天笠白葵 バージョン1.2 

日曜日。午前が終わるかどうかに動き出した私は、バニティネルをかけながら床に散らばったペットボトルやレトルト食品の袋をゴミ袋に押し込んでいた。


床に散らばっていたものを全てゴミ袋に押し込む作業が終わった部屋には、掃除機をかけていないので埃っぽい。なのにどこか静かな明るさがあった。
晋太郎は、壁に背を預けたまま、掃除機の音にかき消されるようにぼんやり立っていた。

「つーか、随分広い部屋に住んでたんだな」
「モノが減っただけだよ」
「俺という存在がありながらゴミとネンゴロの不毛な関係をようやく清算してくれて、俺は嬉しいぞ、色んな意味で」

たわいのない言葉。けれどそのやりとりが、少しだけ肩の力を抜いてくれる。
彼の存在が、空気のようにそこにある──いつからか、それが当たり前になっていた。


週が明けて、月曜日の朝。
駅のホームに立つ自分の姿が、向かいの電車の窓にうっすらと映る。
肩にかかる髪を見て、「伸びたな」と思った。いやいやいや、整ったんだ。1週間足らずでそこまで髪が伸びるとかどんなエロ美ちゃんだ、亜鉛メキメキか。

何ヶ月も、髪型なんてどうでもよかった。整える理由も、誰に見せるわけでもなかった。でも今日、それに“気づいた”自分がいる。それが、なんだか不思議だった。ポケットの中でスマホが震えた。


ー老人が学生と結婚するという気味の悪さー

憎しみが渦巻くこの世界で、今日も新たな夫婦が誕生した。

驚くべき点は新郎が80歳で新婦が25歳という点だ

裕福なだけの老人が魅力的な20代の女性に興味を持つ事ははない。既に棺桶に片足の足を突っ込んでいるのに、まだ若い女性を引きつける事ができる彼らから女性嫌いの話を聞くたび、私はいつもリストカットしたくなるような不安感に襲われる。


ニュースサイトの通知だった。ゲンナリした気分で眺める通知欄で、美晴からの以前のメッセージが再び目に入った。


「さっきはありがとう。びっくりしたけど、なんか嬉しかった。
もし来週、時間あったら少しだけ話さない?
お互い、ちゃんと「最近の自分」の話。できたら、だけど」

その文字をなぞる指の感覚とともに、もうひとつの画面が開く。
未読のまま、放置していたチャット──その中に、美晴の昔の言葉があった。

「白葵ってさ、ほんとはすごく女の子らしいのに、それを隠すのうまいよね」

……それは褒め言葉だったのか、ただの指摘だったのか。
今でもわからない。けれど、あの時よりは、自分の輪郭を少しずつ掴めている気がする。


職場の給湯室には昨日の紙コップが流しに放置されたままだった。

(よっし、ラッキー‼︎)
白葵は周りをよく確認し、素早く手を伸ばしかけて──やめた。隣に、新しい紙コップを置き、自分の分だけお湯を注ぐ。

「あ、惜しい。今、拾ってたら2ポイントだったのに」
「晋太郎、また変なゲームしてる?」
「社会的好感度ってやつ。見てないふりして、意外と人は見てるからな」

バニティネル越しに映る彼は、スーツの襟を少しだけ崩して、相変わらず気軽な顔をしていた。
でも、その「見てるからな」という言葉だけが、やけに残った。

カップを持ったままドアを出ると、ちょうど廊下の向こうから佐川くんが歩いてきた。
目が合ったような気がしたが、彼はそのまま自販機の前で立ち止まり、缶コーヒーを選ぶ素振りをしている。

白葵も通り過ぎようとしたが、足が止まる。

「佐川くん、あの……今日の会議のレジュメって――」

彼は何も言わず、ポケットから書類を一枚取り出して、白葵に手渡した。
その指先が少しだけ、熱を持っていた気がした。
言葉はなかった。でも、空気は不思議と悪くなかった。


午後。
沈むような光がオフィスに落ちてきた頃、スマホがふるりと震えた。




ークラウドファンディングがまたも馬鹿げたアイデアを実現ー

様々な種類のチーズで神々や容姿端麗な人間を彫刻し、結婚式や各種祭礼で売るというビジネスを始めるのに十分な資金ができたと語る。彼の話では人々はチーズの彫像を食べるのを好む、少なくとも自分はそうであるとのことだ。


これまた不思議なビジネスにお金が集まったものだ

ではなく、一つの下の美晴からの新しいメッセージだった。

「土曜、街でも歩かない? 服見たいなーと思って」

その一文を見たとき、胸の奥がかすかに軋んだ。
服──それは、今の白葵にとっては重たい言葉だった。

美晴の服装はいつも華やかオフィスカジュアル、「金と人間関係と責任が乱れ飛ぶ社会で戦えるように私服を組み合わせて使い分ける」という戦闘機パイロットのような高等テクを使いこなすまさに企業戦士。こちとらそんなドッグファイトは私にはできない、そんなわけで私は就活時だ同様の「初期装備統一」でやり過ごしていて、自由な社風なのにその社風に何ら興味を示さない不思議ちゃんとして日々を凌いでいるのである。


実際クローゼットにあるのは、くすんだ色のシャツや伸びたニットばかり。服を買いに行く服がないとは言い切れないが、オフィスカジュアルを光かがやかせる猛者と一緒に服を買いに行けるかどうかも考えたことがない。
でも、それでも。

スマホを握り直し、文字を打ち始める。

「うん、いいよ。服とか……見たいかも」

しばらくして返ってきたのは、
「うれしい!!!」の文字と、笑顔で手を叩くスタンプだった。

画面を閉じると、モニターに映る自分の顔が小さく笑っていた。
それを見て、もうひとつの声が後ろから届く。

「進化したな。外に出たい白葵、バージョン1.2くらいじゃない?」
晋太郎が、また勝手に更新履歴を語っている。

「うるさいよ……でも、そうかもね」
「だろ?」

彼の声が消えたあとも、どこか背中に見守られている気配だけが残っていた。

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