アップデート・デイズ/LOST 晋太郎
午前中はウィンドウショッピング中心。雑貨屋をひやかしたり、カフェに入ったり。 「服を買いに行く」という緊張は、いつの間にか薄れていた。
「ここ、入ってみない? 白葵が好きそうな服、ありそう」 美晴に手を引かれるようにして入ったのは、柔らかい光が差し込むセレクトショップ。色数は少ないのに、どこか洗練された空気がある。
ハンガーにかけられた服たちの間を、美晴が軽やかにすり抜けていく。白葵はやや遅れて、その背中を追っていた。
「これとかどう? 柔らかい色だけど、地味じゃないんだよね」
差し出されたのは、ミルクティーベージュのブラウス。すこしとろみのある素材で、袖の部分にだけ、ふんわりとしたフリルがついていた。
「……私が着たら、浮かないかな?」
白葵の問いに、美晴はふっと笑った。
「そう思ってるの、白葵だけだよ。むしろ、こういうのすっごく似合う顔してる」
「……似合う顔って、なにそれ」
「んー……なんていうか、強く見えるけど、目が優しいっていうか。
ちょっとした柔らかさを足すと、逆に色っぽくなるタイプ?」
その言い回しに、白葵は言葉に詰まる。
自分の顔をそんなふうに表現されたのは、初めてだった。
「それにね」
美晴がブラウスを畳みながら、さらっと続ける。
「今日の白葵、明らかに“変わろうとしてる顔”してるから。今の顔に、この服がぴったりだよ」
変わろうとしてる、なんて自分じゃ分からなかった。
でも言われてみると、胸の奥にほんの少し火がついている気がした。
燃えているというより、灯っている。小さな灯火のように。
「このニット、白葵に合いそう。肩まわりゆるいから、体のライン目立たないし」 「……あー、うん。そういうの、大事」 「でもこれ、スカートよりパンツのほうがバランスいいかも。あ、これとか。ほら、後ろゴムで楽そうだし」
気づけば、白葵は美晴のおすすめを次々と手に取っていた。
フィッティングルームのカーテンを閉めた瞬間、白葵は小さく息をついた。
明るい照明に照らされた自分の顔と、着慣れないブラウスの違和感。けれど、それを脱ぎたくはなかった。
鏡の中の自分は、見慣れたようでいて、少し違う顔をしている。
背筋が少し伸びて、目の輪郭がはっきりと見える。
なにより――少し、自分のことを“まし”に見ている気がする。
「……意外と悪くない、かも」
言葉にした途端、その声が、自分の声じゃないみたいに感じた。
でも、それはたぶん“前よりも本当の自分に近い声”だった。 そして、フィッティングルームの鏡の前に立ったとき。ほんの一瞬、呼吸が止まった。
――あ、これ、悪くないかも。
無理に着飾ったわけでもなく、ただ“似合ってるかどうか”だけで選んだ服。 それがこんなにも、自分をまっすぐ映してくれるなんて。
「どお?」 「……なんか、これなら歩けそう」 「え、街を?」 「ううん、自分で」
その言葉がこぼれた瞬間、美晴はほんの一拍だけ黙って、それから優しく笑った。 「じゃあ、今日は“歩く練習”ってことで」
夕方、帰り道。 紙袋を下げて歩く帰り道の風は少しひんやりしていて、それが気持ちよかった。
「なんか、楽しかった」 白葵がそう言うと、美晴は「うん」とだけ言って、横を歩いた。
不思議なほど、言葉がいらなかった。 誰かと並んで歩くことが、こんなにも自然で、安堵をもたらすものだったなんて。
駅で別れ、美晴の背中が見えなくなったあと。白葵はスマホを取り出した。 ふと、バニティネルを開こうとして、手が止まる。
ケースの手応えが、ない
帰宅後、買ったばかりの服を丁寧にハンガーにかける。 静かな部屋。ふと、さっきまでの温かさが少しずつ遠ざかっていく。
「……晋太郎?」 呼んでみても、返事はない。
天井を見上げたまま、白葵はしばらく動かなかった。 部屋の静けさが、じわじわと胸に染みていく。
泣くことはなかった。ただ、気づいてしまったのだ。 これまでの「穏やかな日々」が、どれほど彼の存在に依っていたのかを。
――私は、虚構に守られていたんだ。
その事実は、どこまでも優しく、どこまでも残酷だった。
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