12

 姉ちゃんは俺に言ってた。

 パリにはまだ戻られへん。俺ともまだ一緒にはおられへんって。ジャンヌが生きてるから、ジャンヌと一緒に迎えに来るって。

 めちゃくちゃ悔しかった。

 分かってんねんで。姉ちゃんにケンカで勝った事なんてあれへんもん。いっつもボコられるし、泣かされるもん。

 けど、今回ばっかりは姉ちゃんとパリに戻れると思ったんや。

 せやのに、引っぱたかれるわ、ダンテを連れて行こうとするわ、良い事なしや。ホンマにピュタンなアンサロあばずれ女やで。誰がサルテや。

 俺は支部長室でこれでもかと尋問されながら、ほっぺたを冷やしながら座ってた。

 ダンテがそばでパソコンにメモを取ってる、カタカタって音さえ鬱陶しい。けど話せん事にはどうにも出来ひんやん。俺かてそこまでアホちゃう。

 支部長は書類を眺めながら、こっちを見た。

「つまり、妹さんがまだ生きているから、一緒にフランスには戻れないって言われたんだな?」

「なんべん言わすんや。俺、一人になりたいんやけど」

「それは出来ない。ゆりちゃんを今回の件で完全に巻き込んでしまったし、帰す事も出来ない。当分は支部で寝泊まりしてもらう。学校もしばらくは行かせてあげられない」

 ダンテが少し寂しそうな顔をしながら、黙って手だけを動かす。

「俺はともかく、ゆりは無関係やろ?」

「ルノ、ご家族の二の舞のような事をゆりちゃんにはさせられないだろう? 冷静になりなさい」

「せやから一人にしてくれって言うてるやろ? タバコ吸わせろや」

「お前、まだ未成年だろう? ダメだ」

 ダンテが手を止めて、顔を上げた。

「ジェームス、休憩にしよ? 屋上はあかんの?」

 自分のがよっぽどエライ目にあった筈やのに、ダンテはホンマにええ奴や。俺はダンテの声にすごい助けられた気がした。

「仕方がないな。分かった。ダンテは外出禁止。ゆりちゃんと部屋にいなさい」

 支部長はそう言うと、俺の前にどっかのバーのロゴが入ったマッチを置いて立ち上がった。

「いいか、絶対カメラのある所では吸うなよ」

 なんだかんだ言うて、この人も優しいな。

 俺は分かったと答えると、そのマッチをポケットに入れて支部長室を出た。

 エレベーターのある方へ、真っ直ぐ廊下を歩いた。エレベーターの前の食堂でゆりがヴィヴィアンと話してるのが見えた。楽しそうにしてるけど、今はゆりと普通に話せる気がせん。無視して、上のボタンを押して、両手をポケットに突っ込んだ。

 右手に当たる柔らかいタバコの箱を握りしめて、ため息をつく。

 なんでこんな事になるんやろ?

 俺はただ姉ちゃんとパリに帰りたいだけやのに。ジャメルと一緒に、またパリで暴れたい。好きなだけタバコ吸って、毎晩酔っぱらって、ポリ公から逃げる騒がしい毎日を過ごしたい。この際、姉ちゃんのパンツを洗濯するのが日課でもいい。

 ドアの開いたエレベーターに乗り込んで、俺は屋上のボタンを押した。カードキーをパネルに押し当てて、深呼吸する。

 iPhoneは調べるからって、ダンテに渡したし、今一番会いたいジャメルにも連絡出来ひん。ちょっとでええねん。アイツのフランス語の声が聴けたらどんなにええやろ?

 俺はエレベ-タ-を降りて、やかましい大阪の空気を吸い込んだ。パリの街とは違って湿気った、ぬるい風が嫌や。

 監視カメラの位置をチェックして、俺はヘップの観覧車がよく見える方に歩く。ポケットからタバコの箱を出すと、一本引き出して咥える。古そうな手すりにもたれて、俺はマッチを擦った。硝煙の匂いを感じながら、タバコに火をつける。

 フランスと違って電気で、どこもかしこも眩しい。この眩しさに慣れてきてる自分にも嫌気がさすわ。ゴロワーズが恋しい。ないよりはよっぽどマシやけど、マルボロは好みちゃう。

 誰もいてへん屋上で、俺は空に向かって煙を吐き出した。

 ああ、ハシシが欲しい。

 ここじゃそう簡単には手に入らんみたいや。ジャメル、こっちじゃ密売は難しそうやで。なあ、また一緒に朝まで飲み明かそうや。

 明るすぎて星も見えん、梅田の空を眺めてたら、シャンゼリゼの淡い光りがめちゃくちゃ恋しくなった。乾いたあの空気が、くっさいセーヌ川が、ゴミだらけの道が恋しい。ジャメルと立ってたルーブルの裏路地で、またゴロワーズを吸いたい。美味しいワインで

酔っぱらいたい。

 ジャメルは今頃、一人で街角でハシシを売ってるんやろか?

 ぼんやりしてたら、肩を叩かれた。

 タバコを口から放して、右手でつまんで振り向くとヴィヴィアンが立ってた。

「どうしたん? 大丈夫?」

 あえてフランス語でそう声をかけてくれたんやろけど、下手やなって思う。それでもヴィヴィアンのフランス語を聞いてると、ちょっと落ち着く。

 ヴィヴィアンはフランス語がそこまで上手ちゃう。あんまりペラペラしゃべってまうと、もっかいって言われるし、なんでか知らんけど、男の言葉混じりでしゃべる。

 俺は日本語で、なんでもないって答えると、タバコを咥えた。

 ヴィヴィアンが俺に青い箱をそっと差し出す。大好きなゴロワーズや。

「ええん?」

「ダーリン達には内緒やで? 今日だけな」

 そう言うて、ヴィヴィアンはにこっと笑うと、隣りにもたれかかる。手すりがぎしって音を立てた。

 俺はゴロワーズのパッケージを開けると、懐かしいその匂いを思いっきり吸い込んだ。これこれ、日本のタバコとは違う、このなんとも言えん匂いがほしかってん。

 ヴィヴィアンが笑う。

「一本貰っていい? うち、そのタバコは吸った事ないねん」

「ヴィヴィアンって吸わんのちゃうん?」

「昔は一日一箱は吸ってたんよ」

 よぅやめられたなと思いながら、俺は箱をヴィヴィアンに向ける。今吸ってたタバコを靴の裏で消して、携帯灰皿に入れる。

 一本引っ張り出したヴィヴィアンは少し不思議そうに匂いを嗅ぐ。

「変わったタバコやな」

 俺はその変わってんのが好きなんやと言いながら、一本出して咥えた。ポケットからフランス土産のガスライターを出すと、ヴィヴィアンの方に差し出した。

「お、気が利くやん」

 ヴィヴィアンはそう笑いながら、タバコをふかす。流れてくる懐かしい匂いを嗅ぎながら、俺は自分のにも火をつけた。

「ホームシック?」

「もうずっとやわ」

 俺はそう答えた。

 ヴィヴィアンは笑いながら、こっちを見る。

「ええ子ちゃんやってんのって、疲れるよな」

「何言うてんの?」

「うち、これでも結構我慢してるんやで。ダンテもいてるし、ずっと禁煙してダーリンが帰って来んくっても家でちゃんと待ってるんよ」

「吸ったらええやん」

 俺はヴィヴィアンを見つめた。

「ダーリンからの結婚の条件が禁煙やったんよ。それに、うちかてホンマは人なんか殺しとぅないもん。けど、仕事辞めたら辞めたで、ダンテとダーリンが心配でしゃーないねん。おもろいやろ?」

「ヴィヴィアンがプロポーズしたん?」

「せやで。あの人、優しいから結婚せんって言ってたのにしてくれたわ。これでもかってくらい甘やかしてくれるし」

 ヴィヴィアンはにこっと微笑んで、俺を見る。

「うちもダーリンもダンテも、親がいてへんから、ちょっとはルノの気持ちも分かるよ」

 ヴィヴィアンが吐き出したゴロワーズの煙が風に乗って、流れていく。

「意地はってな、折れてまいそうになるよな。うちもきっと、ダーリンがいてへんかったらぽっきりいってもて、身投げしてた」

「ヴィヴィアンが?」

「人を殺せば、誰だってつらいもんやで。慣れる事なんて絶対あれへん。うちが工作員辞めたのは、もう嫌やったからや」

 俺は灰を落としながら、ヴィヴィアンの言葉を聞きながら目を閉じた。優しい声が笑う。

「それこそ、うちなんか男とっかえひっかえしてたのに、よぅ結婚してもらえたなぁって思うもん。今でもこんなうちでいいんかなって思うし、ダンテには聞かせたくない。そもそもこんなんで、人の親なんてやってていいんかって思うよ」

「そんなん、俺もっとめちゃくちゃやってたで」

「いやいや、ルノと多分大して変わらんよ。だって悪さしすぎて、スカウトされたんやもん」

「なにそれ? ヴィヴィアンが?」

 俺は隣りを見た。

 ヴィヴィアンは笑った。

「信じられへんやろ? これでもうち、施設を逃げ出して暴走族やってたんよ。いつ死んだっていいって思ってたから、シンナーかてやったし、飲んだくれてめちゃくちゃやった。いつもなんやかんや言うて、ダーリンに助けてもらってばっかりやった。工作員してた時も、怖くなんかなくって、めちゃくちゃやったよ」

 俺はびっくりして、ヴィヴィアンの楽しそうな横顔を見つめた。

 今のヴィヴィアンはちょっと怖いけど、そんなふうには見えへんかったから。

 通りで俺がどんなにむちゃくちゃやっても動じんわけやで。サボろうが、どんなにやる気なしで研修に出てようが、怒鳴るわけでもなく、教えてくれたもん。注意こそすれ、うるさく言わんと、さりげなく差し入れしてくれたりするから、ちょっと変わってんなぁとは思ってた。

「ダンテが来てから、ホンマに楽しくって、凄く怖なった。仕事は嫌やったけど、一緒におったら癒されるし、ダーリンをからかって遊ぶのは最高に面白かった。だからどっちも失くしたくないのに、こんな仕事やってたら、うちに出来る事なんてあれへんねんもん」

 ダンテはヴィヴィアンが怖い人やなんて言うてなかったから、知らんかったわ。怒ったら怖いとは言うてたけど、優しいって言ってたから。

「ホンマはルノも甘やかしてあげたい所やけど、ダーリンに怒られるような事したくない。ほとんど力にはなれんやろけど、頼ってくれてええんやからね」

 そう笑ったヴィヴィアンは、俺の頭を撫でて言うた。

「ダンテの事、お願いな」


 俺はダンテの部屋のコタツで、ゆりとダンテと三人でプリンを食べてた。

 ゆりは俺の仮眠室に泊まる事になったから、今日からしばらく俺はダンテの仮眠室で寝泊まりする事になった。

 ここはなんでもそろってるから快適やけど、ダンテが何をしてても不安そうな顔をする。何がそんなに不安なんか知らんけど、俺がトイレに立つたんびに、冷や汗かきながら座ってるんやもん。

 ゆりが不思議そうにダンテを見ながら、プレステで遊んでる。ジャンヌもジャメルもソニー派ちゃうかったから、全然知らんゲームや。俺もニンテンドー以外のゲームは分からん。

 ダンテが四角いデッカイクッションにしがみつきながら、ずっとつらそうにしてるもんやから、俺は尋ねた。

「どないしたん?」

「狭い所あかんねん」

 ダンテはぽつりと呟いた。

「ここ、そんなに狭い?」

 ゆりがコントローラーを放り出して、ダンテに尋ねた。

「オレ、この部屋、苦手やねんもん」

 ダンテはそう言って、クッションに顔を沈めた。

「あかん、限界」

「何が?」

「吐きそう」

 ダンテはそう呟くと、よろよろと出入口の隣りにあるトイレに向かって行った。

 俺は立ち上がると、コップを持って追いかけた。

「大丈夫か?」

「無理。もう嫌や」

 ダンテがそう言うて、泣き出した。

「嫌や、ここにおりたくない」

「なんで? 食堂、行く?」

「支部にいたくない」

 ダンテはそう言いながら、ゲロ吐いた。そのまま便座の前に座り込むと、おえおえ言いながら、水を流した。

 しんどそうやったから、俺は背中をさすった。

「じゃあどこ行くん?」

「行くとこなんかないもん」

 どうしていいんか分からんかったから、俺はとりあえずゆりにちょっと出てくるわと声をかけると、ダンテの腕を肩に回して立たせた。

「ちょ、どこ行くん?」

「とりあえず、医務室行ってくるわ。ゆりも来る?」

 ゆりはうなづいて、立ち上がった。

 泣いてるダンテを引きずって、廊下に出たらちょうど通りがかった支部長がぎょっとした顔でこっちを見た。

「どうした?」

「吐いた」

 俺が普通に答えたら、ダンテはわんわん泣きながら、支部長に抱きついた。ずっと嫌やって言うてる。ただ、支部長はそれを見ても焦るわけでもなく、いつも通り、優しい声をかけた。

「落ち着け、その部屋のドアは開くだろ? もう鍵がかかって閉じ込められる事はないって言っただろ?」

「そんなんちゃう。もう支部に閉じ込められんの嫌やって言うたやん。出してぇや」

 それは無理やろ。今日、思いっきり連れ去られそうになっとった人を、そんなに簡単に外に出せるわけないやん。それくらいアホな俺でも分かんで。

 支部長はこっちを見ると、ふにゃっとした笑顔で言うた。

「びっくりしただろ? ダンテは閉所恐怖症なんだよ」

「何それ?」

「狭いとこ、あかんやつ」

 ゆりが教えてくれた。

 支部長は笑いながら、俺とゆりに言うた。

「もう遅いから二人とも寝なさい。ダンテはどうにかするから、心配しなくていい」

「寝れる訳ないやん」

 ゆりが言うた。

「ダンテは連れ去られそうになるし、ルノの

お姉ちゃんに襲われるし、いろんな事がありすぎて、寝れる気がせんわ」

「それでも寝ておきなさい。そんなんじゃ体がもたない。医務室で薬を貰うといい」

 支部長はそう言いながら、床に座り込んで泣きじゃくるダンテの前にしゃがんだ。

「お前、年下の二人に笑われるぞ。ちょっとはしっかりしろよ」

 そういや年下やっけと笑いながら、俺はゆりの手を引っ張った。

「行こか、カードキー持ってへんやろ?」

「うん」

 ゆりは割とすんなりついてきた。

 俺はエレベーターの方に歩いた。ゆりはすぐに手を振り払ってきたけど。流石にちょっとショックやわ。俺と手を繋ぐのはそんなに嫌なん。女の子に嫌われるような男とちゃうんやけど。

 でもゆりは隣りを歩きながら、俺を見上げてきた。

「言っとくけど、うちルノみたいにチャラい奴、好きとちゃうから」

 なにそれ、ルノ様の沽券に関わるんですけど。

「なんで?」

「友達にしとく分にはええけど、ルノが思ってるほど、ルノには魅力ないから」

「どこが? 俺、家庭的やろ」

「そんなもんになびくような軽い女の子がええんやったら、別の頭軽そうな子にしたら?」

 ゆりはそう笑った。

 ダンテの泣き声が聞こえてくる。

 俺も一緒に支部長のところで、ダンテと一緒に泣いてこよかな。十八年生きてきて、こんな事、言われたんはじめてやわ。

 内心ショックで、なんも考えられんとおってんけど、エレベーターで二人っきりでもゆりは普通にしてる。もしかしてなめられてる? いやいや、俺がコン専のよわっちょろそうなモヤシ連中とちゃう事くらいは分かるやろ?

 ゆりは言うた。

「ルノは本気で人を好きになった事ないやろ?」

「どういう意味や?」

「ルノには分からへんと思うわ」

 ゆりが言ってる事が全然分からんまま、二人でエレベーターを降りて、地下二階の医務室のドアを開ける。ゆりは笑ってた。

「そういう意味じゃ、血ぃも繋がってへんのに家族のダンテと支部長さんの方がよっぽどええ男やと思うわ」

「なんでなん? 俺の何がそんなにあかんの?」

 いや、別に寝れるとか思っとったわけちゃうで。ホンマに、ゆりとはお友達で十分やし。俺の好みはもっとこう、グラマーな美人や。ゆりはどっちかって言うとジャメルの好きそうな可愛い系やん。胸もぺったんこやし。

 けどさ、このルノ様が、やで? ダンテとか支部長に負けるって癪やん。何がそんなに

あかんのか、気になるやん。

「まず、うちはタバコ嫌いやし、心も通わんような者同士で寝てるのもうんざりする。それにパリジェンパリジェンってうるさいし。何なん? 関西人と何がちゃうん?」

 ゆりはこっちを見て、俺にそう言った。

 強い視線に、心がぽっきり折れた気がする。

「全否定?」

「ルノとじゃ、どう分岐したってフラグも立たんわ」

 ゆりはそう笑って見せると、俺の脇腹を肘で小突いた。

「もっと男磨きぃ」

 流石になんも言い返せんかった。

 はいはいそうですよ、俺は一回も人に惚れた事ない。だったらなんや? 経験やったら多いと思うし、別にええやん。自分のやりたいようにやってんねん。そりゃ、自分がロクデナシな事くらい分かってるけど、そこまで言われるほど?

 ゆりは、寝れるようにしてと医者に言う。

 俺はショックすぎて、長椅子に座った。

「俺にもちょうだい」

 それしか言えんかった。


 翌朝、俺はダンテの部屋のベッドで思いっきり伸びをして起き上がった。

 あの後ジャメルに思いっきりグチり倒してから寝たんやけど、それでも寝不足気味やわ。唯一の取り得みたいな顔も、あかんくなってまいそうや。

 ジャメルはそういう子もいるって笑うだけやったけど、アイツも俺と大して変わらんやろ。確かに俺と違ってジャメルは一回付き合い始めたら長いけど、ジャメルかてとっかえひっかえやん。

 そりゃジャンヌに本当の愛について、怒られた事はあるけど、そんなもん映画の中だけやん。ダンテが恋愛ものの映画見ながら、泣いてた時には、笑ってもたけど。ダンテって、そういうところ、ジャンヌによぅ似てんねんもん。

 隣りの俺の部屋で寝てるだろう、ゆりを起こしに俺はのろのろ部屋を出た。

 そういや結局ダンテは戻ってこぉへんかったな。勝手にベッド使ってもたわ。ま、ええか。

 廊下に出たら、びっくりした。

 なんか大騒ぎになってたから。

 何なん? ダンテの部屋って防音なん?

 俺は一番近くにおった、見た事もないモヤシみたいなやつを掴まえて声をかけた。

「なあ、どうしたん?」

 そいつはこっちを見ると、ちょっと困ったような顔をしたけど、ゆっくりと答えた。

「うち、一応有限会社やん? 分かる?」

「いや、全然」

「株は?」

「全く分からん」

 そしたら一緒におったホワイトアスパラガスが言うた。

「要するに会社の持ち主が変わってしまったんや」

「誰に?」

「前支部長のランボルギーニって男」

「それ、何が問題なん?」

 二人が困った顔をした。

「今まで国の物やったこの会社が乗っ取られたんや」

「なんで?」

「それが分からんから騒ぎになってんねん」

 なるほど。

 俺はうなづいて、二人にお礼を言うと隣りの部屋のドアをノックした。

「ゆり、起きてる?」

 それからカードキーをかざした。

 ゆりは布団でぐっすり寝てた。

 しゃーないから、俺はスリッパを脱いで部屋に上がると、ベッドのところまで行った。

「ゆり、起きて」

 俺はゆりの肩を揺さ振った。

 ゆりは俺のシャツを着てるから、首のところから肩が出てた。やっぱりダンテの服を借りたらよかったかな。

「なあ、ゆり」

 俺は声をかけて、ため息をついた。

 ゆりはどことなく姉ちゃんに似てるわ。なんでやろ。手がかかるところ? それやったらダンテも一緒か。どっちにしろ、こんなに無防備に寝てんのに、全然その気になれへん辺りは完全に姉ちゃんや。

「朝やで、起きて~」

 ゆりはようやく目を開けた。

「おはよう、朝やで」

 俺はゆりにそう声をかけて、布団を引っぺがした。この手のタイプはこれくらいせんな起きひんからな。

 ゆりは寒そうに体を丸めて、叫んだ。

「何すんねん、寒いやろ」

「起きてぇや。騒ぎになってる」

「はあ?」

 ゆりは困った顔をしながら起き上がると、こっちを見てため息をついた。

「あっち向いてて」

「言っとくけど、俺かてゆりは趣味ちゃうから」

「ええからあっち向いて」

 ゆりに怒られて、俺は大人しくドアの方を向く。そのまま、話しかけた。

「なんか会社乗っ取られたらしいんやけど、それってあかんのかな?」

「ヤバいやろ。人を殺せるような人とダンテみたいなハッカーの集団を好きに出来んねんで? やろうと思ったら日本を壊せるって事やん」

「そうなん?」

 ゆりはそうやと答えて、俺の足元に置いてあったブラジャーを引っ掴んだ。白のレースとか飾りの一切ないやつや。ホンマに色気ないのんつけとんなぁ。ジャンヌでももうちょっと可愛いの使っとったで。

 ごそごそやりながら、ゆりは続けた。

「ルノの上司が支部長やなくなるんやで?」

「それは嫌やな」

「嫌やろ? そいつが何を考えてるんか知らんけど、ルノに一般市民を殺せって命令できるようになるんやで? 多分目的はダンテとかの技術っぽい気がするけど」

 やっとゆりがいいよと言うた。

 俺はゆっくり振り向いた。

 ゆりはバサバサの髪のまま、服だけちゃんと着てた。

「支部長は?」

「知らん。聞きに行こうと思って、起こしに来た」

 ゆりは立ち上がって俺の腕を引っ張った。

「行くで」

 しゃーないから俺はゆりについて、部屋を出た。

 食堂の方から、ダンテの叫び声が聞こえる。

 ゆりが迷いもせんと走り出す。

 俺はその後ろを追っかける。

 かなり年のいったおっさんが立ってた。それとダンテの母親って言ってたあの女の人も一緒に。なによりびっくりしたんは、そこに姉ちゃんがおった事やった。

「ジジ」

 俺は人を押しのけて、前に出た。

 姉ちゃんはこっちを見て、にこっと笑った。

 ダンテはその姉ちゃんの足元で、また泣いてる。そばにしゃがむ支部長が、おっさんを見上げてる。支部長は冷静そうに見えたけど、声色は全然冷静やなかった。

「だから、この子はうちのだって言ってるだろ」

「もう関係ないわ」

 ダンテが震えてる事に気付いて、嫌な予感がした。

「ジェームス、君はアメリカのゲイト社に移動してもらう。ダンテはこのまま、日本で働いてもらう」

「ふざけるなよ、だったら二人そろって辞めてやる」

「辞めてどうするんだ? お前みたいな奴、どこが雇うって言うんだ?」

「少なくともお前には関係ないだろ」

 支部長の声は強くてしっかりしていて、それやのに怖い。銃身みたいな嫌な目を真っ直ぐ、おっさんに向ける。

 ダンテがこっちに気付いた。泣きながら、こっちを見てる。

 それを笑って見下ろす、女の人が何より怖い。この人、ダンテの事、なんとも思ってへんねや。それが俺には信じられへんかった。

 姉ちゃんはこっちに歩いてきた。手をこっちに差し出す。

「ルノ、迎えにきたで」

「は?」

 俺は姉ちゃんを見下ろして、尋ねた。

 姉ちゃんの額は赤かった。多分、ゆりのスケボー食らったところや。

「もう自由なんやで、ルノ。パリに帰ろ」

「待ってぇや。何を言うてるん?」

 俺は姉ちゃんの手を払った。みんなに聞かれたくないから、フランス語で尋ねる。

「ジジ、ジャンヌがどうしたって言うてたやん。一体どうなってんの? ジジは何をしたいんや?」

 姉ちゃんは分かってるくせに、日本語で返してきた。

「もう全部終わったんや。ルノは心配せんでええ。一緒に帰ろう」

「タ・ギョール、ジジ! ええ加減にせぇよ」

 姉ちゃんはこっちを睨むと、また俺を引っぱたいた。手加減なしやったから、勢いよく床にひっくり返った。

 マジで痛い。

「何してくれんねん」

 俺は顔を上げて、姉ちゃんに怒鳴った。

「それはこっちのセリフや、ルノ。アンタ洗脳されてるんやって言うたやろ?」

 姉ちゃんは俺を見下ろして怒鳴り返してきた。そのままむんずと胸倉に掴みかかってきたから、その腕を掴んだ。

「俺はアホやからな、分かるように言えや。一体なんやねん? どうしてほしいねん?」

「だから帰ろっていうとるやろ?」

 いっこも分からん。

 俺は右腕を引いた。

 でも拳が届く前に、床に引きずり倒されて、腕をひねり上げられた。痛い、ガチでヤバいやつや。右腕がズキズキする。

 背中に乗ってる姉ちゃんが怒鳴る。

「パリに帰ろうって言うてるやろ?」

 悔しい。悔しいけど、どうする事も出来ん。姉ちゃんに勝てる気がせぇへんねん。情けないけど、悔しくて悔しくて、俺は左の拳を床に叩きつける事しか出来んかった。

「分かった?」

 全然分からんわって言うたったら、どんなに気分ええやろな。けど、もう右腕が限界やった。

「ウィ」

 悔し涙が床にこぼれるのが見えた。


 クソジジは三日後のチケットを取ったって、俺に言うた。

 あのおっさんがランボルギーニって言うらしい。クソジジから聞いただけやけど、そいつが支部長になるらしい。007な支部長はヴィヴィアンの事で脅しをかけられたらしい。アメリカへの移動を飲んだ。その上、ダンテにも支部長をアフガニスタンに送ってもいいって脅したらしい。ダンテは会社に残る事になった。

 俺はジジに仮眠室に缶詰にされてて、誰にも会えてへん。ゆりやダンテとちゃんと話したいって言うてんのに、このピュタン、部屋から出してくれへんねん。

 かといって、俺に姉ちゃんをどうこう出来るような力なんてあれへん。黒帯なんて肩書、クソジジに言わせればゴミなんやもん。そりゃ師範代にはそうやろな。けど、空手にあんな組み伏せるような技あれへん。クソジジが俺と同じように、他の何かを教えられたのは確かやと思う。

 せめてもの反抗に、俺は姉ちゃんって呼ぶのはやめたし、口もきかん事にした。こんなんクソジジで十分や。

「ルノ、機嫌直しぃや」

 俺はそっぽ向いたまま、ベッドに座ってた。

 クソジジが俺を見下ろして、ため息をついた。

 俺が荷造りせんから、勝手にタンスを引っ掻き回す。乱暴に床に放り出された教科書が俺の足に当たった。

 あんなに頑張って勉強したのにパァか。アホみたい。俺、何のためにあんなに課題をやってたんや。

 悔しい。

 俺がもっともっと強かったら、姉ちゃんなんかフルボッコに出来んのに。格ゲやっとる時のダンテくらい、無敵やったらええのに。いやアイツはパソコン持ってたら無敵やな。

「なんでパソコンの勉強してるん?」

 クソジジが俺の前にしゃがんだ。ほったらかしにしてたスーツケースに、タンスの服をぽいっと投げる。それからC言語の教科書を持ち上げて、それを広げた。

「ルノ、ちゃんと勉強してるやん。なんで?」

 俺は無視した。

「なあ、なんで?」

 クソジジは子どもでもあやすような声で言うた。

 もう限界。

 俺は姉ちゃんに怒鳴った。

「何なん? 俺が勉強したらあかんの?」

「全然あかん事ないで。ただ、なんで?って聞いてるだけや」

 姉ちゃんはそう答えた。

 てっきり殴られると思ってたから、拍子抜けして俺は姉ちゃんを見つめる事しか出来ひんかった。

「なんで、パソコンの勉強したくなったん?」

 姉ちゃんは俺に言うた。

「ダンテがハッカーやから」

 俺はそう答えた。

「ハッカー?」

「あいつ、すごいんや」

「ケイティさんから聞いたよ。ダンテくんって、めちゃくちゃパソコン使えるんやってなぁ」

「そんなレベルちゃうねん。カギ開けたり、俺の場所見つけたり、なんでも出来んねん」

「それでやろうと思ったん?」

「楽しそうやってん。俺には向いてへんかったけど、でもコン専行くのもめっちゃ楽しかった」

 姉ちゃんは俺の隣りに座った。

「じゃあパリの大学に編入しやんなあかんな」

「なんで?」

「せっかくルノがやりたい事、見つけたんやろ? ここまで頑張ったのに、もったいないやん」

「向いてへんのに?」

 俺は姉ちゃんに尋ねた。

 姉ちゃんはにこっと笑って、俺の肩を撫でた。

「それでもや。今までこんなに頑張った事、あれへんやろ? 続けな損や」

 俺の知ってる姉ちゃんやないみたいやった。

 姉ちゃんはしっかりしてて、乱暴やけど、にニコニコしてて、なんかいつもとちゃうねん。けど、ゴミくず女の姉ちゃんより、よっぽど好きや。

 俺は姉ちゃんに尋ねた。

「姉ちゃんは何しとったん?」

「システマとクラヴ・マガを覚えたで」

「何それ?」

「格闘技や」

 姉ちゃんは笑った。

「前よりもずっとずっと強くなったんやで。今度はうちがルノとジャンヌの事、守るから」

 何を考えてんのかさっぱり分からへんかったけど、俺はうなづいた。

「絵はもういいん?」

「もちろん続ける。けど、うちには才能はないみたいやわ」

 姉ちゃんはそう笑った。

 変なの。姉ちゃんは全然楽しそうやない。むしろ悲しそうに笑うんや。無理して笑う事あれへんのに。


 姉ちゃんがシャワー室に立ったすきに、俺は部屋を抜け出した。

 廊下にはまだ混乱した様子の人達がたむろしてて、口々になんか話してるのが聞こえてくる。ほとんどは支部長の話みたいやったけど。

 俺は真っ先に隣りのダンテの仮眠室のドアをノックして、カードキーをパネルに押し当てた。

 いつもやったらすぐに開くんやけど、今日は違った。ぶーっとブザーが鳴って、パネルのライトは赤く光る。

 なんでって思って、俺はもっかいドアをノックして、その向こうにむかって声をかけた。

「ダンテ」

 そしたらドアを叩く音が返ってきた。声は聞こえへんけど、その音で、俺は何かあったって気がついた。あのダンテがカギのかかった部屋にいてるなんて、普通やない。あんなに怖がってるんのに、外からも中からも開けられへんなんて、おかしいやん。

 俺は辺りを見回して、食堂の方に向かって走った。

 食堂はいつもじゃ考えられへんくらい人がごった返してて、知ってる顔もちょこちょこいてる。その中心に、ちょこんと座って今にも泣きだしそうな顔をしたヴィヴィアンを見つけた。

 俺は人ごみをかき分けて、そこまで歩いて行った。

「ヴィヴィアン」

 俺が声をかけると、ヴィヴィアンが顔を上げてこっちを見た。

「ルノ」

 よぅ見たら一緒にいてるのは、ミトニックとゆりや。そういや俺の仮眠室にゆりの荷物が置きっぱなしやった事を思い出した。いい加減、あのドアのところのスケボーはどうにかしてもらわんな。邪魔。

「何があったん? ダンテの部屋に入られへんねんけど」

「ランボルギーニがダンテを部屋に閉じ込めてしもて、どうにも出来ひんねん」

 ヴィヴィアンがそう呟く。

 ゆりがこっちを見上げる。

「ルノ、どうにか出来ひんの?」

「俺にそんな事が出来るんやったらとっくにヴィヴィアンがやってるやろ?」

 ヴィヴィアンがぽろぽろと泣き出した。

「うちのせいや。うちをネタにダーリンはとっくに関空やし、ダンテはダーリンをネタに閉じ込められてる。でもどうしたらいい? うちに何ができる?」

 ミトニックがヴィヴィアンの肩を叩いて、パソコンを覗き込む。

「管理者権限を書き換えられたらいいんやけど、向こうにもかなりの腕のハッカーがいるみたい」

「ダンテの様子だけでも見られへんの?」

「無理。そもそもうちのファイヤーウォール

を構築したのは他でもないダンテだし、そんなに簡単にクラック出来るようには設計されてないよ。オレみたいなのには手出しも出来ない」

 葬式みたいなその空気が嫌で、俺はテーブルを叩いた。

「嘆いてなんになんねん? 俺は嫌や」

 俺はそれだけ言うと、くるりと方向を変えて、ダンテの部屋の前に戻る。

 ドアを叩く音がまだ聞こえる。

 ここのドア、そんなに頑丈なつくりにはなってない。見た感じ、いたって普通のドアやもん。こんなもん、マンションの玄関よりよっぽどもろい筈や。

 俺はドアのノブを思い切り蹴っ飛ばした。

 ノブがひしゃげる。思った通り、そんなに頑丈やないんや。

 俺はそのまま何度かドアのノブに近い辺りを蹴った。力いっぱい蹴ったら、ドアがひしゃげる。カギの部分がひしゃげて、カギとしての役目がなくなるくらい、ドアをけりまくってから、俺は力任せにドアノブを引っ張った。

 ドアがメキメキと音を立てて開く。

「ダンテ」

 俺が声をかけたら、ダンテがトイレの前で泣きながら座り込んでるのが目に入ってきた。こっちを見上げて、安心したような顔をして見せる。

「ルノ」

 俺はダンテに手を貸して立たせると、そのまま廊下に出て尋ねる。

「何があったん?」

「ジェームスがアメリカ行ってもて、オレ止めれんくて、ランボルギーニがオレをここに閉じ込めて、出れんくなって」

 自分でも何を言ってるんか分からへんのか、ダンテは小さい子どもみたいに話し続ける。

「ダンテはどうしたいん?」

「ジェームスがおらへんのは嫌や」

 俺はうなづいて、ダンテの手を引いた。

 食堂から飛び出してきたゆりとヴィヴィアンがこっちを見てる。俺は二人に言うた。

「俺はこのままなんも分からんまま、パリに戻る気はあれへん」

「じゃあどうすんの?」

 ヴィヴィアンがこっちを見る。

「ジジが何を言おうが、俺は知らん。俺は俺のやりたいようにする。とりあえず、ダンテに手伝ってほしい事がある」

「何?」

「一回家に帰って作戦会議や」

「喜んで」

 ダンテはにこっと笑うと、顔を両手で拭っていつものダサいバックパックを持って戻ってきた。

 騒ぎになってきてる。

 俺は急いでゆりの鞄とスケボーを引っ掴むと、非常階段の方から一階まで走った。ゆりとヴィヴィアンが、まだ納得してないような顔をしてたけど、無視した。

 一階のロビーを抜けようとしたら、ヴィヴィアンに止められた。

「誰かいてる」

 ドアの前でロビーの様子をうかがう。

 ホンマに誰かいてる。黒髪のセミロングの女の人や。誰やっけ? でも知ってるのは、この人も工作員やったからや。確か一回だけ一緒に仕事をしたような気がする。

 ヴィヴィアンが様子を見て、俺らには動くなと言ってから出て行った。

「ミランダ、何してるん?」

 俺らと大して年も変わらんような顔をしてたけど、ヴィヴィアンと仲がいいとは思わんかった。ミランダはにこっと微笑んで、ヴィヴィアンの方を見た

「ヴィヴィアン、何してるん?」

 その声は優しかったけど、どことなくとげのある言い方をする。

「ミランダこそ、なんで下にいてるん?」

 ヴィヴィアンは優しく話しかける。

「うちは最初から知ってたから」

 ミランダはニヤリと笑うと、スマホを出して、どこかにかけた。

 ヴィヴィアンがそれを見て、ミランダの手を蹴りつけてこっちを見る。スマホが吹っ飛んだのが見える。それが落っこちる音より先にヴィヴィアンが怒鳴る。

「走って」

 俺はダンテを引きずって、出入り口に向かって走った。ゆりが俺よりも先に入り口に滑り込むと、ドアを押さえる。俺はその隙間にダンテを突き飛ばし、自分もそこに飛び込んだ。

 顔を上げて後ろを見ると、ヴィヴィアンが怒鳴った。

「先行きぃ」

 俺は座り込んでるダンテの腕を掴むと、ゆりに行くでと声をかけて、走った。全速力で走る俺の横をゆりがスケボーで追い越していった。

「ダンテ、ちゃんと走って」

 俺はダンテに怒鳴った。

 振り向くと、ダンテが辛そうに肩で息をしてるのが見えた。そういや、こいつ、カリフラワーやったっけ? まだ半キロも走ってへんぞ。

 後ろを見たけど、追手らしい追手はいてへんかった。

 俺はゆりに待ってと叫ぶと、一旦立ち止まって、ダンテの方を見た。

「もう無理。オレ、走られへん」

 ゆりがくるっと器用に方向を変えて戻ってくる。

「どこまで行くん?」

「出来れば家まで行きたかったけど、ちょっと無理そうやな」

 俺はそう呟いて、ダンテに尋ねた。

「支部長の家って近所なんやろ?」

「すぐそこやけど」

「じゃあそっち行こう」

 ダンテの持ってるバックパックを持つと、俺はゆりと二人でダンテの後ろを歩いた。路地を曲がったらすぐに、いたって普通のマンションが出てきた。ダンテは真っ直ぐ、その一階の一番奥の部屋に向かって行くと、カギを開ける。

「どうぞ」

 ゆりと二人でそのきれいなマンションに上がると、俺は電気をつけた。

 寝室のドアが三つ並んだ広いリビングに、広々した台所があって、正面には大きなベランダの窓もある。

 ええ所に住んでるやんと思いながら、俺はダンテに尋ねた。

「ダンテもここに住んでたん?」

「ちょっとだけ」

 ダンテはそう答えると、少し嬉しそうに笑った。

「ヴィヴィアンにこっちにいるって連絡入れるから、ゆっくりしてて」

 俺ははいはいと答えて、ダンテのバックパックをその辺に置くと、ゆりに尋ねた。

「ゆりは帰れそうなん?」

「イマイチ分からん」

 追っかけ回されてた俺らが、姉ちゃんのおる会社に買い取られたんや。ゆりはもう無関係やろ。とはいえかなり知ってるゆりを、そのまま逃がすような連中とは思えん。ただでは返さへん気もする。

 俺は座ると、ため息をついた。

 あんなにパリに帰りたかったのに、俺、一体何やってんねん。姉ちゃんも見つかったのに、なんで逃げるんや。アホちゃう?

 でも嫌や。このままなんも分からんまま、帰るんは嫌やねん。なんで姉ちゃんがあんな変な連中と一緒におったんか。なんでこんなめちゃくちゃにしたくせに、解決したから帰ろうなんて、言えるんか分からへんやん。

 なによりも、ダンテやゆりに何も言えへんままやなんて、俺は絶対に嫌や。

「ルノって、なんでジジって呼ぶん?」

 ゆりが急に言った。

「は?」

「ほら、いつもは姉ちゃんって言うてんのに、たまにジジって名前で呼ぶやん。なんで?」

 意識した事なかったけど、そういやなんでやろ?

 俺は少し考えてから、答えた。

「姉ちゃんって呼ぶのって日本くらいやからちゃうんかな? フランス語の時はジジって呼んでると思う」

 パリじゃ、姉ちゃんだろうが妹だろうが、兄弟を名前で呼ぶのが普通やもん。むしろ、姉ちゃんって呼ぶ事の方が少なかったのに、最近、日本語ばっかり使ってたから忘れてたかもしれへん。

「ルノってお姉ちゃんと似てへんよな。びっくりしたわ」

「よぅ言われる」

 俺はゆりにそう答えて、頭をかいた。

 姉ちゃんに会いたかった筈やのに、なんでこんなにもやもやするんやろ。俺はアホやから分からへん。こんなんじゃ、逃げてきた意味あれへんやん。

 ダンテが戻ってきた。

「オレ、どうしたらええと思う?」

「支部長に戻ってきてほしいんやったら、やっぱり会社を辞めるのが手っ取り早そうやけど」

 俺はダンテにそう答えた。

「オレが辞めても、ジェームスが戻ってきてくれるか分からへんやん」

「ダンテがいてへんねやったら、堂々と会社を辞められるんちゃうん?」

「きっと他の事でも脅されてると思う。ジェームス、優しいからきっといろんな事を言われた筈やと思うねん」

 ゆりが笑った。

「ダンテは支部長がホンマに好きなんやな」

 ダンテはこくりとうなづいて、俺とゆりのそばに座った。

「オレは二人にも幸せになってほしい」

 ダンテの悲しそうな横顔を見て、俺はその小さい肩を叩いた。

「きっとどうにでもなる」

 俺はダンテにそう言うと、二人の顔を見た。

「まずはどうなってんのか、話を合わせるのが先や。俺は三日後、姉ちゃんとパリに戻る事になった。姉ちゃんはそれ以上話してくれんかった」

「うちは知りすぎてるからって、まだ帰る許可も出てへん。何を知りすぎてるのかまでは聞いてへん」

 ゆりがこっちを見上げる。

「ルノのお姉ちゃんとあのおっさんとおばさんが働いてる会社はゲイト社って事は聞いたで」

 ダンテが目の色を変えた。

「それ、最近日本の情報を海外に売ろうとして、オレがバックアップの仕事した会社やで」

「それって日本の敵って事?」

「オレは売ろうとした情報の中身まで知ってる訳ちゃうからなんとも。ただ、そこを担当した工作員はミランダやで」

 ダンテはバックパックを引き寄せると、中からパソコンを引っ張り出した。そのついでに俺のiPhoneを返してくれる。

「なんか、フランス語のメールがいっぱい来てたから早く返信した方がいいかも」

「ああそれ、多分ジャメルやから大丈夫」

 俺はそれをズボンのポケットにしまうと、二人に尋ねた。

「俺はホンマの事を知りたい。それまでは姉ちゃんと帰るつもりないけど、二人とも、巻き込んでええん?」

 ゆりが笑った。

「何を今更。うちかて、ここまで来たら付き合うで」

「オレかて、ジェームスとヴィヴィアンと三人で暮らせへんねやったら、諦めへん」

「決まりやな」

 ダンテがiPhoneを出すと、ラインをタップする。俺のが震えたから、なんかしたんかと俺はポケットに手を入れた。

「ラインで連絡とるとは、流石に予想せぇへんやろ。何かあったらラインで教えて」

「マジか」

 俺、未だにラインの使い方がイマイチ分からへんねんけど、大丈夫なんやろか。ちょっと不安。まあ、最悪ダンテに送ればええやろ。

 ドアが開いた。

 ぱっと玄関の方を見たら、髪の毛をばっさばさにしたヴィヴィアンが肩で息をしているのが見えた。

「ああ~、落ち込む」

 ヴィヴィアンはそう呟いた。

「どうしたん?」

 ダンテが尋ねる。

「変やと思ってん。敵に情報が洩れすぎやと思ってたんやけど、まさかミランダがあっち側やとは思わへんかったわ」

 ヴィヴィアンはそう言って、靴を脱いだ。

「ここもそう長くはもたへんで。どうするん?」

「姉ちゃんはここを知らんやろ。関係あれへん」

「いや、知ってるみたいやわ。せやからダッシュで来たんやから」

 ヴィヴィアンはそう言うと、こっちを見る。

「まさか何の案もなしに来た訳ちゃうよな?」

「むしろ、俺に案があると思ったん?」

 ヴィヴィアンはため息をついた。

「やっぱり? どうしよ」

 俺は答えた。

「どっちにしろ、俺は行くわ。このまま姉ちゃんについていく気はあれへん」

 ダンテがこっちを見た。

「どこに?」

「どっか」

 俺は立ち上がると、思いっきり伸びをして深呼吸をした。大丈夫、行ける。今更、怖いもんなんかあれへん。この季節なら、外で寝ても平気やろうし。

 ヴィヴィアンの隣りでスニーカーを履こうとしゃがんだ時やった。目の前でドアが勢いよく開いた。

 顔を上げたら、まだ髪の毛の濡れた姉ちゃんがおって、こっちを見下ろしてた。怖い目をこっちに向けて、勢いよく俺の顔をぶん殴った。痛いと思う前に、姉ちゃんが俺の髪の毛を掴んで怒鳴った。

「なんで逃げんの?」

 答える前にもう一発、食らった。

 目の前がぐらぐらする。

 俺は必死で顔をかばった。これ以上殴られたくない。めちゃくちゃ痛いし。流石にこんなんで姉ちゃんに勝てるとは思ってへん。

「ルノまで一人にせんといて」

 姉ちゃんはそう言うと、あの日みたいにボロボロ泣き出して、たった今ぶん殴った人の肩にしがみついた。

 流石にどうしていいか分からんくって、俺は姉ちゃんを見てる事しか出来んかった。

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