトンとする。


「愛寿園って書いてあるから、この施設の何らかのイベントで飛ばしたんだろ」


 新が風船に印刷されている文字を指差した。


「な~んだ、宣伝かぁ。小学生と知り合えるチャンスかと思ったのに」

「は? 小学生と知り合いになって、何するんだよ?」

「……文通とか?」

「おいおい、SNSの時代に文通って。真面目に返信くれる小学生が今時いるかよ。せめて、メールのやり取りとかじゃね?」

「分かんないじゃん、いるかもしれないよ」

「あーはいはい。『』に憧れを持ってる朱里ちゃん?」

「また馬鹿にした」

「そんな事より、お前が食べたがってたさくらんぼソフト、テイクアウトしてやったのに溶けてんじゃね?」

「ええええええぇ~っ!! それ先に言ってよっ!!」

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