第5話 初恋


 子供の頃は、陽に透ける葉に恋をしていた。数えるほどしか見たとのなかったそれを、思い出の中に仕舞い込んで、ずっと恋するように思い出しては焦がれていた。

 もう少し大きくなってからは、恋をすることに憧れていた。でも絶対に誰かを好きにはならないと決めていた。俺のことを好きになる人は可哀想だから。

 高校に入って、妹も少し遅れて高校生になって、そして俺は生まれて初めて、恋焦がれて良い相手をみつけたのだ。



 俺のことを絶対に好きにならない素敵なもの。人間の形をした、ただの「キャラクター」。都合がよかったから、恋をしていた。

 妹には秘密だけど、それだけのはずだった。




05





 あれから俺は、連日、学校に足を運んでいる。

 不思議とフレイヤとは鉢合わせていない。あいつも毎日登校しているはずなのだが、学年が違うと案外行動圏が被らないようだ。


 フレイヤと連絡を取り合うのは難しい。この世界には手紙くらいしか手段がないのだが、誰に見られるかも分かったものじゃないし形にも残るので、実質文通なんてものは不可能だ。あいつも迂闊にお兄ちゃんなんて呼べないだろうし、俺だって妹として接していることが外部に漏れたら問題になる。

 そんなわけで、元気にしているか風の噂で聞く程度だ。あいつも王子が登校しているという噂くらいは聞いているだろうから、こちらの息災は伝わっているだろう。


 悪いがこちらも忙しいので、お互いしばらくは自分の生活に専念するとしような。と、心の中で念を送っている。


 俺は登校してはいるけれど主に図書館通いばかりだ。授業にもなるべく出てはいるが、調べたいことで手一杯なので両立は厳しい。

 昼食を片手間に、本を読みながらとっていたら、司書を兼任している教師に普通に叱られた。王族って叱られるんだな、と新鮮に驚いてしまったが良いことだ。学校とはそういうものである。

 反省して、今日は中庭で昼食をとろうと外に出たが、この世界はあまりにも空気が美味すぎるのだ。空気がおいしいって、そういう時代もあったみたいな知識でしかなかった。太陽の陽で草が香るとか、雨上がりに膨らむ土とか、なにもかも新鮮に美しい。


 幸せだなと、思った。


 死んで天国に行くなんてあんまりだと運命を呪い掛けたことなんて忘れるくらい、この世界が好きだ。妹がつくった世界だという贔屓目も無くはないが、それ以上に俺が、俺の心でそう思っている。

 だから国を良くするために自分に出来ることがしたいと、前向きにもなれた。

 友達ができないのは残念だけれど、孤独感は徐々に薄れていた。忙しさで紛れている部分もあるが、使命感の先には国民の笑顔と安心があるのだと想像すると、一人でいることが孤独とは限らないのだという気分にもなった。


 でも、やっぱり寂しくはある。愛してくれた両親と、共に育ってきた妹がいて、あの頃の俺は寂しさと無縁だったなと思うくらい。

 この世界の両親だって、立派な人たちだ。民のために在る、尊敬すべき王だ。だけど記憶を遡ってみたところで、一緒に過ごした時間の希薄さに呆れてしまうくらい。親としては、ちょっと、放任気味かもしれない。


 王というのは孤独な生き物なのだろうと納得はしている。

 そういう、諦めた生き方は、昔からずっと得意だったのに今更かとも思う。


「あの……アニシア、様……」


 控えめに、呼ばれた名前の響きがあまりにも美しくて、下らない由来でつけられた仮名だなんていう嫌悪感はその瞬間に掻き消えて、俺は初めて、アニシアという自分の名前に愛着すら感じた。なぜだかなんて分からない。

 声のした方を向いた。嘗て恋した木漏れ日を、ちいさく握りしめてつくった宝石のような二つの瞳が、俺を見ていた。

 はじめて、声を聞いた。アニシアとしてそんなはずはないのだけれど、俺は、その声を初めて耳にした。ずっと、どんな声なのだろうと夢見ていた。想像して、でも上手く思い描けなくて、心待ちにしていた。ゲームが完成したとき初めて出逢えるはずだった。でも、それはスピーカーを通さずに俺の耳に聞こえてきた。


「わたくし、エスティアでございます。アニシア様がいらっしゃってると、お伺いして」


 一瞬伏せて上げた瞳に、太陽の光が反射したと思ったら、細められて零れそうに揺れた。その笑顔を、想像したことはあった。

 でも、見られないで死んだはずだったのだ。だから、無意識に避けていた。失う恐怖を知ったから、得ることを恐れて避けていた。


「エスティアた……」

「……た?」

「あっ……えと、あ、エスティア」


 王子ってこんな情けなくて大丈夫だろうか。たどたどしく呼ぶ俺に、エスティアはくすぐったそうに笑って、恭しく礼をした。

 それは俺のような新米王子とは桁違いに洗練された、長い時間を掛けて習得した品のような眩しさがあった。でも、そうじゃなかった。お姫様だから好きなんじゃないのだ。綺麗だから、可愛いから、好きになったんじゃない。


「お会いできて、嬉しいです。ずっと……ずっと此処で、お待ちしていました」


 彼女の言葉は震えていた。涙を堪える声なのだと俺は気付いて、その理由が分からなくて。

 アニシアとエスティアは親同士が口約束で将来の話をした程度の、婚約者にも満たない間柄だ。アニシアの記憶では前回は入学前。恐らく直接会うのは十数回目くらいになるだろう。数年は顔を合わせていなかったはずだが、それにしても、そこまで切望される覚えはない。

 俺の疑問を見透かすように、エスティアは顔を上げて、涙の零れそうな潤んだ瞳をたわませて微笑んだ。貴族らしくあろうとする笑顔ではなく、本当に心から、なにかを嬉しく思うような笑顔で。


「はじめまして」


 そんなはずないのに、耐えきれない想いを打ち明けるようにして、エスティアは「俺」にそう言った。




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