灯が落ちる、その前に

天野 つむぎ

第1幕 スポットライトの向こうで

カーテンの隙間から、微かに客席のざわめきが聞こえてくる。

 静かな照明の裏側で、私は小さく息を吸い込んだ。胸の奥が、かすかに痛む。いつもそうだ。舞台に立つ前は、決まって心臓が暴れ出す。でもそれは、嫌いじゃない。


「……緊張してる?」


 低い声がすぐ隣から落ちた。振り返ると、黒髪の少年が静かに立っている。整った顔立ち。深く吸い込まれそうな瞳。そして、その指先はわずかに震えていた。


「少しだけ。あなたは?」


「俺も少しだけ。」


 一ノ瀬奏汰。今回の舞台で私とダブル主演を務める少年。

 彼と初めて出会ったのは、まだ稽古が始まったばかりの頃だった。

 無愛想で近寄りがたくて、でもその演技は誰よりも輝いていて。私はすぐに目を奪われた。


 それから数ヶ月。最初の壁は高かった。お互いの呼吸が合わず、稽古のたびに衝突して、稽古場の空気を凍らせた日も一度や二度じゃない。

 でも、それでも少しずつ、ほんの少しずつ、彼の言葉が柔らかくなり、私の心も開いていった。


「春日さん、一ノ瀬さん、スタンバイお願いします!」


 舞台監督の鋭い声が飛んだ。

 思わず息を呑む。とうとう始まる。


 ——お母さん、今どこで何をしてるんだろう。


 小さく心の中で呟いた。母は今日の公演を観に来ない。いや、観に来るはずがない。母は舞台を憎んでいるから。

 かつて女優だった母は、事故で共演者を傷つけてしまった。あの日から、母は舞台の話をしなくなった。だから私がオーディションを受けたことも、舞台研究所に通っていることも、すべて内緒だった。


 「行こうか。」


 奏汰が私に手を差し出す。その手は、ほんの少し冷たかったけれど、確かに温度があった。


「うん。」


 私はその手をしっかりと握り返した。

 緞帳がゆっくりと上がっていく。眩しいスポットライトが、目の前に広がった。


 ——ここが、私の場所だ。


 その瞬間、音楽が鳴り始めた。


 物語が、始まった。


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