落暉の石は守護して奪う

ハル

前編

 ――兄のシモンが十歳、私が八歳の、ある日のことだった。


 二人で書斎へ遊びに行くと、父は新しい羽ペンやインク壺やペーパーウェイトを見せてくれ、


「そろそろ、あれのことを話しておかなければならないね」


 書棚から分厚い本を一冊抜き取ってきた。本には小さな錠がついており、それを見ただけで私の胸は高鳴った。


 父は首から提げていた鍵を引き出して錠を開け、本をひらいた。そこには何百というページを切り抜いてこしらえた空間があり、落暉らつきのように空恐ろしいほど紅い宝石が収まっていた。私の興奮が最高潮に達したことはいうまでもない。


「これはフォンテーヌ家に代々伝わる家宝でね、当主を守ってくれるといわれているのだ。決して失くしたり割ったりしてはいけないよ」

「では、兄上を守ってくれるということですね」


 プラチナブロンドに若草色の瞳をした、美しく心優しく聡明な兄を心から慕っていた私は、弾んだ声で言った。父は笑みを深めて頷いたが、


「ローランのことは守ってくれぬのでしょうか……」


 シモンは長い睫毛を伏せる。自分が守ってもらえると聞いても喜ばず、守ってもらえない私の心配をするシモンに、私の思慕はますます募った。


「私は守ってもらう必要などありませんよ。誰よりも体を鍛え、誰よりも剣や弓の稽古に励んで、誰よりも強い男になるのですから。そして、この宝石とともにずっと兄上のことをお守りするのです」


 私が胸を張ると、


「そうだったね……頼りにしているよ、ローラン」


 シモンはようやく微笑んで私の頭を撫でてくれた。慈愛に満ちた声とたおやかな指の感触が快くて面映ゆくて、私は首を竦めてくすくすと笑った。


     ***


 十年後、シモンは、より美しく、より心優しく、より聡明な青年に成長した。


 一方、私は「誰よりも」とまではいえぬだろうが、熱心に体を鍛え剣や弓の稽古に励み、「強い」といっても自惚うぬぼれにはならぬであろう青年に育った。


 背も私のほうが親指三本分ほど高く、我々が兄弟だという事実のみを知らされた者なら、私が兄でシモンが弟だと思ったかもしれない。


 この年、父が病没し、シモンがフォンテーヌ家の当主の座に就いた。いままでは、どんな縁談もまだ早いからと断っていたシモンだったが、側近たちの強要にちかい勧めもあり、とうとう伯爵家の令嬢クレールが輿こし入れしてくることになった。


 だが、私は高をくくっていた。女性にほとんど興味をしめしたことのないシモンのこと、クレールにも生来の優しさゆえに礼儀正しく接し、義務感ゆえに肌を合わせもするだろうが、心から愛することはあるまいと。


 だが、結婚式当日、その予想は早くも揺らぎはじめた。


 クレールを一目見た瞬間、シモンの瞳にはかつてない驚愕と陶酔の色が浮かんだ。クレールはバターブロンドに瑠璃色の瞳をした、その名のとおり、ただいるだけでまわりを明るくするような美少女だったのだ。


 シモンを見たクレールの反応も同様で、式のあいだじゅう二人はほんのりと頬を染め、咲きかけの蕾のように唇をほころばせていた。


 対照的に、私の心は灰色に染まりつつあった。


     ***


 それからというもの、シモンはクレールに首ったけだった。私の予想は完膚なきまでに叩きつぶされたのだ。


 シモンはクレールにドレスや装身具や香水を贈り、クレールが動植物が好きだと知ると犬や猫や小鳥を迎え、庭に温室をしつらえて熱帯の花を植えた。


 むろん、心優しく義務感の強いシモンは、決して私に冷たい態度をとったりはしなかった。だが、


「デュラン侯爵夫人に皮肉を言われたときのクレールの返事ときたら、まさに当意即妙だったよ」

「驚いたよ! クレールときたら、あの暴れ馬のマキシムを乗りこなしてしまったんだ」

「ジュリエットが仔犬を産んでね、クレールはもう夢中なんだ。あの愛らしさでは無理もないと思うけれど、少し妬けてしまうな」


 その唇から紡ぎ出されるのはクレールの話ばかりになっていた。そのたびに、私の胸の中では暗い炎が燃え盛るのだった。


 その炎の勢いがもっとも強まるのは、夜が更けてベッドに横になるときだった。


 いまごろ、兄上はクレールに睦言むつごとを囁き、クレールの髪に指を絡め、クレールの唇に、うなじに、鎖骨に接吻をして……。


 想像すると、炎が全身を焼き尽くしてしまうかのように思われた。私は枕を噛みしめて叫び出しそうになるのをこらえ、シーツを握りしめて暴れ出しそうになるのをこらえた。


 ――そう、私は気づいてしまったのだ。


 自分がシモンにいだいていたのが、単なる兄への思慕ではなかったことに。


 シモンがベッドでクレールにしていることを、自分はシモンにしたいのだということに。


 自分が神にも世間にも許されぬ罪を犯してしまっていたことに。


     ***


 いっそ、地位も財産も生まれ育った屋敷も土地も捨て、出奔してしまったほうがよいのだろうか――。


 そう思いながらもいざとなると決心がつかず、鬱々としていたある日、シモンが私を書斎に呼んだ。


 シモンは二脚のグラスに赤ワインを注ぎ、


「喜んでくれ、ローラン。クレールが身ごもったんだ」


 グラスの一脚を持ち上げ、露に濡れ曙光を浴びた若草のように輝く瞳で言った。


 クレールが身ごもった――。


 そのことばは、私の胸の炎にとっては油に等しかった。


 シモンとクレールの愛の結晶がこの世に生まれてしまう。


 シモンとクレールの絆がますます強固なものになってしまう。


 シモンの胸の中で、私の存在は片隅のさらに片隅に追いやられてしまう。


 いまこの場で自分が黒焦げにならないのがふしぎなくらいだ。


 それでも私は歯を食い縛り腹に力をこめ、


「……おめでとうございます、兄上」


 心にもないことばを絞り出し、震える指でグラスをつまんだ。


「ありがとう。当主としては跡継ぎの男の子を望まなければならないのだろうが、個人的にはクレールによく似た女の子がいいな……乾杯サンテ!」


 揃ってグラスを掲げたとき、ワインの色が私にあの宝石のことを思い出させた。


(これはフォンテーヌ家に代々伝わる家宝でね、当主を守ってくれるといわれているのだ。決して失くしたり割ったりしてはいけないよ)


 父のことばが耳の奥に甦り、思わず書棚に目をやる。十一年前と寸分違わぬ場所にあるあの本が、その中にひそんでいるであろう宝石が、私を呼んでいるような気がした。


     ***


 私は街の職人に本の鍵の偽物をつくらせ、小間使いを買収して本物とすり替えさせた。兄のいない隙に書斎に忍びこみ、宝石を盗み出す。宝石には未だに一点の曇りもなく、むしろ輝きを増しているように思われた。そのまま馬を駆り、海を臨む断崖絶壁へ向かう。


 私は波高い海を見渡して深呼吸し、ポケットから宝石を摑み出すと、大きく腕を振りかぶって海に投げこんだ。紺碧に深紅が映えたのはほんの一瞬で、みるみるうちに宝石は波間に沈み、無数の石塊いしくれの仲間入りをしてしまった。


 はじめのうちこそ、私の胸は背徳感の混じった達成感でいっぱいだったが、次第に言い知れぬ不安に騒ぎはじめた。


 自分は取り返しのつかないことをしでかしてしまったのではないか――。


 それを振り切るように私は馬首をめぐらし、馬の腹を蹴って帰路を急いだ。



〈後編につづく〉

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