第2話 ごめんなさい、を言いたいの。

あの後、わたしはすぐに五条に回収された。

もちろん、和室を全速力で走り回っていたことについて、

五条は私をこっぴどく叱った。


そして、あの日、わたしは結局当主様に会わなかった。

いつもそうだ。

当主様に顔だけでも見せようとする五条に連れられ、屋敷には出向くが、彼はわたしに会おうとしない。

結果、いつも五条の定期報告で終わってしまう。


そもそも期待されていないのだと思う。当然だ。

身体能力の高さから、一般人ではない、

つまり何らかの異能力を持っているのは明らかだが、現状ではその異能が何なのかわかっていない。

加えて、障害を抱えた子どもに期待する人間など、いるはずもない。


それとは別に、わたしの頭の中に残り続けるものがあった。

それは、あの日“征士郎さま”に対して、自らが犯した無礼である。


何度振り返っても、彼はわたしを心配してくれていた、ように思えた。

それなのに、わたしは彼の名前を聞いた瞬間、逃げ出した。


罪悪感が消えない。


そのことを五条に相談したのは、あの日から二週間後のことだった。



わたしの悩みを聞いた五条は、至極まっとうな提案をした。

謝りに行こう、と。


けれど、「征士郎さまには会わないほうがいい」という忠告をくれたのも五条だった。

その五条が、あっさりと彼に会うことを認めたのが不思議で、それを問うと――


「会わないほうがよい、とは言いましたが、会うな、とは言っておりません。悪い人ではないので、何週間も罪悪感に悩まされるくらいなら、謝りに行けばいいでしょう」


…と、あっさり返された。


そして五条は仕事が早い。

わたしがぼーっとしている間に、百の仕事を片づける。

気づけば、あれよあれよという間に、わたしは征士郎さまの前に立っていた。


そう、いま、目の前に――彼がいる。

目をぱちくりさせ、こちらを観察する征士郎さまが。

前回とほとんど変わらぬ姿。和装に包帯。

飄々とした顔に似合わない、痛々しい姿だった。


わたしはというと、五条の右足の後ろに隠れている。


謝らなければ。


緊張で、五条のスカートをぎゅっと握る。

五条のスカートはすでにしわだらけで、わたしの手汗もしみこんでいる。


気持ちはあるのに、言葉が出てこない。


不意に、肩をぽんぽんとされる。

見上げれば、五条が穏やかに微笑んでいた。

五条の微笑みは不思議だ。見るだけで、勇気が湧いてくる。


わたしは、なけなしの勇気を振り絞って声を出した。


「…あ、あの時、ごめんなさ――」

「ん?」


言い終わる前に、彼が体を前のめりにして、くりくりとした目をこちらに向けてくる。

ようやく何か話したぞ!とでも言いたげだ。


「ふぇ……」


情けない声が漏れ、思わず五条のスカートに顔をうずめた。


どうして、言えないんだろう。

非を詫びるべきはわたしなのに。

また彼から逃げている自分が、情けなくて、涙が出てくる。


頭の上から、五条のため息が聞こえた。

そして、ぽんぽんと頭を撫でられる。


「お嬢様、声が小さすぎます。なーんにも聞こえませんよ。それにスカート、しわだらけですから、そろそろ離れてください」


五条が右足をぶらぶらさせる。とりあえず謝りながら離れてみた。


「ごめんなさい、あ、鼻水ついちゃった」

「えっ?…もーっ!あなた、何をしてるんですか、さっきから、ほんとに!」


五条の堪忍袋の緒が切れたのか、わたしにまくしたてる。

たまらず謝ろうとすると――


「あはは!かわいいねぇ、五条の子!ふふっ」


征士郎さまがどかりと床に座り、前髪をかきあげて笑う。

それに対して、五条は不服そうな声をあげた。


「笑い事ではありません」

「ごめん、ごめん。だって、五条があまりに慌ててるからさ」


「はー、笑った笑った」と征士郎さまがわたしを見据える。

どきり、と心臓が跳ね、思わず五条の後ろに戻ろうとしたところ、


「おいで。怖くないよ」


彼がそう言って、両腕を広げた。

温かく、穏やかな声だった。


不思議と、体が動いた。


彼は温かく、大きな手でわたしの頭を撫でた。

そのとても心地よいリズムだった。


しばらくの沈黙。初夏の風だけが廊下を通り抜ける。


「…落ち着いた?」


大きな瞳が、わたしを見ている。

こくり、と頷くことしかできなかった。


「…人見知りさんなのかな? 怖い?」


怖くはなかった。

というより、怖さを鎮める何かを、彼は持っていた。

ふるふる、と首を振る。

彼は安心したように、ふっと息を吐いた。


「そっか。よかった。…いい子だね」


再び、頭を撫でてくれる。心地よい手のひら。


「ところで五条、今日は何しに来たの?」


彼はわたしを抱えたまま、五条に尋ねる。


「…お嬢様が、征士郎さまに謝りたいと仰ったので」

「えっ?」

「先日、この屋敷に伺った際、大変な無礼を働いてしまったと」

「……」

「謝りたい、と」


「…そっか。…そうなの?」


頭をぽんぽんとされる。

まさしくその通りなので、わたしは小さく頷く。


「…わざわざ、ありがとう。僕に会うの、怖かったんじゃない?」

「(こくり)」

「あーあ、こりゃ五条が僕の名前使って、この子を脅してるなー!?」


「言いがかりはおやめください、征士郎さま」


「だって、すっごい怯えてたよ? ものすんごいスピードで僕の前から走り去っていったもの。ねえ、」


また頭をぽんぽんと撫でられる。


「征士郎さまの顔が怖かったのでは?」


「そんなはずないよ。僕、いつも笑ってるもん」

「…はぁ、そうですか」


「うん。…そうだよ。

…よいしょっと」


急に体を抱えられ、征士郎さまの前に立たされる。

彼と目が合う。確かに、彼は笑っていた。


「じゃあ、君が僕に謝れたら、今日の任務は達成ってわけだ」

「(こくり)」

「じゃあ、僕が先に謝っちゃおー!」


「⁉」


征士郎さまが正座になって、わたしと視線を合わせる。

背筋が伸びる。謝りに来たのに、どうして謝られているのか。


「…怖い思いをさせて、ごめん。

君を怖がらせるつもりは、全くなかった。信じてほしい」


目が合う。

その目は、鳶色で、深くて、優しかった。


「ごめん」


彼が目を伏せる。その姿は、すこし幼く見えた。

思わず、言葉がこぼれる。


「わ、わたしのほうこそ、ごめんなさいでした」


再び目が合う。

思わず逸らしたくなる。


けれど、それはできなかった。


彼は確かに笑っていた。

けれどその目には、どこか寂しさが宿っているような気がした。


彼の孤独が、わたしの目に映った。


「…お、お名前は、なんですか」


思わず口が動いた。

が、すぐに自分の質問が場違いだったと気づき、頭を抱える。


(なんでこんなこと聞いたの? 恥ずかしい)


しばらくの沈黙。

それを破ったのは、征士郎さまだった。


「征士郎。苗字はわからないけど、名前は、征士郎」


思わず顔をあげる。


「…君の、呼び名を聞いてもいいかな?」


彼の声は、少し震えていた。表情には緊張がにじんでいた。

さらさらと、初夏の風が間をすり抜ける。


「…一花」


ふっ、と彼の顔が綻ぶ。

直後、ぎゅっと抱きしめられて、頭を撫でられた。


「そっか、一花か。…ありがとう」


――はじめて、五条以外の人の温かさを知った。


この人は、大丈夫。

心から、そう思えた瞬間だった。



その日から、一花は頻繁に征士郎のもとを訪ねた。

学校での出来事を話したり、宿題を見守ってもらったり。

図書館で借りた本を読み聞かせてもらうこともあった。

ときどきは、お菓子を持っていって、ふたりで食べることもあった。


征士郎は体が弱く、学校に通ったことがないと言っていた。

そのためか、征士郎は一花の話を毎度真剣に聞いてくれた。


――嬉しかった。


わたしは、話すのは得意ではないけれど、

征士郎さまははいつも、わたしの言葉を待ってくれた。


――幸せだった。


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