第2話

電車を二本乗り継ぎ、裏路地を一本抜け、彼の妹に送った三件の既読無視メッセージを越えて──ようやく、その店に辿り着いた。


看板はなかった。

ただ、錆びた鉄の扉が、シャッターの閉まった電子タバコ店と、開いているのか怪しい「ピッキングツールとタロット専門店」の間に挟まっていた。

知っている者しか見つけられない、そんな入口だった。


私は一度だけノックした。

扉は、まるで邪魔されることを怒っているかのように、ブザーを鳴らした。

そして、自動的に開いた。


中の空気は肌にまとわりつくほど重く、香の匂いが満ちていた。

古木、鉄錆、そして──なぜか甘い匂い。

焦げた砂糖のような、熟れすぎた肉のような、そんな匂い。


部屋は、外観よりもずっと広く感じた。

壁を囲むように積まれた棚には、赤い布で包まれた品々がずらりと並んでいる。

人形、カメラ、瓶。

歯が詰まった瓶、血に濡れたような折り鶴が詰め込まれた瓶もあった。


割れたピンク色の陶器の茶碗が、ベルベットの座布団の上に丁寧に置かれていた。

刃に名前が刻まれ、未だに乾いた血が付いたナイフも。


すべてが、かつて誰かに属していたもの。

すべてが、牙を持っていた。


カウンターの向こうに座っていた老婆は、まるで何十年もそこにいたかのように見えた。

茶色くしわだらけの肌。

濁ったガラスのような瞳は白く霞み、どこを見ているのかすらわからない。

手首には、祈祷用の数珠が巻かれていた。

彼女の声は、石と石がすれ合うような音だった。


「追放じゃないわね」

老婆は私を見ずに呟いた。

「封じに来たんでしょう」


その言葉が、背筋をぞわりと這った。


口を開きかけた。

なぜわかるのかを問いたかった。でも──声が出なかった。


私は、ただ頷いた。


彼女はようやく私を見た。

濁った瞳の奥に、こちらを見透かす何かがあった。


「形はもう、決めてるんでしょう?」

問いというより、確認。


私は答えず、ただ見つめ返した。

彼女は引き出しから、黄ばんだ紙と、学校のテストで使うようなシャーペンを取り出して差し出した。


「描きなさい」


手が震えた。


細部は描かなかった。

輪郭だけ。

カーブ。

印。

台座。


自分の顔よりもよく知っている形。


老婆は一瞥したが、まったく動じなかった。


「肉体の縛りね」

紙を裏返しながら呟いた。

「利己的な契約」


「違う」私は小さく言った。

「必死なだけよ」


彼女は黙ったまま、紙を持って奥の帳の向こうに消えた。

その帳の裾には、見たこともない渦のような印が刺繍されていた。


私は待った。


店内の静寂は、ただの「無」ではなかった。

それは見ていた。

この場にあるすべてが、私の願いと執念を知っているような気がした。


ガラスケースに手を置いて歩いた。

中には数珠が絡まり、その珠の間には、誰かの髪が編み込まれていた。


この場所には、力があった。

古く、淀んでいて、重い力が。


やがて、老婆が戻ってきた。

両手に小さな木箱を持っていた。


表面は焦げたように黒く、光の加減で文字が浮かぶ。

読めそうで読めない、何かの文字。


箱を目の前に置いて、開けた。


黒い絹に包まれていたのは──器だった。


ひんやりとした金属。無傷で、継ぎ目もない。

台座には、小さすぎて肉眼では読めないほどの漢字が彫られていた。


永遠えいえん


喉が渇いた。


私は皺だらけの紙幣を差し出した。

老婆は数えず、それを石板の下にしまった。

その石板にも、見たことのない印が刻まれていた。


「三番目の月が昇る前に行いなさい」

彼女は背を向けかけた私に告げた。

「それを過ぎたら──もう、彼には届かなくなる」


私は立ち止まった。振り返った。


老婆はそれ以上、何も言わなかった。

けれど、それで十分だった。


その夜、私は自室の床に儀式の円を描いた。


手に持ったチョークはやけに柔らかく感じられた。

この願いに、折れてしまいそうなほど。


円をゆっくり、慎重に描いた。

周囲に塩。

黒い蝋燭を四本。

彼の古いパーカーからほどいた、骨のような色の糸を一本。


図面は、古いフォーラムで見つけた画像だった。

ぼやけたスキャン画像。

滲んだ呪符、重なり合う円。

書かれた文は、文法すら崩れたような古い漢字で書かれていた。


解読に一時間はかかった。


その中でも、特に印象に残った一節を、私は円の縁に丁寧に書き写した。


こころ感覚きおく記憶のこす。

うつわは、両者ふたり知られしものでなければならぬ。

いかりみずからの意志おもいにて選ばれしもの。

は、新しければ新しきほど、良し。



私は親指の横を噛んで、血を滲ませた。

その痛みは、正しいと思えた。


血を、印に塗った。

そして、台座に。

最後に、まだ冷たい自分の腹に──器が納まるであろう場所に、そっとなぞるように。


あのベルベットの袋が隣に置かれていた。

私はそれを開けた。


最初に届いたのは、匂いだった。

鉄、香、そして焼け跡のような虚無。


「ごめんね」私は囁いた。


彼が京都の市場で買ってくれた、妖精の武器みたいだと笑った抹茶用の小さな匙で、丁寧に灰をすくった。

一粒も、こぼさなかった。


私は器を封じた。

カチッという音は、まるで鼓動が止まる瞬間のようだった。


待った。


しばらく、何も起きなかった。


一分。


二分。


五分。


蝋燭が揺れた。


十。


まだ、何も。


腕がだるくなり、息が詰まりそうになった。


間違えたのか?

符を読み違えた?

遅すぎた?


彼はもう──


その時、蝋燭がふっと消えた。


煙が、手のように伸びて私の頬に触れた。


そして、声が。


耳ではなく──

部屋の中でもない。

私の中。


深く、深く──


「ほんとにやったんだな」


私は器を落としかけ、慌てて両手で抱きしめた。

心臓が、戦鼓のように鳴っていた。


「他に方法なかったんかよ……よりによって、アナルプラグかよ、綾香」


私は笑った。

そして泣いた。


床に崩れ落ち、愚かで、美しいこの器を抱きしめながら。


「……戻ってきてくれたんだね」


「まあな。俺の全部ってわけじゃないだろうけど。……とりあえず、内側からこんにちは」

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