戦塵の下に ― もうひとつの第二次世界大戦

ジェン

第1章 短い戦後

第0話 プロローグ 1920年 米国・シカゴ

霜に覆われたシカゴの街は、鉄と石炭の匂いに満ちていた。イヴァン・コルヴァレフは暗い路地の隅に身を隠し、硬く冷たい煉瓦の壁に背を預けた。冷気が彼の薄い軍用外套を貫き、骨まで震えさせる。だが、彼の内側では違う種類の熱が燃え盛っていた。


凍てついた空気が肺を切り裂くような痛みを伴って彼の体内に流れ込む。シカゴの工業地帯は、冬の夜になると鉄道の轟音と工場の蒸気音が奇妙な協奏曲を奏でていた。暗闇の中で光る街灯の下、労働者たちが疲れた足取りで家路を急ぐ姿が見える。


イヴァンは懐中時計を取り出した。針は午後十一時を指している。彼は指先で時計の金属を撫で、その滑らかな表面に沁みついた父親の指の痕跡を感じた。時計はウラジーミル・レーニンの肖像が刻まれた特別なもので、祖国を離れる際、父から受け継いだ唯一の形見だった。


「同志よ、人民の時代が来るのだ」


彼は囁くように独り言を漏らし、時計を再び内ポケットにしまった。その動作には儀式的な慎重さがあった。


通りの向こうから足音が聞こえてきた。リズミカルな足取り。約束の合図だ。イヴァンは身を起こし、肩を厚い外套で包みなおすと、迷いなく足音の方向へ歩き出した。


   ◇


「資本家どもは我々の血を啜り、汗を搾り取る。だが同志諸君、もはや我々は沈黙しない!」


カール・リープクネヒトの言葉を引用しながら、イヴァンは拳を固く握りしめた。彼の言葉は薄暗い地下室に集まった二十人ほどの男女に、静かな熱を点火していった。石炭ストーブのかすかな光が壁に揺らめき、集まった人々の影を奇妙に歪ませている。


「シカゴ労働者革命委員会」と自称するこの集団は、主にロシア系とポーランド系の移民労働者で構成されていた。その多くは鉄鋼業や食肉加工工場で働く人々だった。彼らの顔には疲労と貧困の痕が刻まれていたが、目には決意の火が灯っていた。


「ロシアの同志たちは実現した。我々も実現できる!」イヴァンは続けた。彼の青白い顔は興奮で紅潮し、黒い髪が額に張り付いていた。「二月革命から十月革命へ。そしてアメリカでは——」


「七月革命だ」


部屋の隅から声が上がった。発言者はグレゴール・シュミットというドイツ系の印刷工だった。彼の口ひげの下からは皮肉めいた笑みがのぞいていた。


「それが何であれ、同志シュミット」イヴァンは苛立ちを押し殺して答えた。「重要なのは行動の日だ。我々は七月四日、この腐敗した体制の象徴的な日に、市議会を占拠する」


「そして何を?」女性の声が質問した。アンナ・ノヴァクという若い女工だ。彼女の目は懐疑的だったが、声には興味が滲んでいた。「占拠した後は?」


イヴァンは彼女をじっと見つめた。アンナの顔には労働の痕跡が刻まれていたが、彼女の瞳には知性が宿っていた。何か月も前から、彼はアンナの疑問に答えるのに苦労していた。彼女の質問は常に鋭く、時に彼の理論的な穴を突いてきた。


「宣言を発する」イヴァンは確信に満ちた声で答えた。「シカゴ労働者評議会の設立を宣言し、工場と銀行の国有化を要求する。そして——」


「そして軍隊が来て、我々全員を射殺するか、投獄するか」アンナは静かに言った。「それでも価値があるのか?」


沈黙が地下室を満たした。イヴァンは深く息を吸い込んだ。湿った空気は石炭と汗の匂いで重かった。


「価値がある、同志ノヴァク」彼は静かに、しかし揺るぎない声で答えた。「なぜなら、これは始まりに過ぎないからだ。我々は火花となる。その火花が燎原の火となるのだ」


彼の視線は部屋の中央に置かれた地図に向けられた。シカゴ市庁舎の設計図だ。周囲に集まったのは二十人に満たない同志たち。多くはロシアからの移民で、故郷の革命に魅了された者たち。彼らの眼差しには疑念と希望が入り混じっていた。


「七月四日」イヴァンは再び告げた。「その日、アメリカに革命の種が蒔かれる」


   ◇


六月の終わり、雨の降る午後。イヴァンは市立図書館の隅で新聞を読んでいた。紙面からは世界中の労働運動に関する記事が彼を引き付けた。特にイタリアの工場占拠運動の記事に彼は興奮を覚えていた。


「見たまえ、ヨーロッパでは既に始まっている」彼は隣に座るフェリックスに囁いた。「資本主義の終焉が」


フェリックスは無言で頷いた。彼はポーランド系の鉄鋼労働者で、言葉より行動の男だった。筋肉質の腕に刻まれた傷跡は、製鉄所での過酷な労働の証だった。


「武器の調達は?」イヴァンは声を潜めて尋ねた。


「問題ない」フェリックスは短く答えた。彼の目は常に動き、周囲を警戒していた。「元兵士の同志たちが世界大戦から持ち帰った銃が十丁、爆弾の材料も揃った」


イヴァンは満足げに頷いた。計画は順調に進んでいた。彼らの小さな細胞は、過去六か月間、着実に準備を進めてきた。市議会占拠は象徴的な行動に過ぎない。真の目的は、その行動がもたらす連鎖反応だった。


「だが同志、我々はまだ少数派だ」フェリックスは静かに言った。「労働組合の大半は我々の行動を支持していない」


イヴァンは僅かに顔をしかめた。それは事実だった。シカゴの労働組合、特にサミュエル・ゴンパース率いるアメリカ労働総同盟(AFL)は、彼らの過激な行動には否定的だった。彼らは改革を望み、革命は望んでいなかった。


「彼らは目を覚ますだろう」イヴァンは自信満々に言った。「我々の行動が成功すれば、大衆は必ず——」


彼の言葉は途中で切れた。図書館の入口に見知らぬ男が立っていた。その男は彼らをじっと見つめていた。イヴァンは直感的に危険を感じた。


「行こう」彼はフェリックスに囁いた。「別々に出る。いつもの場所で」


二人は別々の出口から図書館を後にした。イヴァンは心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、雨の中を歩き始めた。背後には誰かの視線を感じる。彼は足早に曲がり角を曲がり、追跡を振り切ろうとした。


この日以降、イヴァンは常に監視されている感覚に苛まれるようになった。


   ◇


「我々は裏切られた」


七月三日の夜、イヴァンは地下集会所で同志たちに告げた。彼の声は怒りに震えていた。


「誰かが我々の計画を当局に漏らした。FBIが動いている」


部屋に緊張が走った。十五人ほどが集まっていたが、いつもより少ない。何人かは既に姿を消していた。


「どうやって知った?」アンナが尋ねた。彼女の声には疑いというより確認の意味があった。


「内部の情報筋だ」イヴァンは答えた。「市警察に協力者がいる。彼によれば、FBIは我々の名簿を入手し、明日の朝には一斉検挙を行う予定だという」


「では計画は中止か?」グレゴールが尋ねた。彼の声には安堵の色が混じっていた。


イヴァンは頭を振った。彼の目は決意に満ちていた。


「いや、計画を変更する。今夜行動する」


「今夜?」フェリックスが驚いて声を上げた。「準備が——」


「準備は整っている」イヴァンは断固として言った。「武器はあり、爆弾も用意できた。市庁舎ではなく、連邦ビルを標的にする。そこでFBIのオフィスを爆破し、我々の決意を示すのだ」


「それは自殺行為だ!」アンナが叫んだ。「イヴァン、あなたは狂っている!」


「狂っているのは、この腐敗した社会だ!」イヴァンは反論した。「革命は犠牲なしには成し遂げられない。レーニン同志も言ったではないか、『歴史の車輪は血で潤滑される』と」


部屋は静まり返った。イヴァンは一人一人の顔を見回した。疑念、恐怖、そして迷いがそこにあった。だが、彼の心は揺るがなかった。この瞬間、彼は単なる活動家ではなく、歴史の一部になるという使命感に満たされていた。


「行くのは私一人でもいい」彼は最後に言った。「だが、革命の旗を掲げる勇気のある者は、今夜、私についてくるがいい」


   ◇


雨が止み、星の見える夜だった。


イヴァンは車の助手席に座り、窓の外を見つめていた。運転するフェリックスの隣で、彼は時計を確認した。午前二時。静寂の時間だ。


結局、行動に移ることを決めたのは彼ら二人と、後部座席に座るグレゴールの三人だけだった。他の同志たちは恐怖に打ち勝つことができず、あるいは計画の変更を不審に思い、参加を見送った。


トランクには爆弾と拳銃が積まれていた。彼らの計画はシンプルだった。連邦ビルに忍び込み、FBIの事務所がある階に爆弾を仕掛け、脱出する。爆発は早朝に設定され、人的被害を最小限に抑えながらも、最大限の衝撃を与えることを意図していた。


「ここで止まれ」イヴァンは連邦ビルから二ブロック手前で指示した。


車が止まると、三人は黙って降りた。夜のシカゴは異様なほど静かだった。都市の喧噪は眠りに落ち、唯一聞こえるのは遠くの工場の機械音と、時折通り過ぎる車のエンジン音だけだった。


「準備はいいか」イヴァンは二人に尋ねた。


フェリックスは無言で頷き、グレゴールは緊張した表情で「ああ」と短く答えた。


三人は物資を分担して持ち、暗い路地を通って連邦ビルに向かった。イヴァンの心臓は激しく鼓動していた。この瞬間、彼は歴史を動かしているという高揚感に包まれていた。


「忘れるな」彼は小声で言った。「我々はアメリカの労働者階級の先駆けとなるのだ。この行動が——」


言葉は途中で切れた。角を曲がったところで、三人は突然、まぶしい光に照らし出された。


「FBIだ!動くな!」


複数の声が夜の静けさを引き裂いた。イヴァンは一瞬、目が眩んだ。彼らの周囲には十人以上の武装した捜査官が銃を構えて立っていた。


「武器を捨てて、手を頭の上に!」


フェリックスが素早く動いた。彼はコートの中から拳銃を取り出そうとした。


「フェリックス、やめろ!」イヴァンは叫んだが、遅かった。


銃声が夜の静寂を破った。フェリックスは胸を撃たれ、よろめいて倒れた。彼の目は驚きに見開かれ、口からは血が溢れ出ていた。


「フェリックス!」イヴァンは友の名を叫び、彼に駆け寄ろうとしたが、二人のFBI捜査官に取り押さえられた。彼は激しく抵抗したが、無駄だった。


グレゴールは混乱の中、取り押さえ官の制止を振り切り、なおも逃げようとした。背中に抱えていた爆弾を路上に投げ捨て、それが炸裂する瞬間、一瞬の閃光が夜を切り裂いた。その轟音は都市の静寂を引き裂き、爆風が周囲一帯を襲った。


「下がれ!」捜査官の一人が叫んだ。


イヴァンは地面に押し付けられたまま、爆発の衝撃波を感じた。耳が鳴り、目の前が真っ白になる。数秒後、彼の視界が戻ると、周囲は混乱に陥っていた。煙と埃の中、悲鳴と叫び声が聞こえる。複数の人影が倒れているのが見えた。


FBI捜査官の何人かが倒れ、うめいていた。爆発は予想以上の威力を持っていたようだ。グレゴールの姿は見えなかった。おそらく彼も爆発に巻き込まれたのだろう。


「イヴァン・コルヴァレフ、お前は合衆国に対するテロ行為により逮捕する」


冷たい声が彼の耳に届いた。手錠がカチリと音を立てて、彼の手首に閉じられた。


   ◇


「名前を言え」


白い明かりが容赦なく照らす取調室で、イヴァンは椅子に座らされていた。向かいには中年の男がいた。スーツを着た男は、表情を一切変えることなく彼を見つめていた。


「イヴァン・コルヴァレフ」彼は答えた。「ロシア生まれのアメリカ市民だ」


「ロシアのどこの出身だ?」


「ペトログラード」イヴァンは答えた。「1900年生まれ。14年にアメリカに来た」


「ボリシェヴィキとの関係は?」


イヴァンは黙って男を見つめた。彼の喉は乾いていた。連行されてから何時間が経ったのか、わからなかった。彼は時計を取り上げられていた。


「黙秘権を行使するつもりか?」男は冷ややかに笑った。「構わんよ。我々は既に十分な証拠を持っている。お前たちの計画書、武器、そして何よりも——」男は一枚の紙を取り出した。「お前たちの同志リストだ」


イヴァンは紙を見つめた。そこには「シカゴ労働者革命委員会」のメンバー全員の名前が記されていた。アンナの名も、他の同志たちの名もあった。


「誰が——」彼は思わず口にした。


「裏切ったのか?」男は微笑んだ。「それが知りたいか?」


イヴァンは唇を噛んだ。裏切者の名を知ることは重要ではなかった。重要なのは、彼らの運動が挫折したという事実だった。


「爆発による被害は?」彼は尋ねた。心の奥底では、自分たちの行為が無実の人々を巻き込んだのではないかという恐れがあった。


男は顔を曇らせた。「捜査官2名が死亡、5名が負傷。それにお前の仲間のシュミットも爆発で死んだ」


イヴァンは目を閉じた。これは彼が望んだことではなかった。人命が失われることは計画にはなかった。


「革命はどこかで始まる」彼は静かに言った。「今日でなければ、明日だ。今ここでなければ、別の場所で。労働者の力を止めることはできない」


「空虚な言葉だな」男は嘲笑した。「お前たちの『革命』は終わった。お前は長い間、刑務所で腐ることになるだろう」


取調べは数時間続いた。イヴァンは革命思想については雄弁に語ったが、同志たちの具体的な活動や連絡網については一切口を閉ざした。しかし、それは既に無意味だった。FBIは彼らの組織について、ほぼ全てを把握していたのだ。


   ◇


七月四日、「独立記念日」の朝。


イヴァンは独房の小さな窓から外を眺めていた。青い空に星条旗が翻るのが見えた。皮肉な光景だった。


廊下から足音が聞こえ、看守が彼の独房の前に立った。


「面会だ」看守は言った。


イヴァンは驚いた。誰が彼に面会に来るというのか。親族はロシアに残したままだし、友人たちは全て逮捕されているはずだった。


面会室に連れて行かれると、そこにはアンナが座っていた。彼女は青白い顔をしていたが、目は強い光を宿していた。


「アンナ」イヴァンは椅子に座りながら言った。「なぜここに?あなたも逮捕されたのではないのか?」


アンナは首を振った。


「私は逮捕されていない」彼女は静かに言った。「他の多くも同様だ。FBIは行動に出る予定だった者だけを逮捕した」


イヴァンは眉をひそめた。何かがおかしい。なぜFBIは全員を逮捕しなかったのか。


「なぜだ?」彼は尋ねた。


アンナは視線を落とした。彼女の目には涙が光っていた。


「私が話したの」彼女はようやく口を開いた。「FBIに情報を提供したのは私」


イヴァンは凍りついた。言葉が喉に詰まった。


「なぜだ?」彼はようやく声を絞り出した。「なぜそんなことを?」


「あなたを救うため」アンナは彼の目をまっすぐ見つめて言った。「イヴァン、あなたの計画は成功するはずがなかった。あなたは死ぬか、一生刑務所に入るかだった。私は——」彼女は言葉を詰まらせた。「私はあなたを失いたくなかった」


イヴァンは言葉を失った。裏切りは愛から生まれたのか。これほど残酷な皮肉があるだろうか。


「私が交渉したの」アンナは続けた。「情報と引き換えに、あなたの刑を軽くすることを約束させた。そして他のメンバーの多くを保護する約束も」


イヴァンは笑った。それは苦い、冷たい笑いだった。


「私の命と引き換えに、革命を売ったのか」


「革命などなかった!」アンナは声を上げた。「あったのは自殺行為だけよ。イヴァン、目を覚まして。あなたの計画は始めから失敗する運命だった」


イヴァンは彼女から視線を外し、窓の外を見た。独立記念日を祝うパレードの音が遠くから聞こえてきた。


「行け」彼は静かに言った。「もう二度と会わないでくれ」


アンナは何か言おうとしたが、言葉は出てこなかった。彼女はゆっくりと立ち上がり、最後に彼を見つめてから部屋を出ていった。


イヴァンは一人取り残された。彼の内側では何かが崩れ落ちていた。それは単なる計画の失敗ではなく、彼の信念の基盤そのものだった。


   ◇


裁判は短かった。


イヴァン・コルヴァレフは、「合衆国政府の転覆を企てた罪」で有罪判決を受けた。フェリックスとFBI捜査官の死は彼の罪状を重くし、二十年の刑が言い渡された。


裁判所の廊下で、イヴァンは手錠をかけられたまま、新聞記者たちのフラッシュを浴びた。彼の写真は翌日の新聞の一面を飾ることになる。


「コルヴァレフ、悔いはないか?」ある記者が叫んだ。


イヴァンは立ち止まり、記者たちを見回した。彼の顔には数日の無精ひげが生え、目の下には疲労の色が広がっていた。だが、その目は今なお強い光を宿していた。


「アメリカの人々に告げる」彼はゆっくりと、しかし明瞭に言った。「資本主義の鎖から解放される日は必ず来る。今日の私の失敗は、明日の勝利の礎となるだろう」


記者たちのペンが忙しく動いた。写真家のフラッシュが再び光った。


看守に連れられて歩きながら、イヴァンは自分の言葉が空虚に響くのを感じた。彼の革命は終わった。彼の同志たちは散り散りになり、または投獄された。彼の信念は、愛する女性の裏切りによって揺らいでいた。


だが、彼が知らなかったのは、彼の行動と言葉が、アメリカ社会に深い亀裂を生み出したことだった。


「危険な共産主義者を一網打尽!」 「赤い陰謀、シカゴで頓挫」 「ボリシェヴィキの手先、連邦ビル爆破で死者を出す」


新聞の見出しは連日、「シカゴ蜂起未遂事件」を大々的に報じた。記事は次第に過熱し、事実から逸脱していった。イヴァンたちの計画は「数百人規模の武装蜂起」に誇張され、「モスクワからの直接指令」という虚偽の情報も付け加えられた。爆発による死者は、恐怖をさらに煽る材料となった。


アメリカ中の都市で反共集会が開かれ、「アメリカを守れ」「赤い脅威を追放せよ」というスローガンが叫ばれた。政治家たちは好機と見て、反共法案を次々と提案した。


一九二一年、「国家安全保持法」が制定された。この法律は共産主義的活動を実質的に犯罪とし、外国人排斥と市民権剥奪の条項まで含んでいた。アメリカ社会は「赤狩り」の時代に突入していった。


   ◇


一九二三年、連邦刑務所。


イヴァン・コルヴァレフは独房の中で新聞を読んでいた。彼の黒髪には既に白いものが混じり始めていた。三年の獄中生活は彼を老けさせていた。


新聞には「国家安全保持法強化法案可決」という見出しがあった。記事によれば、共産主義思想の持ち主は市民権を剥奪され、強制送還の対象となるという。また、「共産化リスク国」との取引を行う企業に対する監視も強化され、多くの企業がドイツ・ヴァイマル共和国など政情不安定な国々への投資を控えるようになっていた。


イヴァンは新聞を閉じ、天井を見上げた。彼の行動が引き起こした連鎖反応は、彼の想像をはるかに超えていた。だが、それは彼が望んだ方向とは正反対だった。彼は革命の火花を灯そうとしたが、代わりに反動の大火を引き起こしてしまったのだ。


彼は懐から取り出した小さな紙切れを見つめた。それはアンナからの手紙だった。彼女は今、カナダに亡命していると書いていた。アメリカでの共産主義者への迫害が厳しくなり、彼女も標的にされたのだという。


「私はあなたを救おうとしたが、代わりに多くの人を危険に晒してしまった」彼女は書いていた。「それでも、私はあなたを愛している」


イヴァンは手紙を細かく引き裂き、便器に流した。過去は過去だ。彼にできることは、残された刑期を耐え、そして——その先は彼にもわからなかった。


窓の外から、刑務所の作業場で働く囚人たちの声が聞こえてきた。アメリカは変わった。彼の行動が、意図せずしてその変化を加速させてしまった。


イヴァンはレーニンの肖像が刻まれた懐中時計を手に取った。それは彼が唯一持つことを許された個人的な品だった。時計の針はゆっくりと進み、新しい時代の到来を告げていた。だが、それは彼が夢見た未来とは全く違うものだった。


彼は時計を耳に当て、そのチクタクという音に耳を傾けた。それは過ぎ去る時間の音であると同時に、彼の心臓の鼓動のようでもあった。


「失敗した」彼は囁いた。「だが、闘いは続く」


しかし、その言葉には以前のような情熱はなかった。あるのは深い疲労と、計り知れない屈辱感だけだった。歴史の歯車は彼を押しつぶし、彼の夢と共に粉々にしてしまったのだ。


窓から差し込む光が彼の顔を照らした。それは冷たく、無情な光だった。シカゴの街は彼のことを忘れ、アメリカは「赤い脅威」との闘いに熱中していた。彼の事件以降、アメリカの企業は海外進出においても慎重になり、ヴァイマル・ドイツなど政治的に不安定な国々との取引を避けるようになっていた。「共産主義の温床となり得る国」との関係は、経済的な側面でも忌避されるようになったのだ。


イヴァン・コルヴァレフは窓の向こうを見つめながら、自分の人生が歴史の小さな注釈に過ぎないことを悟っていた。


だが、歴史は時に最も小さな出来事から、最も大きな変化を生み出すものだ。


彼の失敗が新たな時代の幕開けとなった——アメリカが世界の反共主義の先導者となる時代の。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る