正気のサタデー
目が覚めたら、カーテンの隙間から光が差し込んでいた。
──土曜日だ。
仕事はない。アラームも鳴らない。 部屋は静かで、空気は相変わらずよどんでる。鼻がむずむずする。寝返りを打って天井を見上げる。なんの伏線もなくただ白い。
隣を見ると、誰もいない。 というか、ベッドもない。床に敷いた薄いマットレスの端に転がる、羽毛がほとんど出ていった布団だけがいる。
スマホを見ると、朝8時23分。
そのまま、ただ横たわる。空腹も感じるけど、台所に立つ気力はない。このまま14時くらいまで寝てしまおうかな。
ダメだ、もうこの部屋にいるのは私だけじゃないんだ エコー&チェンバーを耳に装着する
「……よぉ、死んでんの?」
そして枕元のバニティネルをかけると、投影された彼が、床にしゃがみ込んで私を見下ろしている。
「お前さ、よく言うよな。今日は何も予定がないから寝腐ってやるって。なのに、実際そうなると何もしてないって自己嫌悪に浸るタイプだろ」
図星だった。
「ごほうびの休日なんだから、自分で休んでいいって言ってやれよ」
「……」
「よし。じゃあまず、冷蔵庫のヨーグルトを取りに行こう。今のお前の腸内環境は、全人類の中でも最下層クラスだからな?」
「ちょっとひどくない?」
「オレはな、現実で腸を手に持ってるお前を見たくないんだよ。だからちゃんと整えてくれ。頼むから」
「腸が腹の外に飛び出してるなら、腸内環境関係なく死にそうだけど?」
そんな風に声をかけられて、私はやっと、マットレスから起き上がった。
冷蔵庫にあるヨーグルト(プレーン・加糖)。 冷蔵庫の奥から見つけた、少ししなしなのカットキャベツ(袋開けっぱなし)炒めて、卵と一緒にかき混ぜて…ここで卵の賞味期限が2日前だと気づき、慌てて電子レンジに投入。
「おい、起きたんだから顔くらい洗ったらどうなんだ?」
めんどくさいけど、言われる前にやるのも癪なので、洗顔だけ済ませる。歯磨きは、これから食べるし後で。
「昨夜歯を磨いてねえんだろ?このまま食ったり飲んだりしたら大事だぞ?」
舌打ちしながら、歯ブラシを手に取る。
──ゲームのくせに母みたいにうるさい。
やっとヨーグルトと、お好み焼きと卵とじの忌み子みたいな朝ごはんが並ぶテーブルについた。思ったより人間ぽい生活が始まっている。
冷蔵庫で冷やしておいたはずの水に少しアンモニアの苦味を感じた。
ーコレ、この前トイレがわりにしたペットボトル!!
歯を磨いた直後の口にはキツすぎる。
(木曜日から流しに放置してた大量の)食器を洗ってると、晋太郎が言う。
「ほら、だいぶ立ち直ってきたじゃん。生きてる証拠に、水仕事してんじゃん」 「お前、シンクに水張ったままにするなよ?ゴキブリってのは水によってくるんだからな?幽霊みたいによ」
私は苦笑いする。 そこまで言わなくても……でも、ちょっと安心する。
最後にいよいよお世話になったションペットを潰して放り捨てる。これで望まない飲尿ともおさらばだ晋太郎は何も言わない。ただ、横目で見ている。
「なに?いらなくなったものを捨てたくらいで」
「いや。お前それゴミだよな?なんの躊躇いもなくリビングの方にポーンって」
「……あんなもん、ゴミの日に拾い集めればすむでしょ?」
そう言いつつもゴミ袋をシンクの奥から引き出し、潰したションペットを拾ってゴミ袋に収めた様子を見て、晋太郎がぽつりと言う。
「……でもさ、お前、ちゃんとゴミを片付けてえらいよ」
あっけらかんとした言い方だったけど、なぜか、じんときた。 そう言われたの、久しぶりだった気がする。
洗い物を終えたあと、私はしばらく、床に腰を下ろして動かなかった。 テレビもつけず、スマホも見ない。時間だけが、静かに流れていく。
部屋の中は、洗い終わった食器の匂いと、まだほんのり残るキャベツ炒めの香り。 そして、床に置かれた新しいゴミ袋と色々散乱した…の中でも輝きを放つガジェット──ヴァニティネルとエコー&チェンバーが、存在を主張している。
晋太郎が、背中から覗き込むように言った。
「オマエ、今日どうすんの? 何か予定あんの?」
私は答えなかった。予定なんてない。 でも、“このまま一日を終えていい”とも思えなかった。
窓の外を見る。 土曜日の、遅すぎる朝。洗濯物が風に揺れていて、隣のベランダには人影。 街はもう、始まっている。
そのとき、ふと自分の髪に指を通した。 絡まる。硬い。毛先がはねている。 ……これで人と会いたくはないな、と率直に思った。
だから、私は立ち上がった。
「……美容室、行こうと思う」
晋太郎が少し驚いたように眉を上げる。 でも、すぐに笑った。
「気合い入れるなら今だろ。ほら、朝から歯磨いたし、飯食ったし、今なら人間モードをキープできてるぞ」
私はゆっくりうなずいた。 今なら、まだ間に合う。 少しずつでも、自分を変えてみたいと思える。 何かを始めるなら、今日だ。いや、今日しかない。
私はスマホを手に取り、予約アプリを開いた。 画面に映った「空きあり」の文字をタップする指先が、ほんの少し震えていた。
でも、その震えを止めようとは思わなかった。
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