精神的流刑者の夜明け

遠坂トサカ

精神的流刑者の夜明け

 ──閉ざされていたのは世界ではなく、私自身だった。


 田中孝夫は、目覚まし時計の鳴らない朝にまどろみながら、自ら設計した牢獄の壁を指でなぞり、一日を始める。六畳一間の空気は夜の名残を抱きつつ、窓辺のレース越しに射し込む薄光がわずかな風の粒子を浮かび上がらせた。風は気配だけで、音をもたない。


 寝巻きのまま椅子へ沈み、ノートパソコンの電源を押す。ファンが低く呻き、液晶が青白く灯る──点呼の合図であり、点呼を拒む無音のサイレンでもあった。


 かつて満員電車で呼吸を奪われた恐怖から逃げるように選んだリモートワークは、静寂を約束する代わりに、血肉を帯びた世界をすりガラス越しの影へ変えていた。



 午前九時。招集のチャイムを模した通知音が鳴り、画面の小窓が次々と開く。田中の枠には灰色の円と頭文字だけ──彼は最初からカメラを切っている。


 マイクをミュートしたまま口を動かし、「おはようございます」と誰にも届かない挨拶を空気に放った。LED の白光が同僚の顔に張り付き、人間はそこにいるのに声は圧縮され、表情はピクセルへ崩れ落ちる。


「田中さん、先週の進捗はいかがでしょう?」


 ミュートを外す刹那、〈聞こえていますか〉という常套句のむこうで空虚が待ち受けるのが見えた。椅子を軋ませる音のほうが自分の声より重い。共有用スライドがうまく表示されず、歯車だけが画面中央で回転する。


 誰も責めず、誰も咎めない。その無音こそが、かつて恐れていた沈黙より深い真空だった。


 会議が終わり、四角い窓は一つずつ閉じる。最後に残った灰色の円が、他人行儀に瞬いた。



 冷蔵庫の扉を開けると、ゴムパッキンが外気をはじく破裂音を立てた。室内と外界が再び分断される。三日前の弁当は色彩を失い、田中へ黙した怒気を放った。彼はそれを黙殺し、納豆のパックを開ける。粘りを白飯へ流し込み、箸で混ぜるたびクチュッという湿った音が唯一のリズムを刻む。


 生温い匂いが鼻に滞留する。その鈍い刺激を田中は確かめる──感覚は、人間を棲まわせる最後の巣穴だ。そこに自分はまだ眠っているのか。



 午後三時、インターホンが突然、室内の水面を震わせた。雷鳴のような衝撃に背筋が跳ね、田中は玄関へ向かう。


 ドアの向こう、若い配達員が汗ばんだ段ボールを抱え、陽光を浴びた腕の産毛が金色に透けている。真夏の空気が胸元へ押し込まれた。


「田中様でいらっしゃいますか?」

「はい──」


 二音で完結する唯一の会話。ボールペンを受け取る際、指先がかすかに触れた。皮膚の温度が忘れていた電流を体内へ通す。段ボールの重みが掌に沈むころには、足元が揺らいでいた。


 ――この箱の中身のように、俺もこの部屋で腐っていくのか。


 呟きは声にならなかったが、胸腔の奥で濁って残った。ドアが閉ざされ、静寂が戻る。それでも呼吸の湿度が耳鳴りのように残った。



 夕方、ウェブカメラのプレビューが真っ暗になった。明日の全社朝会はカメラ必須──通知の一行が遠雷のように胸板を叩く。映らなくてはならない。自らの姿を外へ差し出さねばならない。


 日暮れの路地へ出るまでに要した決心は、もはや外出ではなく通気の行為に近かった。舗装道路の硬さが靴底から骨へ伝わり、街路樹の葉が擦れ合う。自転車のブレーキが遠くで軋み、車道の熱気が肺を膨らませる。世界はこんなにも騒がしい。


 コンビニの自動ドアが開く。蛍光灯が手術台のように白く降り、田中の影を床に縫い付けた。

 菓子パンの包装は必要以上に鮮やかで、すれ違う高校生の甘い香水に喉奥が乾く。


「いらっしゃいませ」


 異国の訛りを帯びた店員の声が鼓膜を打ち、視線が正面から突き刺さる。紙片より軽いレシートが、千鈞の錘へ変わった。


 店を出て夜気を吸う。音ではなく、温度で分かる夜風だ。肺がわずかに拡張する。その拡張ぶんだけ、田中の内側に空洞ではなく空間が生まれた。



 帰宅後、洗面所の鏡がパジャマ姿の中年男を映し出す。伸びた髭の隙間で肌が陰り、目の下の疲弊は街灯の橙を拒むようにくすむ。だが凝視を続けるうち、虹彩の奥に小さな光が灯っているのを田中は確かに見た。


 それは諦念の残照か。まだ燃え尽きていない熾火か。


 掌を伸ばし、鏡面へ触れる。冷たい硝子が、内と外を確かに隔てていた。


「……おはようございます」


 深夜零時の挨拶はかすれながらも朧な輪郭をまとい、壁に触れて折り返し返ってきた。その跳ね返りは虚無ではなく、柔らかい布地のようだった。



 明け方。田中はクローゼットの奥から紺のスーツを引きずり出す。肩に積もった埃を払うと、粒子が朝の光を散らし、星屑のように舞った。シャツのボタンを留め、ネクタイの結び目を掌で固めるたび、心臓の拍が熱を帯びる。


 机の片隅に残した昔の通勤定期券が目に入り、期限切れの磁気でさえ微かな体温を宿すように思えた。


 ノートパソコンのカメラテストを起動すると、胸から上だけの男が映る。だが、レンズの向こうで微かに光る瞳は、昨日のものとは別人のように澄んでいた。


 開始時刻が来る。ミュートを解除する指が震える。田中は深い呼吸をひとつだけ数えた。


「──おはようございます」


 声が放たれた瞬間、東の空で淡い雲間が払われ、朝が膨らみ始めた。窓辺のレースが風に揺れ、まだ微温い夜の残り香が朝の気配と交差する。


 流刑地は、もはや四方を塞ぐ鉄塀ではない。


 それは扉のない境界線だ。超えるかとどまるかは、いつでも自分の靴底に委ねられている。


 田中はディスプレイの小窓を見据え、小さく頷いた。


 その頷きは、聞こえない解錠音となって、静かに、しかし決定的に闇を割った。

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精神的流刑者の夜明け 遠坂トサカ @tosakax2

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