五
※ ※ ※
雨が降っていた。ざあざあと、雨が降っていた。体育館の少し開いた隙間から見える外は土砂降りで、校舎に続く渡り廊下のコンクリートも完全に色を変えている。そんな中、体育館の中だけはむわりとした熱気に包まれていた。
体育館のステージで、少女は踊る。そんな七不思議の舞台ということもあってか、角柳のことがあったからか、声を潜めてステージに向かって何かを話しているクラスメイトの声は、内容は分からないでも聞こえてくる。
「誰だ無駄口叩いてるのは! 俺の後輩として、しっかりせんか!」
一際大きな井場の声が、びりびりと空気を震わせた。どこかぴりぴりとした空気があるのは、きっと角柳のことで学校全体が落ち着かないからだろう。
「井場先生うるっさ」
「三年生の事件で色々あるんだろ」
今日はいつも以上に声が大きいように思う。あちらこちらをきょろきょろと見て、どうにも井場は落ち着かない様子だ。他にもそういう生徒はいて、空気もやけにざわついている。
「なあ、サネ」
「ユーリ」
こっそりと実鷹に声をかけてきた侑里は、八重歯を見せて悪戯っぽく笑っている。
「井場先生さ、あれですっごい繊細らしいって知ってたか」
「何それ」
繊細というのは、井場の姿からはかけ離れている。豪快で、うるさくて、それこそ体育教師のステレオタイプと言おうか、いつもそういう姿なのだ。
「何かあると胃が痛いって言うし、睡眠導入剤ないと寝れないらしいって、体育教官室の先生に聞いた。あと、よく図書室で本借りて読んでるとか」
確かにそれは繊細な人なのかもしれないが、やはりあの井場にはそぐわない。
「いや、聞いたって……」
「先生たちにしてみたら、俺の機嫌損ねたくないんだって。何せ貴重な特奨生だからな」
あっけらかんと侑里は言うが、それは彼にとって重圧に似ているのではないだろうか。確かに特奨生の制度というのは、優秀な学生を月波見学園がサポートするという名目の上にある。けれど、それはあくまでも名目だ。
本当のところは、合格実績を上げるためだろう。ここは私立、公立ではない。すべては入学希望者の受験料であるとか、入学者の学費や諸費用だとか、そういうもので成り立っている場所だ。そういうことは、高校生にもなれば多くの生徒が気付くだろう。
「ま、あとは伝書鳩効果かねー」
「何を二人でこそこそ喋ってんだよ、俺も入れてくれよ」
侑里と話していた実鷹の頭の上へと、ずしりと重さがかかる。知希の腕が実鷹の頭を肘置きよろしくしていて、実鷹はつい口をへの字に曲げた。
「トモ、重い」
「細かいこと気にするなよ。七不思議さ、笠寺さんも詳しいらしくって。峰館さんと芳治さんには聞けたし、あとは笠寺さんと井場先生に聞いてみる」
体育館の外は雨が降っている。視線を動かせば、静まり返ったステージがあった。あの場所で少女は踊る。猿は彼女を躍らせ、囃し立て、そして見ていた。
「やっぱり面白いし、もうすぐ何か分かりそうだからさ。ノートにも書いたし、またサネにも見せてやるよ」
「トモ、俺には」
「お前にも見せるって。あと、お前の同室の姫烏頭にも」
知希は、何が分かったのだろう。月波見学園男子部の、七不思議。それを調べて、兄はその行方が分からなくなった。
これが呪いでないのならば、兄はどこへいったのだろう。もしも生きているのなら、どこにいるのか。あるいは――死んでいるのならば、どこに。
「でも、もうちょっと待ってくれよ。まだあんま確証ないし、俺頭悪いしさぁ。ユーリみたいに賢けりゃ良かったんだけど」
雨が降っている。
雨が、ずっと降り続いている。熱気も何もかもが体育館の中にはあるのに、外はずっとずっと雨なのだ。
梅雨前線はいつまで、日本列島の上空に居座るのか。低気圧と高気圧のせめぎ合いは、いつまでも終わらないまま。
そして、雨は降り続いた。ようやく雨が小止みになったのは、それから数日後。金曜日のことである。
その日、知希の帰りは遅かった。いや、一度部屋に戻ってはきたのだ。自分の部屋に鞄を置いて、それから「少し調べたいことがある」とやけに硬い表情で言っていた。いつもの晴れやかな笑顔ではない。何かを、呑み込みかねているような。
知希は「これを持っていてくれ」と、実鷹にノートを押し付けていった。思わず受け取ったそれは、知希がいつも持ち歩いているはずのメモ用のノートだ。
そのノートは、そっと自分の鞄に入れた。後で見せてやると言っていたそれを、勝手に見るような真似はしない。
翌日、土曜日になっても知希は帰らなかった。帰らないというその言葉が、実鷹の足をただ突き動かした。兄もまた、帰らなかった。七不思議を調べて、そして兄は――。
「うわっ」
寮から出ようとしたところで、前を見ていなかった。だからそこにいた誰かに気付けずにいた実鷹は、その人にぶつかってしまう。「ごめんなさい」と告げた先、怜悧な容貌がいつもの視線で実鷹を見ている。
「ご、ごめん、姫烏頭」
「問題ない」
寮の入口のところで手の平を上に向けていたらしい蒼雪は、どこかへ行くところだったのだろうか。行くとしても、土曜日の早朝では図書室も開いていないけれど。
「どうかしたのか」
侑里は、いなかった。同室といっても、常に行動を同じくしているわけではない。蒼雪に言っても良いのか分からなかったが、それでも他の誰かに言いにいくという選択肢は実鷹にはなかった。
「あっ、そ、そうだ。トモ……俺の同室の、知希が、昨日からいなくて!」
「いない?」
すっと蒼雪が目を細めた。いつもは探るように見ているその視線が、ほんの少しだけ鋭くなったようにも思う。
「心当たりは」
「ない、けど。外には出れないから……」
「ならば、学内か」
蒼雪は「行くぞ」と、傘も持たずに外へ出た。雨はすっかり小止みになって、時折ぽつぽつと落ちてくるばかりになっている。
どこへ行くのかと思えば、最初に彼が足を向けたのは体育館だった。いつも鍵が開いている体育教官室の扉が、今日はうっすらと開いている。けれどその向こうにはスチールのデスクと生徒と面談する用の机があるばかりで、他には何もない。
そこから、扉一枚隔てた先。体育館も見えていた。けれどその先にある体育館は黒々とした闇があるばかりで、何があるわけでもない。少女が、踊っているわけもない。
「あれに見えたる
体育館に背を向けて、蒼雪が何かを口にした。朗々と響いたそれは、実鷹の知るものではない。けれど腹の底から響くような、そんな声で謡い上げられた。
「佐々木鷲也は、君の血縁者か」
「……兄だ。それが、どうかしたのか」
その名前を、蒼雪は以前も口にしていた。知希がいないのにという焦りからか、実鷹はそれが兄の名前であるとあっさりと認めてしまう。
「いや。もしも君の同室者が失踪したのなら、それで三人目だ」
「三人目?」
「君の兄の前に、もう一人月波見学園で失踪が起きている」
蒼雪は、何を調べていたのだろう。彼は、何を知っているのだろう。蒼雪は何かを知るために、七不思議を調べて否定していた。
「三十五年前の、冬。卒業を間近に控えた
「何で今、そんな話を」
「さあ」
三十五年前と言えば、井場が卒業した時期だろう。確か竹村竣の父親もその同級生で、そして角柳の父は後輩だった。
「俺が月波見学園男子部で起きた不可解な事件を調べていたから、かな」
よどみなくどこかへと向かう蒼雪の歩みは速く、実鷹は小走りになるようにして彼の背中を追いかけた。向かった先は、旧校舎の裏手。雨が降り続くとぬかるんで、泥だらけになる場所だ。
裏庭といえば、【よっつめ】だ。【裏庭にある首括りの木】。卒業生が植えた記念樹が立ち並ぶ中、一体どれが首括りの木であるのかは分からない。
「佐々木」
先んじて裏庭を見た蒼雪が、すっと正面を指し示す。
「あれは、何だ」
何本もある木に、白いものが巻き付いていた。それは季節外れの雪のように木々を覆っていて、少しだけ吹いた風にひらりと揺れる。ぽつぽつと降る雨では、それの動きを遮ることはできないらしかった。
そして――その、向こう。白いものが巻き付けられていない一本の木。そこではなく、その隣だ。白いものがいくつも巻きつけられたその木に、何かがぶら下がっている。
ブルーグレーのスラックス。白いシャツ。だらり、ぶらり、ゆらりと揺れた。それは、紛れもなく人の足。
その顔を見た瞬間に、実鷹は弾かれたように走り出す。けれど腕をぐいと掴まれて、実鷹の足は盛大にたたらを踏んだ。
「トモ! トモ、何で!」
これは間違いなく、【よっつめ】か。彼は帰らなかったのではない。帰れなくなったのだ。
七不思議の【よっつめ】は【裏庭にある首括りの木】。そこには何かが、ぶら下がる。そして今そこにぶら下がっていたのは――首から縄をかけられた、渡瀬知希だった。
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