第2話【始まりの地】 ——古の呪物“黒い布”が眠る伝承の地

昭和二十年代後半――大阪・船場せんば

戦後の混乱が徐々に落ち着きを見せ、焼け跡に新しい建物が立ち始めていた頃。 街のあちこちに煤けた壁と土埃つちぼこりの匂いがまだ残っていたが、人々の暮らしには確かに活気が戻りつつあった。


洪野太一(こうの・たいち)はその船場の一角にある老舗繊維商社で、化学合成繊維の開発部門に所属していた。 白衣の内ポケットには、いつも数本の鉛筆と小さなメモ帳。 手には染料や試験片の染みがついたままの万年筆。

研究職にある者として、彼は誠実だった。

だが、誠実さと成果は必ずしも一致しない。


ライバル企業が次々と新素材を発表する中、太一たちのチームはここ一年、目立った進展を出せていなかった。


焦りと重圧。家には三人の子ども。

高校生の長男、中学生の長女、末っ子の次男はまだ小学校にあがったばかりだった。

妻は内職で家計を支えてくれていたが、夕食の量や質が以前と微妙に変わってきていることに、太一は気づかないふりをしていた。


そんな中、彼はある日ふと思い立ち、休日に図書館へ通い始めた。 きっかけは社内の雑談だった。

とある年配社員が「昔の素材には不思議な力があったらしい」などと笑いながら言った一言が、太一の頭に引っかかったのだ。


白衣を脱ぎ、民間伝承にすがるなど……技術者としての誇りがどこかできしんだ。

だが、太一はなりふりを構っていられなかった。 ——常識で駄目なら、非常識に委ねてみてもいい。


彼は民俗学や郷土史、旧制中学時代の地理教科書までを読み漁り、日が暮れるまで図書館の片隅に居座った。


そんなある夜、古い民俗資料集の中に「一反木綿いったんもめん」という存在が紹介されていた。

白い布が空を飛び、人に巻き付き、絞め殺す。 一見すれば戯画的ぎがてき妖怪譚ようかいたん

だが、その語源や出現地域の記録を丹念にたどっていくと、妙に具体的で現実味を帯びた記述に変わっていった。


特に鹿児島県の大隅地域には、一反木綿いったんもめんに関する詳細な口承が多く、地元では長く「山神の布」として畏怖されていたことがわかった。


太一は大隅出身の同僚にも話を聞いた。


「昔ね、あの山の近くに近づいたらアカンって言われとったそうですよ。藪に巻かれて戻られへんって」


その山は今、戦前のダム建設計画で立ち退きが進んだ地域にあるという。 結局戦争で工事は中止され、村もそのまま廃墟になった。 太一は唾を飲んだ。 ——行く価値があるかもしれん。


ちょうど鹿児島支社への出張命令が社内で下された。 原料供給先の設備視察と、地方メーカーとの提携交渉。 本来なら開発部の仕事ではないが、太一の技術的知見が役立つという理由で同行が決まった。 それは偶然にしては、あまりに出来すぎていた。


——業務の合間に、現地を確かめてみよう。


 * * *


———— 七月下旬、鹿児島県大隅地域。 出張の全業務を終えた太一は、支社の車を借り、山道を進んでいった。

けたたましくせみが鳴く道中、朽ちた標識と倒れた石段の先に、それはあった。


数十戸の集落。人の気配はない。

ダムの建設で立ち退いた後とは言え、「捨てられた村」という印象だった。

鍵もかかっていない民家を何軒か回ってみたのちに、村の片隅の小高い丘の上に鳥居を見つけた。


山を背に建っている古びた神社。


蝉の声があれほどうるさかったのに、鳥居の前に立った瞬間、音がすっと引いたように感じた。 そして、空気の粘度が増したような、じっとりとした湿気が喉に張りついた。


鳥居は少し斜めに傾いていた。拝殿の屋根は一部が剥がれて空が見えていた。 やはり人の気配はない。 だが、空気には奇妙な重みがあった。

長時間歩きまわって太一の額や背中にはじっとりと汗が染み出ていた。 足音を殺すようにして、社の奥へと足を踏み入れる。

拝殿はいでんの奥、かつて祭具を納めていたであろう部屋に、それはあった。


——箱。


衣装ケースほどの大きさ。かなり古びた木製。 表面には独特の朱色の線が描かれ、中央にはひどく錆びた南京錠が取り付けられていた。

南京錠の鍵はかかっていたが、少し触っているとボロボロと崩れ落ちた。 箱は長期間閉められていたようで、太一が力を込めると「ベリベリ」と音を立ててようやく開いた。


内部には、幅30cmほどの古びた白い反物と、相反する漆黒の反物、そしてそれらの切れ端、数冊の古文書。

古文書は何とか原型をとどめていたが、文字は古く、かすれていた為、太一には読めなかった。 断片的に「たたり」「のろい」「わざわい」「けがれ」「ふう」など物騒な文字が見えた。


次に反物に目を移す。 白と黒。 ところどころ腐食しているが、どちらも存在感がある。 だが、黒の方が白と比べ格段に禍々まがまがしい雰囲気を感じる。

まずは白の方を手に取る。 経年でかなり繊維が固くなっている。しかし、手触りは悪くない。


太一がいる場所は捨てられた村の一角、神社の奥の部屋。 その雰囲気だけでも押しつぶされそうな重い空気の中、太一はふと、何か尋常ではない、何かに触れ、そして見られている気がした。

次に、漆黒の布の方に目をやる。 白い布よりも重い。明らかに。 しかしその感触は妙に冷たく、指先から体温を吸い取るような感覚すらあった。


「……これは……」


繊維素材の研究者である太一は明らかな違和感を感じた。

白い布と比べ、状態が良い。表面は絹のような滑らかさだった。

箱は南京錠が朽ち果てるほど長い期間放置されていたのは明白だった。それにも関わらず劣化があまり感じられない。


(——普通やったら繊維構造が壊れてボロボロになるのにな)


太一は反物の切れ端を手に取り、再度表面をなぞり、引っ張ったりしてみた。 ひんやりとした感触。

試しに腕に軽く結んで巻き付けたままにしておく。 夏の茹だるような暑さもあったが、どうしてそうしたのかは分からない。

黒い布がそうするように命令したように感じた。


ゴムのように少し伸び縮みして少し締め付けがあった。

古い布なのに肌によく馴染み、素材の冷感が身体の汗を抑え込んでくれるようで快適だった。


黒い布を腕に巻いたまま、再度古文書を手に取り、慎重にページをめくる。


(専門の古文研究所に見てもらえば内容が分かるかもしれないな)


他に何か手がかりがないか、社の中をくまなく探してみる。 九州の夏は特に暑く、太一はすでに汗だくになっていた。 肘の下あたりに巻き付けた黒い布は、徐々に締め付けを強めてくる。


「えっ!?なんやこれ…!?」


そのうちに腕を食い千切ろうとしているかのような締め付けが起こる。 血の巡りが止まり、手先が痺れ始めた。


「なんて力や……」


これが伝承の妖怪、一反木綿いったんもめんなのか……分からない。 しかし伝承では白い布だったはず。こっちは黒い。


「なんなんやこの布は…!?」


黒い布が少しずつ、まるで水が砂に染みこむように、皮膚へと沈み込んでいくような感覚があった。

結び目も硬直していて外せなかった。

太一は何とか手首側にずらし、黒い布を外すことができた。


耳をつんざくような心臓の鼓動音こどうおん。 肩で息をする太一。


(手首に巻き付けてたら大変なことになってたかもな……)


呼吸を整えながらも、太一の目には確かな輝きがあった。


「……これを応用すれば……何かできるんちゃうか…」


不可思議な布に身の危険を感じながらも、太一は研究者としての好奇心が心を駆り立てられていた。

それでも、太一は落ち着きを取り戻すまでずいぶん時間がかかった。


古い箱に入っていた黒い方の布と、白い布、古文書を大阪に持ち帰り、研究材料とすることにした。

廃村の神社とは言え立派な窃盗。 そして神社の本殿に“封印”されていた呪物のようなこの黒い布と古文書を持ち出したことで、必ず罰が当たるだろう。


“それ”が『封じられていた』という事実だけで、普通なら手を引くべきだった。

だが太一は予感していた。この手触り、この締め付け、この異常な保存状態……


——これは、“生きている”のでは…?


科学では説明できないものを、科学の名で扱う。

それは危うい思想だと自覚しながらも、太一は足早に神社を後にした。

その布が“封印”されていた理由を、彼はまだ知らない。


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