第1話
世界の終わりは、きっと静かに訪れるものだと思っていた。
爆発でもなく、ただ読み飛ばしたままのメッセージひとつで。
叫び声ではなく、出そびれたコール音で。
あの電話が来たとき、私はカップ麺の味で悩んでいた。
どの味なら、カイトに一番怒られずに済むか。
彼は朝ご飯を抜くと怒った。「血糖値に悪い」って、医者でもないのに。
たこ焼きを一度に十二個食べて、口の中を火傷した人が言うことかって思ってた。
私はえび味を選んだ。ピンクのやつ。
彼が好きだった、私のネイルの色。
ケトルが鳴った時には、もう彼はいなかった。
それでも私はお湯を注いだ。蓋を剥がし、立ち上る湯気を眺めた。
手だけが勝手に動いていた。
彼が知らないまま、私が最初にしたことだった。
バイク事故。
ノーヘル。
即死。
電話口の女性はそう言った。冷たく、事務的に。
まるで、私を唯一「棘の塊」と思わずに抱きしめてくれた人のことじゃないみたいに。
私は泣かなかった。叫びもしなかった。
ただ、冷めていくカップ麺を両手で抱えて、座っていた。
葬式は、白い菊と空っぽな慰めの言葉ばかりで霞んでいた。
彼の母は、目を赤くしながら私を抱きしめ、自分を責めていた。
妹は「いつも飛ばしすぎだった」と言った。
誰も、私に「遺体を見るか」とは聞かなかった。
私は見なかった。
見てしまえば、現実になってしまうから。
火葬は朝だった。
「家族だけ」だと聞かされ、私は呼ばれなかった。
でも、彼は私の家族だった。
どうして、誰もそれをわかってくれなかったの?
私は火葬場の外で待った。
錆びたベンチに座って、まるで迷い込んだ幽霊のように。
彼の焼ける匂いが、風に混じって漂ってきた。
火葬が終わったあと、
私は名前を呼ばれたわけでもないのに、ふらりと立ち上がった。
白い布のかかった台の上に、それは置かれていた。
信じられないほど、小さい骨壺。
それが彼のすべてだった。
僧侶は私を見もせず、それを業務用の包みのように差し出した。
書類にサインをするような手つきで、「どうぞ」とも言わず。
私は受け取った。
それだけだった。
彼は、まるで発送ミスされた荷物みたいに、
この世から押し出されていた。
でも、終わったはずがなかった。
私の中では、何も終わってなんかいなかった。
私がもらったのは、ほんの一握りの灰。
神社の御守りみたいに、「はい、これで死者を偲んでください」とでも言うように。
私はその灰を小さなガラス瓶に移し、
かつて誕生石のペンダントを入れていたベルベットの袋にしまった。
……侮辱みたいだった。
彼は温かくて、うるさくて、わがままで、ぐちゃぐちゃだったのに。
今や、引き出しの中の灰。
彼は、終わってなどいなかった。
けれど、その骨壺は彼の“終わり”として扱われていた。
そのとき、胸の奥で何かが凍った。
まるで、彼が「存在」から「物体」に変えられてしまったようで。
それでも私は、日常を保とうとした。
彼の好きだった味噌汁を作った。
豆腐を多めにして、彼が「見た目が悪いから」と文句を言いながらも捨てさせなかった、くたびれた青ねぎもちゃんと入れて。
でも、一口食べた瞬間に思った。
——灰の味がする。
世界から味も音も色も消えて、残ったのは、引き出しの中の灰だけだった。
最近は、何を食べてもそうだった。
彼の温もりが消えていく代わりに、世界が灰色になっていった。
テレビも見なくなった。
どの番組も、他人の笑い声がうるさくてたまらなかった。
CMの明るさは、私を置いてけぼりにする。
夢は、日に日に酷くなった。
ある夜、ベッドの隣に誰かが寝転ぶ感覚がした。
重さも、熱も、脚を絡める仕草も、全部——彼だった。
でも、振り向いても誰もいなかった。
ただ、焦げた布の匂いだけがそこに残っていた。
彼の存在が、確かにあった。
でも、それが少しずつ薄れていく。
それが、何よりも恐ろしかった。
だから私は、探し始めた。
癒しじゃない。
慰めじゃない。
ただ、もう一度彼に触れられる何かを。
ただの記念品。
期限切れのクーポンや古いレシートと一緒にしまわれた存在。
私は外に出るのをやめた。
食べ物に味なんて感じなかった。
私たちの古いチャットを何度も読み返した。アニメのTier表とか、おにぎりのどの味が一番凶器になりそうかってくだらない話。
友達からの連絡は、一週間で途絶えた。
彼の妹も、数回メッセージをくれたが、やがてそれも終わった。
私は日付を気にするのをやめた。
日々が、ぐしゃぐしゃな折り紙みたいに重なっていった。
部屋のすべてが、彼を感じさせた。
浴室には彼の整髪料の匂いが残り、
ベッドはまだ彼の形を保っていた。
最初に寝なくなったのは、そこだった。
そして、完全に眠ることをやめた。
それでも、一つだけ続いたことがある。
彼の夢を見始めたのだ。
最初は曖昧だった。
夢の中の影、整髪料の匂い。
やがて声が聞こえるようになった。
ぼんやりと、遠くから。
それから――はっきりと。
「アヤ」
彼が生きていた頃、そんな呼び方をしたことはなかった。
いつも「バカ」とか「姫」とか「牛乳を瓶ごと飲むな」だった。
でもその「アヤ」という響きが、骨の奥まで震わせた。
「なんで燃やしたんだよ?」
私は息が詰まって、目を覚ました。
それから三日後、私は儀式を見つけた。
別に、探していたわけじゃない。
でも、まだ生きているような古い掲示板が集まる、インターネットの隅に辿り着いた。
スレッドの中には、こんな問いが並んでいた。
「遺灰が無事なら、魂は戻せる?」
「魂が堕ちるのは、どれくらいの縛りから?」
「…変わった器を使ったことある人いる?」
どれも狂っていた。
でも、ひとつだけ心に刺さった投稿があった。
「魂に神社は要らない。
ただ、その体が知っていたもの。
触れたもの。
入っていたもの。」
さらにスクロールすると、
手描きの図が貼られていた。焦げ跡のある紙に、インクとも血ともつかぬ液体で描かれた呪式。
根のようにうねる文字列。滲んだ墨に混じって、どこかの漢文のような、意図的に崩された仮名のような。
意味は…何とか読めた気がする。
「魂は感覚を記憶す。
器は、両者に知られしものでなければならぬ。
錨は自らの意志にて選ばれしもの。
血は、新しければ新しきほど、良し。」
たぶん、そう書かれていた。
でも、確信はない。
その下には、赤い文字でこう書かれていた。
「身体が彼を留められぬなら、器がそうすべき。
器が“お前自身”であるなら、彼は決して離れない。」
その夜、私は眠れなかった。
引き出しを開け、
ベルベットの袋を取り出し、
掌に乗せる。
重くはなかった。
でも、確かに「そこに」いた。
翌朝、私は電車に乗って都心へ向かった。
仕事でも、買い物でもない。
探すものは、もう決まっていた。
器。
彼を決して、離さないもの。
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