第5章

夢を見た。

途方もない坂道で膝から力を無くし崩れ落ち、立ち上がっては歩き出し、ポケットに入れた拳銃を強く握る。

七発しか撃てないこの拳銃で、私は自分に砲口を向け、あの高い丘の上でこの街を一望できるあの丘で、弾丸を頭に撃ち込むのだと、とにかく考え、歩いた。

強く握りしめた手は攣り、肘がジンジンと疼くのを感じる。撃つのだ、と強く思いながら歩いてはポケットの中身の重たさに耐えきれず、膝から崩れ落ちる。

そんな夢だった。



羽毛布団をかけて寝た私は、目覚めてから自身のかいた汗の量に戸惑った。

枕カバーは絞れる程に汗を吸収し、寝巻きは胸元から腹にかけて驚くほどぐっしょりと濡れていた。

睡眠薬で目覚めても朦朧としている頭が、これはいけない、と急いで服を脱ぎ、風呂場へと向かった。


シャワーを浴び、寝具を片付けたあと私は朝食と言えるかも怪しいものを腹に収め、一服した。

心なしか、いつもより苦い味がした。


"タガメ"からのメールが当日である今日送られてきた。無骨だった募集フォームからは想像できないほどの丁寧な文で。

指定された場所と時間が記載されているだけだが、怪しさが漂い、行くのを躊躇するほど丁寧な文章だった。

しかし、ただの社会人サークルであることを考慮すれば、これくらいの丁寧さがある方が信用はできる。そう考え、とりあえず何をしているかだけ話を聞こう、と腹を括った。

バナに一つ話の種になれば、と思い何気なく応募しただけだ、それだけなのだ。


外に出れば、雨が降っていた。

私は階段を登り自室へ戻り、700円もしたビニール傘を取り、また部屋を離れた。

指定された場所は、駅から離れた公民館の一室だった。時間の10分前に到着した私は一服するべく、喫煙所へと向かった。

そこには、2mはあるであろう男性が一人、喫煙所で電子タバコを吸っていた。

少し低い屋根がある程度の簡易喫煙所で彼は背を屈め、居心地が悪そうに、しかし堂々とタバコを吸っていた。

私は彼から少し離れたところで煙を蒸した。

すると、その男性が暖簾をくぐるかのような動きで喫煙所から出てきて私に話しかけてきた。

「……あの…ですよね?」

急いでイヤホンをとり、彼とコミュニケーションをはかろうとした。

「すみません、なんでしょうか?」

「いえいえ、こちらこそ突然話しかけてしまいすみません」


彼の風貌とは釣り合わない、高い声だった。


「"タガメ"に応募していただいた方ですか?」

「"タガメ"、はい、そうです。応募しました」

「わあ、ありがとうございます!駅から随分歩きましたでしょう、すみません雨の中こんな遠くまで」

「とんでもないです、大した距離ではなかったですよ」

「ご丁寧に、ありがとうございます。一服済んでからで結構ですので、2階の和室2号にお越しください。お茶は何がよろしいですか?コーヒーなどもご用意しております」

「では、コーヒーで、ブラックで結構ですので」

「かしこまりました、ご用意してお待ちしておりますね!」

そう言い彼は大きな体とは思えないくらいちょこちょこと走りながら公民館に入って行った。

明るくて丁寧な方だな、と思いながら私は煙を吐き出した。


指定された和室2まで向かった。

思っていたより広い空間で、大の大人20人ほどは入れる。

2mはある男性とすらっとした170cmほどの細身の女性が居た。どちらも風が吹けば飛んでしまいそうなほど、痩身であった。

靴を脱ぎ、和室に足を踏み入れた私は、久しぶりの畳の感覚に戸惑っていた。

「なかなか畳のある部屋にいることってないですよね、もしよろしければ裸足になっていただいても結構ですよ」と大きな男はそう言った。

「いえいえ、お構いなく」

「それにしても寒くなりましたね、コーヒーはホットでご用意させていただきましたが、ホットでよろしいですか?」

「はい、ホットで大丈夫です。ご丁寧にありがとうございます」

そうして、深い緑色の湯呑みに入ったコーヒーが出てきた。湯気を立て、豆の匂いを良く纏っていた。

「すごい、コーヒーミルでご用意いただいたんですか?」

「はい、私のこだわりです。久しぶりのお客様なので、失礼のないようにご用意させていただきました。ただコーヒーカップの方を持ってくるのを忘れてしまいまして。湯呑みになってしまいましたが、よろしければお召し上がりになってください」

普段ペットボトルの不味いコーヒーを飲む私にとっては高級な嗜好品だった。

すぐにでも飛びつきたかったが、少し待つことにした。私は猫舌なのだ。


「ところで、なぜわざわざ"タガメ"にご応募いただいたのですか?」

「シンプルなチラシに惹かれて…あと…」

「"メダカ"ですよね?」


私は息を飲んだ。何故この男は私が濁そうとしたワードをすぐさま出せたのか。彼は確信した表情で話を続けた。


「多いんです。"メダカ"からこちらへお越しいただくことが。そして誰も"メダカ"についてよく知らない。マルチでもない、ネズミ講でもない、宗教でもなければ自己啓発でもない。その程度しか知識はない。そこに対抗するのが我々"タガメ"のような水生生物の名前をつけたサークルです」

「"メダカ"に対抗するんですか?入試での成績優秀者のみが入れるサークルに?」

「そこまでご存じなのですね」

「はい。後輩…友人が"メダカ"の話を」

「後輩さんは勉学に優れた方なのですね」

「はい、出来過ぎなほどです」

彼は沈黙した。視線を遠くへやった。

「あなたはどちらの大学の出身なのですか?」

横で話を聞いていた細身の女性が初めて口を開いた。

「私はT大学です、B区にある…」

「そこの大学の学生さんもよく"メダカ"に属しているはずです。在学中ご存じではなかったのですか?」

「私に学友は少なく、また一年遅れて卒業したのでほとんど一人行動でしたので…」

「お一人ですと、怪しいインカレの勧誘などは受けませんでしたか?」

「受けました、サイクリングのインカレで…お互いを高めあってるとかなんとか言ってましたね…宗教の勧誘もありました」

「そうですよね、おそらくですがそれらのほとんどの源流は"メダカ"であったり"メダカ"の真似事をしています」

「では、"メダカ"はやはり怪しいインカレなのですか?」

沈黙していた男はこちらに目配せをし、また視線を部屋の隅に逃した。

「害をなすインカレではないのですが…」

重々しく彼は口を開いた。

「未成年にお酒を飲ませたり、タバコを吸わせたり、などは一切行わない…むしろそれらを嫌い、発覚した場合にはサークルの中で厳罰が下されます」

「偏屈なサークルですね、むしろそういったところで未成年はお酒やタバコの味を知るものだと思っていました…私が参加しようとしたサークルがそうあったので…」

「そうなんです、"メダカ"でできたグループはグループ内に未成年がいたらその前では一切そういった類のことはできません」

「健全すぎる、とまで言えるような」

「そうです。健全なのです。全国津々浦々にある大学で入試成績上位10%の方のみ入れる、至って健全で、至って不純なのです」

「と、申しますと…」


彼は視線を私に戻し静かな声で言った。

「"メダカ"の活動内容はいわゆる就職活動です」

私は拍子抜けした。

ただのエスカレーターなのか、と。

「それなら、サークルのやりたいようにやれば、いいではないですか」

「それではダメなのです。健全な学生たちにとって、至って不純なやり方で一回生にタネを撒き、4年間手塩にかけて、成績優秀者上位10%でできた団体からさらに上位10%をあの大手広告代理店Dに入社させるのです。そこから溢れた学生たちは他の生息地を求めてまた就職活動を行います」

「それでも、それだけなら、特に怪しいことはないのでは?」

「健全ではないのです。全国の河川に行き、そのD社が育てた本物の"めだか"を放流するのです」

それだけなら…と思ったが、彼は言葉を続けた。

「D社が育てた本物の"めだか"を得られるのはほんの一握りのグループのみ、もしくはその河川に放った"めだか"がキチンとその河川に定着させることに成功したグループだけなのです」



女性が湯呑みを口にして、テーブルに置いた。

私は拍子抜けした上に唖然とした。

そのサークルに対抗する社会人サークルとはなんだ?と。

「それを阻止するために"タガメ"は存在するのですか?」

「その"めだか"がそれだけをしているのなら良いのです。ただ、それだけに収まらないから、我々"タガメ"のようなグループがあるのです」

「それはどうして…」

「D社が用意した本物の"めだか"は薬品漬けにされ、河川に放されるとその薬品の成分が体内から放出され、河川の水質を上げ、環境を変えてしまいます。汚い水の中でしか生きられない水生生物がいるのに、です。さらに外来種を淘汰するために普通の"めだか"の数倍の大きさで世に放たれるのです」

「そんな大きな"めだか"を、ですか?」

「そうです。今できている食物連鎖の関係も崩れてしまいます。さらにその"めだか"は品種改良によって出来上がった、鯉ほどの大きさで、それらから産まれた"めだか"を放流するのです」


私は半信半疑だった。男がこれだけ喋るからには、おそらく話のほとんどが作り話ではないことが理解できた。

せっかくホットで出され、冷えきったコーヒーを一口飲んで、私は揶揄するかのようにこう言った。

「では、"タガメ"も放流するのですか?水生生物として、食物連鎖の上位にはいると思うのですが」

「いえ、私たちが望んでいるのはそうしたことではありません。それもまた、今の環境バランスを崩すことになってしまう」

「では、なにをされているサークルなのですか?」

男は口をつぐんだ。

代わりと言わんばかりに女性が喋った。

「その鯉ほど大きさのある"めだか"をこの世から排斥するためにあるのです、ただ、それだけです」

「それで就職活動の邪魔をする、と?」

「ええ、そうです。環境破壊活動の上に、学生をモノとしか認識してないD社に一矢報いねばならないのです。就職活動すらも健全に行われていないこの現状を変えなければ、いよいよこの国は終わりです」

「なるほど、確かに不健全には思えますが、ニュースの記事でもテレビでも、そんなことはどこでも聞かないですよ」

「D社が箝口令を敷いているからです、表沙汰になることはありません」

「では河川の研究や維持に努めている方達がSNSで発信することは?」

「それらも、気がつけばその投稿は自然と消されるようになっております。1時間その投稿が残っていれば相当優秀なやり口として発信されています。しかし、必ず消されます。アカウントを非開示にしたとしても」


だとしても、だ。頻繁に古本屋へ"メダカ"の情報を求めるにしてはおかしすぎる。

そう私が言うと男がまた口を開いた。

「それはただ単に、就職活動中に耳にした言葉を使っているだけです。誰も活動内容について知る者はいないのです。あなたのご友人も少し口が軽かっただけなのです。いわゆる平々凡々と生きている者には辿り着かないものです」


この口調に腹を立てた私は、冷静になるべくまたコーヒーを口にした。

バナを軽く言ったことに対しても腹を立てた。

興奮した私が口を開こうとしたら先に男が言葉を発した。


「少々失礼なことを申し上げました、お詫びさせてください。ただ私たちは環境破壊が許せないだけでなく、学生たちが巻き込まれ、消費されている現代を嘆いているのです」

「そのために"メダカ"を潰そうと」

「ええ、そうです。そのためなら手段は問いません。この日本という国はD社が半分握っていることは事実です」

「残念ですが、私には到底想像できず、話も半信半疑で伺っております。D社が相手ではどれだけ活動を起こしてもすぐにまた新しい"メダカ"ができるのではないですか?」

「おそらくそうでしょう。そうしたらその前に今度はその芽を摘む行動を起こさねばなりません。"タガメ"の活動に終わりはありません。我々が行動することでメディアも取り上げなければならないほどに大きな話題にしなければならない」

男の据わった目を見て、寒気がした。

とんでもない所に来てしまった。

興味本位で関わろうとしていたサークルは、テロ活動を行うかのような思想で偏り、世を本当に変えようとするのだ。

一介のフリーターが参入して良いはずがない。

私は正直言って頭が良い方ではない。

バカと言われれば黙ってその言葉を受け入れるだろう。

だがしかし、この男女は至って真面目である。


口をつぐんでいた女性が口を開いた。

「私は、成人して以降、"メダカ"でおもちゃにされていました。酒を飲まされては服を脱がされ、乱暴に扱われてきました。そんな女性は多くないですが、確実に一定層います。でも抵抗はできませんでした。これはD社に入るために必要な行為なのだと自身を騙しながら、淫らなフリをして、弄ばれました」

また、唖然とした。

就職のために身体を男に預けてきたのかと。

そこまでして、盲目的にひたすら道を歩んできたのかと。

「私だけではありません。こういう行為に走るのは性別を問いません。ただ身を委ね就職の近道にしようと、男女が弄ばれ、傷ついていきます」

感情のない、自動音声かのような声で彼女は喋り続けた。

「あなたのご友人は、アルバイトで一緒だと仰いましたよね」

「はい」

「大学はどちらですか」

「O大学です」

「では、おそらくですがカーストとしてはかなり下の方にいらっしゃいます。カーストを上げるためには、どうするか。もうあなたはお分かりだと思いますが」


背筋が凍りついた。心臓が強く脈打った。

指先まで冷たくなる感覚がした。


「最近アルバイトではお会いになられましたか?」

「いえ」

「では、おそらくそういうことです。カーストを抜け出すためには、上げるためには、どうすればいいか。盲目的になっている可能性があります」

「そんなまさか。彼女はそんな女性ではありません」

「エアードロップの話はされませんでしたか?」

「エアドロ…?していました…」

「それを知るのは、もう既に一度身体を誰かに預けている人だけです。男女問いません。誰かに身体を預けているはずです」


私は太宰治の『走れメロス』の一節を思い出した。そうして体感した。


私は激情した。

必ず、そのD社を除かねばならぬと身を震わせた。

私には就職活動をそこまで盲目的に行えることの理由がサッパリわからない。

私はフリーターで、大手広告代理店なんて縁のない話だ。

唯一、惚れている女が好きでもない男女に身体を預けている可能性が微塵にでもあることに敏感に反応した。

嫌悪感はなかった。彼女にとっても大きな決断だっただろう。

この女性もだが、必死にもがいてまで勝ち抜けようとした思いを踏み躙るかのような、漠然と行われているサークル活動が許されるはずがない。

私にとって環境破壊だの、食物連鎖だのとは全くもって関心がないが、人の純情を弄ぶような連中には必ず鉄槌がくだされなければならぬと震えながら思った。


しかし、そこまでした彼女の頑張りを摘むような"タガメ"の行動に対してリスペクトは生まれなかった。

そこまでして入りたいのであれば入ればいい、そんな風にも思ってしまった。

私は激情した頭を落ち着かせるべく、コーヒーを飲み干し、少し黙った。


「やっていることが正しいかどうかは、誰にも判断できません。ただ、私もあなたも同じく腹が立ったはずです。男の我々にしかわからない感情もあるでしょう。だからこそ、私たちの活動に加勢していただきたい」

そう言って男は自身の電話番号を書き記したメモを私に渡して、こう言った。

「お返事はいつでも大丈夫です。ただ、イエスかノーの二択です。ノーだった場合、私たちはあなたに関与しません」


そうしてザアザアと降る雨の中、帰路についた。


風が強く吹き、ビニール傘の骨が折れた。

部屋に戻る直前で。

ツイてないなとしみじみ思った。

温かかったはずの冷めたコーヒーが身体の芯を震わすほどの寒さだった。

まだ冬物のアウターを着る時期でもないのに。

折れた傘はどう処分するのかを市のホームページで確認し、その手間と気怠さにまたやられ、換気扇の下に座り込みタバコを吸った。

気持ちが悪いし気分も悪い。最悪の味がした。

とにかく不快だった。

あの2mはある男の話を思い出し、反芻した。

どのようにこの気持ちをぶつければいいのか、悩んだ。

バナに送る文面も考えていた。しかしどのように話かければいいのか、何もわからなかった。

彼女は本当に男か女と肉体の関係を持ったのだろうか、ボーイフレンドがいる彼女に、そんなことができるのだろうか。

とにかく疲れた。タバコを吸い切る前に捨て、ベッドの上に身体を収めた。これで一日を終わりにしよう、嫌なことは全部一度忘れてしまおう。そんな思いだった。

目を閉じ、ぐるぐるとした頭を寝かしつけようと努めた。

コーヒーのカフェインが私に悪く作用していた。とにかく目を閉じたまま時間が過ぎるのを待った。

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