最終章
ジャンパーはもう着れない。
あまりに血が付きすぎている。
どこかのマンションのゴミ置き場に脱ぎ捨てた。投げつけた。
公園で頭と顔、血で汚れた腕を洗った。
どうしても落ちない。
ゴシゴシと、なんどもやるうちに、血が流れてきた。
強く洗いすぎていたのだ、
それに気づいた頃には、返り血よりも自身の流した血の方が圧倒的に多かった。
長袖でよかった、と思い腕まくりしていたシャツを元に戻し、歩いた。
財布はある、携帯も壊れていない。
あの銃撃戦の中で、耳だけにしか弾丸が当たらなかったのは奇跡だ───いや、不幸か。
あの中で命を落としていれば、今こんな思いをせずに済んだ。
私の気分はどん底だった。
"メダカ"の人間の多くが死に、また"タガメ"の人間も多くが死んだ。
公安が乗り込んだのだ、今頃ニュース速報だろう。
あの場では、死ねない、と思ったが、今思うとあそこで死んでいれば、とも思った。
この血生臭い体では公共交通機関は何一つ使えない。
わけがわからない。徒歩で、とりあえず帰宅して、自首しよう。
いや、その前に公安が取り押さえに来てくれるだろう。
そんな安堵感があった。
もうどうなってもいい、私を裁いてくれ、と言いながら逃げているのは矛盾だろうか。
公園でびしょ濡れになりながら、途方に暮れて、座っていた。
すると、想像だにしない人物が現れた。四木海周だった。
「おう、乗ってけよ」
「…んで、なんで海周さんが?」
「あんなのに参加はしないさ、俺はたまたま宮城から戻ってきてるだけだし、こうなることはわかってたからね」
そう言うと彼は私の胴に腕を回し、立ち上がらせ、車へと向かった。
「公安もこのタイミングを狙ってたんだろうな、"メダカ"にも"タガメ"にも内通者がいたんだよ」
悪い予感がよぎった。公安のことをなぜ知っている?
"メダカ"側が武装していたのも腑に落ちない。
それでいて───"メダカ"の人たちは同じような銃を持っていた。
「まさかアンタ、どっちにも付いてたってこと…」
「そうだよ、どっちにいたって俺は儲かる。俺に損はない。それでいて、"メダカ"から接触してきたんだ。社会人サークルの"タガメ"なんかよりいい条件で売れたしな」
コイツは…、私は怒りで熱くなった。
そして同時に気持ち悪くなった。
この男は、戦場を産み出したのだ。
先ほどまでの全感覚が麻痺していた自分を思い出し、体が硬直した。
そして立ちながら嘔吐した。
「あーあー、拭いてから車乗れよ…って言ってもタオルなんかないか、このティッシュでよく拭くんだぞ」
とポケットティッシュを渡してきた。
これで何ができると言うのだ、私は海周を睨みつけた。
「おお、怖い怖い。まあまあ、いいから車乗れって。部屋まで送ってやるよ」
半ば無理やり乗せられ、車は走り出した。
「ただやっぱ、いくらD社とはいえ、俺の今後まではケツ拭ってくれないだろうからさ、また海外行くわ。そうだな、次はベトナムでビール作るかな。それがいいな」
そういう四木の車の中は生活用品が簡素にまとめられていて、もう旅立つことを決めているようだった。
自分のしたことに怯え、私は震えが止まらなかった。
音を立てて震えていた。
歯はカチカチと音を鳴らし、爪が食い込み、血が出るまで手を強く握り、膝はダッシュボードに当たり、ガタガタと音を出していた。
「おうおう、まあそんな震えんなって、タバコ吸っていいよ、窓開けな」
というと助手席の窓が開いた。
そうだ、一服して、少し、落ち着こう。ショルダーバッグからタバコを出し、火をつけようとするが、手が震え、なかなか火がつかない。
イライラして、ライターを足元に投げつけた。
四木は笑った。
「ほらほら、はい」
と、私のタバコの先端に火をつけた。
すると、先ほどまでの硝煙の匂いがまだ残っており、タバコとの匂いが交差し、気持ち悪くなって、窓の外へ嘔吐した。
四木は笑った。
「お前みたいな冷静でホットな奴がいると、こちらとしては扱いやすいんだよ。簡単に情に絆される。ははっ、誰にでも優しくしてたら上手く利用されるだけだろ。そうならないための手段を取らなきゃ」
とおそらく日本では合法でないタバコのようなものを吸いながら四木は笑った。
タバコを吸うような人じゃなかった。この人はいくつも顔があるんだ。
「うーん、それにしても悩むな、ベトナムでまたビールか、マフィア相手に銃売るか、難しいよなー、どっちがいいと思う?」
「…死ね」
私は銃を持ち、言い放った。
「おいおい、こっちは善意でそれをあげて、お前の言う『報復』の手伝いをしたんだぜ。その恩を仇で返すのか?お前の語る正義ってなんだよ」
流石、としか言いようがなかった。
肝が据わっている、としか表現しようがない。
それに、私にはもう撃てる気がしなかった。
持っただけで気持ち悪さが湧いてきた。
「公安にはお前が"タガメ"に利用されていた、とだけ伝えてあるよ。向こうはどういうリアクションするかさっぱりわからないけどな」とまた笑った。
どちらにせよこの先、私に明るい未来は待っていないのだ。
私はもう話すことはなかった。
全身は何度にも渡る銃の衝撃と、その後の逃走で疲労困憊しており、脱力しきっていた。
目を閉じると、いくつもの情景が思い浮かんだ。銃声、悲鳴、田辺の睨み、その後の変貌。
人が死に、正義が壊れ、私はまた独りになった。
その時初めて、初めてと言っていいほどの"孤独"という感覚が追いついてきた。
目を閉じると、いくつも情景が思い浮かんでしまう。
それでいて、隣にいるこの男だ。
癪に障る。なんとかして、一言でもいいから何かを言ってやりたい。悔しさで涙が出てきた。
四木は黙ったまま、煙を吐き出し、こちらを見て少しニヤけた。
どこの、どんなタバコだよ。
ふざけやがって。
私を沖田ビルの前で降ろし、四木は颯爽と車を走らせ、夜の闇に溶けていった。
私は震える足で階段を登り、ようやく扉の前に立った。
鍵がうまく刺さらない。刺さったが、鍵がうまく回らない。
何度もやり直してようやく開いた扉は、私の今日までを語るような部屋だった。当然迎え入れてくれた。
靴箱に入り切らずのままのスニーカー、サンダル、就活用の革靴、写真立て、なんだか、何もかもが懐かしかった。
静かな、あまりに静かな環境だった。
血で濡れた靴の足跡が残っていないか、廊下をよく見た。
血はついていない、よかった。
私の部屋の中にまで、"あの現実"は迎え入れられない。
私は、独りだ。
私はやはり、バナに電話をかけた。
もう深夜の2時を回っている。
流石に出ないか、もう見切りもつけられているだろうしな。
と思い切ろうとした瞬間、彼女と繋がった。
「もしもし?先輩?平気?テレビ、みた、もしかして、これにいたの?」
私は、彼女の声を聞いて、心から安堵した。
「ねえ、ねえったら」
心配させないつもりだったのに、とことん心配させていたのだ。
情けない。
「顔が…」
「何?顔?」
「顔が見たい。ビデオ通話にしてもいい?」
「もちろん、すぐ繋ぐ」
そうして画面いっぱいに現れたバナの表情は、また泣いていたことがわかる顔で、とことん、私を心配していた様子だった。
「ごめん…」
そう呟いた。
「今、どこ?部屋?今からそっち行く」
ダメだ、こんな犯罪者を会わせてはいけない。
「ねえ、そっちのカメラも繋いで、とことん心配かけておいて、ごめんの一言じゃ許さないよ」
私は押しに弱い。
こんな疲弊しきった顔、見せられるわけがない。
だが繋いだ、目元だけ映るように。
少し引いたような声で
「泣いてたの?」
と彼女は言った。
「お互い様だろ」
と私は返答した。
「ありがとう、全部、終わったよ」
そんなはずがない、まだニュースは見ていないが、余程大きなものには仕上がっているだろう。
だが、どちらかが優勢だったのか、遁走した私は、それを知ることも憚れる。
ちゃんと"メダカ"の排斥はできたのだろうか、もう苦しむ人は生まれないのだろうか。
それとも、反社会性力として、"タガメ"だけが咎められているのだろうか。私には到底わからない。
「シーか、ランドに行こうよ…行こう」
「うん、うん」
彼女はまた涙を流していた。
私は泣かせっぱなしだな、と思った。
きっと彼女を幸せにしてあげることはできない。
「じゃあ、またね」
「ちょっと待って、まだはな…」
通話を切った。
私は立ちすくんでいた。
体が異臭を放っていた。耐えられなかったのでシャワーを浴びた。
血の匂いは落ちない。
目は閉じられない。情景が浮かび上がってきてしまう。
私が住むことで画になっていた部屋は、もう私がいなくても画になる部屋になっていた。
もうこの部屋は居場所ではない。
シャワーを浴び、白いシャツを着て、ショルダーバッグを抱え、部屋を出た。
コーヒーが飲みたかった。
コーヒーをコンビニで買い、歩いた。
この街を一望できるあの丘でコーヒーを飲もう。
そう思い、歩き出していた。
道中、色んなことが頭をよぎった。
喫煙所での出来事、深夜突然かかってくる電話、"メダカ"、"タガメ"なんとかしてバナを救おうと思った気持ち、鮮明に、どれも思い出せる。
雪が降ってきた。三月だぞ。
少し遅いだろう。
だけど雪はざあざあと降った。
私は、春を待つのだろうか。
嫌いな春を。
また、性懲りも無く。
春を迎えに行くには、少し寒すぎて。
丘のある公園に、辿り着いた。
けれど、まだ歩かなくてはいけなかった。
途方もない坂道で膝から力を無くし崩れ落ち、立ち上がっては歩き出し、ポケットに入れた拳銃を強く握った。
七発しか撃てないこの拳銃で、私は自分に砲口を向け、あの高い丘の上でこの街を一望できるあの丘で、弾丸を頭に撃ち込むのだと、とにかく考え、歩いた。
何発残っているのだろう。
1発でもいいから入っていて欲しいな、と、マガジンにどれだけ入っているか、確認する元気もなかった。
強く握りしめた手は攣り、肘がジンジンと疼くのを感じる。
撃つしかない、と思い込むほどに、ポケットの中の重たさが、足にのしかかる。
何度も、膝から崩れ落ちた。
ようやっとの思いで、丘の頂上に着いた。
頂上からは見渡す限り懐かしい街の光が見えた。
私の苦悩など知らず、何も変わってないかのように見えた。
色々なことを考えた。
まずは両親に、立派な名前をつけてくれてありがとう。
そう思った。名前通りには育てなかった。ごめんなさい。
それから、親友たちのことを思った。
弱っている時に、優しく声をかけてくれてありがとう。外の世界に連れ出してくれて、心から感謝している。
バカ話ももうできなくなるね。
そして、やはり最期に思ったのは、バナのことだった。
ごめん、シーにも、ランドにも行けないかもしれない。
それが、この後わかる。
最期に、声が聞けてよかった。
たくさん泣かせてしまった。申し訳なさで、いっぱいだった。
私は『いつも』のタバコを吸い、『いつも』の不味いコーヒーを飲み、ポケットから銃を取り出した。
何発入っているのかな。一撃で、済めばいいなと思いこめかみに銃口を向けた。深く深呼吸して、感謝の思いと、全ての罪悪感を打ち消すために、引き金を引いた。
カチリ。
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