「能楽に、『藤戸ふじと』という演目がある」

 図面の池の部分を指先で示しながら、蒼雪がそんなことを言い出した。

「源平合戦の時代、佐々木ささき盛綱もりつなは馬で海を渡り、そして手柄を上げた」

 勝者である源頼朝が開いたのが鎌倉幕府で、そこから鎌倉時代は始まっている。となればその源平合戦の時代というのは、平安時代の終わりの頃か。それこそ今から、八百五十年ほど前の話だろう。

 それが今、どうして彼の口から出てくるのか。

「佐々木盛綱は褒賞にと備前国びぜんのくに児島こじま――今の岡山県倉敷市の辺りだが、そこを賜った」

 手柄を上げて、土地を手に入れる。確かそうして鎌倉幕府は御家人の統率をしていたのだと、実鷹は記憶している。

「藤戸の戦いにおいて、源平の戦況は膠着していた。けれど盛綱が海を馬で渡ったことにより戦況が変化し、盛綱は勝利できたというわけだ」

 それこそ海を馬で渡るという奇策が、戦争に勝利する突破口になったのだろうか。

「では、盛綱はどのようにして海が渡れると知ったのか。どう思う?」

「……その辺りの人に、聞いた?」

「正解。付近に住む人だけが知ることというのはある」

 例えば、抜け道だとか。そういうものは外から来た人には分からない。入り組んだ細い裏路地をどのように行けば早いのか、そういうことは住んでいる人間にしか分からないこともある。

 馬で深い海は渡れない。ならば浅瀬や、海の水が引く瞬間を知らなければならない。

「盛綱は地元に住む若い漁師から浅瀬ができる日時を聞き出した」

 漁師ならば、確実にそういったことを知っていただろう。だからこそ盛綱は、聞き出しやすような若い漁師を選んで声をかけたのだろうか。

「聞き出して礼を言って……それで終われば良かった。だが、当然盛綱はそれを敵に知られたくはない。それから彼は、それを味方にも知られたくなかった」

「何でだ? 味方なんだろ?」

「武勲のためだ。自分の手柄とするためだ」

 それはつまり味方すらも欺き、自分だけがその突破口を知ったのか。

「さて、ではその浅瀬のことを隠したい盛綱はどうしたか」

「まさか……殺した?」

「そうだ。殺したんだ、その漁師を。殺して、そして沈めた」

 蒼雪はその「殺した」という事実を何でもないことのように口にする。それにしても急にどうしてこんな話になったのか。困惑したまま実鷹が侑里を見れば、彼は笑って雲行きを見守っているようだった。

「引かれて行く波の浮きぬ沈みぬ埋木の岩の――当然それを、誰も知らない。漁師が殺されたことすらも」

 殺され、沈められ。誰もそれを知らないまま、盛綱は手柄を上げた。

「その漁師の母親以外には、誰も」

 息子がいつまでも帰ってこないとなれば、母は察するものがあるだろう。まして武士が漁師以外は知らないはずの浅瀬を馬で渡って勝利したと聞けば、我が子に何が起きたのか想像するのは難くない。

「何もかもすべて隠してしまえば赦される、そんなわけがない。けれど【猿】はひたすらその事実を隠すために、【ななつめ】を知った人間を消しているようにも思う」

 七不思議には、何が隠されているのか。【猿】は【少女】に何をした。踊らせ、囃し立てて、そして、【猿】は――。

 そうして隠せば、なかったことになるのだろうか。その罪は、決してなくなりはしないのに。殺されてしまったものが、生き返るはずもないのに。

「佐々木盛綱は所領として備前国児島を賜ったと先ほど言ったと思うが、能楽の『藤戸』はその国に盛綱が意気揚々と足を踏み入れるところから始まる。そして盛綱は言うんだ、訴訟のある者は前に出よ、と」

 誰も、何も知らないと。盛綱はそう思っていたのだろうか。

「そうして進み出て来た者が、盛綱に殺された漁師の母だった。母はさめざめと泣きながら盛綱の前に立ち、我が子を海に沈められた恨みを述べる。ただこの母は、恨みを呑み込もうとはしているんだ。仕方のないことだったとして」

「仕方のないこと……」

「当時、身分の高い者に身分の低い者が殺されたとしても、権力者には逆らえない、母は我が子は前世の報いを受けたのだと、有り得ない理由を付けて自分を納得させるしかない」

 母は、どんな思いでいたのだろうか。仕方のないことだと、そうしてともすれば恨みそうになる自分自身を留まらせていたのだろうか。

 けれどそんなもので、納得ができるはずもない。実鷹とて兄がいなくなったことを、自分のせいにして呑み込もうとした。けれど結局呑み込みきれないまま、納得しきれないままだったこともまた事実。

「それでも余りに無常ではないかと、罪科などないのにと、呑み込み切れなかった恨み言を母は述べる」

 それでも実鷹は、誰かを恨みたくはなかった。自分のせいだと自分を責めれば、誰かを恨むことを考えられないでいた。

 恨めば、恨むべき相手と同じになってしまうかもしれない。だから、と。

「海士の刈る藻にすむ蟲のわれからと。音こそ泣かめ世をば恨みじ――この歌にすべて詰まっていると思わないか。人を恨まないようにしようと、そう言うのだから」

 世を恨んだのか。盛綱を恨むのではなく、戦のあった世の中そのものを恨んだのか。

「盛綱は最初、まったく知らないと突っぱねるんだ。それでも母は藤戸の海の道を教えて命を取られてしまったのは、まさしく私の子であると告げる。人は知らないと思っているのかと、まだ隠すつもりかと」

 若い漁師が天涯孤独の身の上であったのならば、誰も知らないままに終わったのかもしれない。けれど、必ず誰かは気付くのだろう。人間を一人殺してそれを隠しきるなど、到底できるはずもない。

「悪事とはいつか人の口の端に上る。それが良心の呵責であるのか、知ってしまった誰かによるものか、そんなものは知らないが」

 月波見学園には七不思議がある。一色栄永が何を思って『七怪談の事件ノート』を書いたのかは分からない。けれどあれがもしも、【ななつめ】を知ってしまった一色栄永による告発だったのだとすれば。

 表立っての告発はできない。そんなことをすれば、自分自身も【猿】に消されてしまう。だからこそ一色栄永は、七怪談として事実をそこに埋め込んだのか。

「この母は何も、盛綱を責め立てようというわけではない。悲しみは深く残り、来世になろうと来々世になろうと執着の根となり苦しみの海に沈んでしまう。だからせめて沈めてしまった我が子を弔ってくれと、母の願いはそれだけだ」

 何もなかったことになってしまえば、死すらも確定しない。だからこそ母は盛綱にその死を認めさせたかったのだろうか。

 実鷹の兄も、今だ生と死の境にいる。死が確定しないまま、誰もその死を確定させないまま、九年が過ぎた。

「諦めと、当時の当たり前と。盛綱自身にはそもそも、この母は何かできるはずもない、お前も殺してやるなど、そんなことはできない」

 もしもそれができたのなら、母はそうしたのだろうか。刺し違えてでも、盛綱を殺そうとしたのだろうか。

 けれど、そんなことはできはしない。年若い漁師と言っても、その母はそれなりの年齢だろう。しかも女性となれば、武士である盛綱に襲い掛かったところで自分が殺される。

「仇討ちというものは確かに認められていたかもしれないが、これは武士の血族意識によるものでしかない。平民がやれ仇討ちだなんだとできるわけではなく、まして尊属、つまり両親や兄姉が殺された場合のみしか適用されない」

 どうにもならない恨みや憎しみを、せめて弔わせてくれという願いで呑み込んだのか。

「卑属、つまり子や弟妹が殺された場合はそもそも認められないものだ。そもそも仇討ちの許可は士族にしか出ないのだからこの母には土台無理な話だな」

 蒼雪は実鷹に言った。仇討ちの資格があるのは、実鷹だけなのだと。それは実鷹が兄を殺されているから、そういうことだろう。

「で、その心は」

「なぞかけをしたつもりはないんだが」

 おどけたように問いかけた侑里に、蒼雪が冷たい視線を向ける。けれど侑里はそんなものどこ吹く風で、八重歯を見せて笑っていた。

 窓の外では雨が降っている。ざあざあと降り続く雨が、窓ガラスを叩いている。

「【七怪談の番人】は、種を蒔いた」

 月波見学園の七不思議においては、【七怪談の番人】と【七不思議の番人】がいる。彼らは七不思議のどこにも出てこないものの、その存在は確かにある。

「俺は【七怪談の番人】こそ、この藤戸の母と同じなのだと、そう思っている」

 そうして種を蒔いたのは、真実が知りたかったからなのだろうか。それはきっと一色栄永ではない、別の誰かだ。ならばその【七怪談の番人】は、今どこにいるのだろう。

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