第2話 ごめんなさい、を言いたいの。
あの後、わたしはすぐに五条に回収された。
もちろん、和室を全速力で走り回っていたことについて、
五条は私をこっぴどく叱った。
そして、あの日、わたしは結局当主様に会わなかった。
いつもそうだ。
当主様に顔だけでも見せようとする五条に連れられ、屋敷には出向くが、彼はわたしに会おうとしない。
結果、いつも五条の定期報告で終わってしまう。
そもそも期待されていないのだと思う。当然だ。
身体能力の高さから、一般人ではない、
つまり何らかの異能力を持っているのは明らかだが、現状ではその異能が何なのかわかっていない。
加えて、障害を抱えた子どもに期待する人間など、いるはずもない。
それとは別に、わたしの頭の中に残り続けるものがあった。
それは、あの日“征士郎さま”に対して、自らが犯した無礼である。
何度振り返っても、彼はわたしを心配してくれていた、ように思えた。
それなのに、わたしは彼の名前を聞いた瞬間、逃げ出した。
罪悪感が消えない。
そのことを五条に相談したのは、あの日から二週間後のことだった。
*
わたしの悩みを聞いた五条は、至極まっとうな提案をした。
謝りに行こう、と。
けれど、「征士郎さまには会わないほうがいい」という忠告をくれたのも五条だった。
その五条が、あっさりと彼に会うことを認めたのが不思議で、それを問うと――
「会わないほうがよい、とは言いましたが、会うな、とは言っておりません。悪い人ではないので、何週間も罪悪感に悩まされるくらいなら、謝りに行けばいいでしょう」
…と、あっさり返された。
そして五条は仕事が早い。
わたしがぼーっとしている間に、百の仕事を片づける。
気づけば、あれよあれよという間に、わたしは征士郎さまの前に立っていた。
そう、いま、目の前に――彼がいる。
目をぱちくりさせ、こちらを観察する征士郎さまが。
前回とほとんど変わらぬ姿。和装に包帯。
飄々とした顔に似合わない、痛々しい姿だった。
わたしはというと、五条の右足の後ろに隠れている。
謝らなければ。
緊張で、五条のスカートをぎゅっと握る。
五条のスカートはすでにしわだらけで、わたしの手汗もしみこんでいる。
気持ちはあるのに、言葉が出てこない。
不意に、肩をぽんぽんとされる。
見上げれば、五条が穏やかに微笑んでいた。
五条の微笑みは不思議だ。見るだけで、勇気が湧いてくる。
わたしは、なけなしの勇気を振り絞って声を出した。
「…あ、あの時、ごめんなさ――」
「ん?」
言い終わる前に、彼が体を前のめりにして、くりくりとした目をこちらに向けてくる。
ようやく何か話したぞ!とでも言いたげだ。
「ふぇ……」
情けない声が漏れ、思わず五条のスカートに顔をうずめた。
どうして、言えないんだろう。
非を詫びるべきはわたしなのに。
また彼から逃げている自分が、情けなくて、涙が出てくる。
頭の上から、五条のため息が聞こえた。
そして、ぽんぽんと頭を撫でられる。
「お嬢様、声が小さすぎます。なーんにも聞こえませんよ。それにスカート、しわだらけですから、そろそろ離れてください」
五条が右足をぶらぶらさせる。とりあえず謝りながら離れてみた。
「ごめんなさい、あ、鼻水ついちゃった」
「えっ?…もーっ!あなた、何をしてるんですか、さっきから、ほんとに!」
五条の堪忍袋の緒が切れたのか、わたしにまくしたてる。
たまらず謝ろうとすると――
「あはは!かわいいねぇ、五条の子!ふふっ」
征士郎さまがどかりと床に座り、前髪をかきあげて笑う。
それに対して、五条は不服そうな声をあげた。
「笑い事ではありません」
「ごめん、ごめん。だって、五条があまりに慌ててるからさ」
「はー、笑った笑った」と征士郎さまがわたしを見据える。
どきり、と心臓が跳ね、思わず五条の後ろに戻ろうとしたところ、
「おいで。怖くないよ」
彼がそう言って、両腕を広げた。
温かく、穏やかな声だった。
不思議と、体が動いた。
彼は温かく、大きな手でわたしの頭を撫でた。
そのとても心地よいリズムだった。
しばらくの沈黙。初夏の風だけが廊下を通り抜ける。
「…落ち着いた?」
大きな瞳が、わたしを見ている。
こくり、と頷くことしかできなかった。
「…人見知りさんなのかな? 怖い?」
怖くはなかった。
というより、怖さを鎮める何かを、彼は持っていた。
ふるふる、と首を振る。
彼は安心したように、ふっと息を吐いた。
「そっか。よかった。…いい子だね」
再び、頭を撫でてくれる。心地よい手のひら。
「ところで五条、今日は何しに来たの?」
彼はわたしを抱えたまま、五条に尋ねる。
「…お嬢様が、征士郎さまに謝りたいと仰ったので」
「えっ?」
「先日、この屋敷に伺った際、大変な無礼を働いてしまったと」
「……」
「謝りたい、と」
「…そっか。…そうなの?」
頭をぽんぽんとされる。
まさしくその通りなので、わたしは小さく頷く。
「…わざわざ、ありがとう。僕に会うの、怖かったんじゃない?」
「(こくり)」
「あーあ、こりゃ五条が僕の名前使って、この子を脅してるなー!?」
「言いがかりはおやめください、征士郎さま」
「だって、すっごい怯えてたよ? ものすんごいスピードで僕の前から走り去っていったもの。ねえ、」
また頭をぽんぽんと撫でられる。
「征士郎さまの顔が怖かったのでは?」
「そんなはずないよ。僕、いつも笑ってるもん」
「…はぁ、そうですか」
「うん。…そうだよ。
…よいしょっと」
急に体を抱えられ、征士郎さまの前に立たされる。
彼と目が合う。確かに、彼は笑っていた。
「じゃあ、君が僕に謝れたら、今日の任務は達成ってわけだ」
「(こくり)」
「じゃあ、僕が先に謝っちゃおー!」
「⁉」
征士郎さまが正座になって、わたしと視線を合わせる。
背筋が伸びる。謝りに来たのに、どうして謝られているのか。
「…怖い思いをさせて、ごめん。
君を怖がらせるつもりは、全くなかった。信じてほしい」
目が合う。
その目は、鳶色で、深くて、優しかった。
「ごめん」
彼が目を伏せる。その姿は、すこし幼く見えた。
思わず、言葉がこぼれる。
「わ、わたしのほうこそ、ごめんなさいでした」
再び目が合う。
思わず逸らしたくなる。
けれど、それはできなかった。
彼は確かに笑っていた。
けれどその目には、どこか寂しさが宿っているような気がした。
彼の孤独が、わたしの目に映った。
「…お、お名前は、なんですか」
思わず口が動いた。
が、すぐに自分の質問が場違いだったと気づき、頭を抱える。
(なんでこんなこと聞いたの? 恥ずかしい)
しばらくの沈黙。
それを破ったのは、征士郎さまだった。
「征士郎。苗字はわからないけど、名前は、征士郎」
思わず顔をあげる。
「…君の、呼び名を聞いてもいいかな?」
彼の声は、少し震えていた。表情には緊張がにじんでいた。
さらさらと、初夏の風が間をすり抜ける。
「…一花」
ふっ、と彼の顔が綻ぶ。
直後、ぎゅっと抱きしめられて、頭を撫でられた。
「そっか、一花か。…ありがとう」
――はじめて、五条以外の人の温かさを知った。
この人は、大丈夫。
心から、そう思えた瞬間だった。
*
その日から、一花は頻繁に征士郎のもとを訪ねた。
学校での出来事を話したり、宿題を見守ってもらったり。
図書館で借りた本を読み聞かせてもらうこともあった。
ときどきは、お菓子を持っていって、ふたりで食べることもあった。
征士郎は体が弱く、学校に通ったことがないと言っていた。
そのためか、征士郎は一花の話を毎度真剣に聞いてくれた。
――嬉しかった。
わたしは、話すのは得意ではないけれど、
征士郎さまははいつも、わたしの言葉を待ってくれた。
――幸せだった。
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