十三階段ではないと言い切った蒼雪を、実鷹はつい頭のてっぺんから爪先まで見てしまった。どういう意図で言っているのかは分からない。確かにそうであるのならば、ここは七不思議の始まりの場所ではなくなる。

 ちらりと隣を見れば、侑里は笑ってこの状況を見ているようだった。

「そもそも、何故七不思議というものがあるのか。怪異や伝承というものは、何故語り継がねばならなかったのか」

「何でって……そこに、怪異があるから……?」

「そんなものは、後付けだ。本当に伝えたいことを覆い隠して伝えるために、怪異や伝承というものは存在している」

 息苦しくなりそうなほど、閉鎖的な旧校舎の大階段の下。雨の音すら遠いこの場所で、蒼雪の声だけが朗々と響いている。

 まるで、舞台の上にいる人間を見ているかのようだ。そう思えるのは彼の整いすぎた姿勢のせいかもしれないし、その真っ直ぐな声のせいかもしれない。

「ひとつ」

 すっと蒼雪が人差し指を天井へ向けて立てた。そのひとつの所作ですら、彼のそれは完璧なまでに美しい。

「その現象に、当時の人々が理由を付けられなかった」

「あー。あれか。落雷とか」

 侑里の少し考えながらの言葉に、蒼雪は「そうだ」と短く答えた。

「今でこそ科学的に解明されていることは多いが、過去そんなことは誰も知らない。落雷が放電現象であることも、突如空中で炎が燃えるのがリンの自然発火現象であることも、何も」

 空は何故青いのか。海は何故青いのか。雨は、雪は、風は。そういう自然現象の理由が当時の人々は分からなかった。それは物を知らなかったからではない。ただ、誰もが知らなかったのだ。

 今でこそ科学で説明がつくことは多いが、当時は科学というものすら存在しない。ならば彼らは、その説明がつかない現象を、どうしたのか。どのような理由を付けて、その現象に納得したのか。

「だから落雷は雷獣の仕業となったし、突如空中で炎が燃えるのは鬼火の出現となったわけだ」

 理解ができないから、怪異となる。彼らがそう思い込んでいたから、怪異はある。確かに蒼雪の言うことは、一理あると言えるだろう。

 雨の音は、やはり遠い。しんと静まり返って空気すらも息を潜めている中で、実鷹は自分の息遣いの音だけを聞いていた。

「ふたつ」

 蒼雪は、今度は中指の先を天井へと向けた。これで、立てられた指は二本。

「何かしらの危険があり、近寄らせたくなかった」

 立ち入り禁止の看板を見たことがある。『危険だからここで遊ばない』という注意喚起の看板も。どうしてそこは立ち入り禁止なのか、どうしてそこで遊んではいけないのか。

「それは……山とか、川、とか?」

 立ち入り禁止や注意喚起の看板があるのは、決まってそういった場所だ。事故が起きる可能性がある場所だ。山へ入って行方が分からなくなる人は現代でもいるし、水の事故というのは夏場になれば急増する。それは、そこへ行く人間が増えるからだ。

 当時の人間が今よりも信心深かったとすれば、ただ「入るな」と伝えるよりも、怪異の形を取るのが効果的だったのだろう。

「そうだ。山へ入るのならば覚悟は必要だ。川や海も事故がある場所だ。そういった場所に入るのならば、覚悟しろ」

 怪異がそこにある。しかもそれは、人を害するものである。そうしておけば、ある程度の抑止力として働いたということなのか。

 人間の恐怖心とは、生存本能なのだという。人類は進化の過程で感情を獲得し、その感情に基づいて先のことを考えられるようになった。と、そんなことを中等部の理科の授業で聞いた気がする。あれは確か、遺伝の授業の時だったか。

「ただこれはもしもいなくなった場合に、それが怪異の仕業となることでもあるが」

 山へ入って戻らなかった。川へ行って戻らなかった。それはそこにいる神や怪異に捕われてしまったからだ。そうして彼らは、いなくなった人に理由を付けたのか。それを、諦める理由にしたのだろうか。

 そう考えて、はたと自分と同じであることに実鷹は気付く。けれど気付いたその事実に実鷹はそっと蓋をした。

 七不思議の呪いは存在している。実鷹にとっては、そうでなければならないのだ。

「みっつ」

 今度は、薬指。これで、立てられた指は三本。

「何かしら不都合な事実を、隠しておきたいが伝えたい場合」

「それは、どういう……」

 思わず侑里と顔を見合わせた。意味が掴みきれずに困惑する実鷹に、侑里はわざとらしく小さく肩を竦めていた。それは一先ず蒼雪の話を聞こうと、そういう仕草だ。蒼雪は我関せずという様子で、実鷹と侑里を見据えて口を開いた。

「例えば、蜘蛛というのは『朱を知る虫』と書く。朱とは水銀。水銀というのは当時は財宝に等しいものだ。それがあるだけで、大和朝廷に従う必要がなくなるほどの」

 突然、規模の大きな話になってしまった。けれど確かに、考えてみればその名前に人間らしきものが存在する怪異はある。例えば河童。河童は漢字で書けば、河の童だ。

「だから朝廷は彼らを討伐した――財を、奪い取るために」

 鬼退治。化け物退治。

 そういうものはいくつもある。桃太郎の鬼は、何をしたのだろう。昔読んだ絵本には、悪いことをする鬼としか書いていなかった。そして彼らは、金銀財宝をそこに持っていたとも。もしも――もしもそれが、目的だったのならば。

「本来それは、人の姿をしていたはずだ。彼らはまつろわぬ民、大和朝廷に従わなかった存在だ。けれどそんなもの、そのまま伝えるのは不都合がすぎる。だから伝承の中で、彼らは人ならざるものになって貰ったわけだ」

 あれが鬼でなかったとすれば、桃太郎は人を殺したことになる。絵本においては赤や青といった人間では有り得ない色をして、頭には角を生やして、けれど鬼はその形だけならば人に似ている。

 従わないから討伐した。それは一方的な言い分で、侵略して征服したことと何が違うというのだろう。

「どの道、当時ならば俺たちとて人ではない。殿上人しか『人』とつくものはなく、それ以外は人ではなかった時代のことなのだから」

 その時代のことを実感することはできない。実鷹が生きている今はその上にあれど、その思想までもを引き継いでいるわけではないのだ。その裏側など何も知らないまま、ただ伝わったものが物語として存在しているだけ。

 実際のところは、どうなのだろう。本当にそうした討伐の物語なのか。それともただ後世の人が、勝手にそこに理由をつけただけなのか。

「さて、では七不思議を否定しよう。まずは【雨降りに泣く十三階段】だ」

 雨の音は更に遠くなる。まだ旧校舎の外は雨が降っているはずなのに、この中だけは、それがひどく遠い。

「何故これは、雨の日限定なのか?」

 その階段は鳴き濡れる。ぴちゃりぴちゃりとすすり泣き、きゅうきゅうと泣き喚く。

「泣くのならば、雨の日と限定しなくても良い。けれど、【ひとつめ】はその怪異の名前に既に『雨の日』と入っている」

 ぴちゃりぴちゃりと、雨の音。きゅうきゅうというその音は。それと同じ音を、実鷹は確かに階段で、あるいは廊下で聞いたことがある。それも、雨の日に。

 けれどそれだけで七不思議を否定することはできない。だからなのだろうか、実鷹の口からは蒼雪の言葉に対抗するような言葉が溢れ出てしまう。

「雨の日だけ泣くから、余計に不気味なんだよ」

「素直だな」

 馬鹿にされたとか、そういうわけではない。蒼雪のそれはただの感想で、だから実鷹が不愉快に思うようなことはない。

 けれど、口がへの字に曲がった。額面通りに受け取るなと、そんな風に蒼雪に言われたような気がした。

「そう、雨の日だ」

 今日も、雨が降っている。梅雨入りした日から、竹村竣が死んだあの日から、雨はずっと降り続いている。日本列島の上空に居座った梅雨前線は動く気配は見せず、高気圧と低気圧の勢いは拮抗したまま。

 いつまで日本の上空で、低気圧と高気圧は互いに譲らず争っているのだろう。その争いこそが梅雨前線を停滞させているのに。

「雨の日こそ、階段に近寄らせたくなかった。一歩足を踏み入れれば最後、奈落の底へと落ちていく。これが、七不思議の【ひとつめ】の結末になっている」

 竹村竣は今実鷹の目の前にある大階段から落ちていった。彼は、この階段の下で頭を打って血を流して死んでいた。

 彼は、落ちたのだ。この階段から、奈落の底へ。

「雨降りの階段で、落ちると言えば単純だ。足を滑らせ転んで、真っ逆さまに」

 思い出したのは今日のこと。実鷹は旧校舎へ慌てて行こうとして、階段で足を滑らせて肝を冷やした。体育館へ行く時も、同じように。

 滑って転んで、真っ逆さま。きゅうきゅうと泣くのは、靴の底。

「ただし、それはこの階段ではない。その理由はただひとつ」

 また、蒼雪が階段を昇っていく。数えるかのように、一段ずつを踏みしめて。自然と実鷹の目は彼を追い、彼が階段を昇り切った時、隣で侑里が「あ」と小さく声を上げた。

「この階段」

 蒼雪がいるのは、階段の上。実鷹たちがいるのは、階段の下。上から下へ、竹村竣は落ちていった。

「――段数は、十四段、だ」

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