職場の誰か ― ふれあいの兆しー


会社は駅から徒歩7分。

都内にしては中途半端な立地に、建て増しと改築を繰り返したせいで形がいびつなビル。デジタルイノベイト・システムズマート。

通称DISマート。名前の響きは先進的、実態はよくわからない。

だけど、ここにはちゃんと「席」がある。名前入りのメールアドレスと、無機質な社員証と、朝礼のスケジュール。それだけで「所属している」ことにされている。


いろいろあって全速力で走っての出社になった。オフィスのドアを開けると、微かに空調の風が頬を撫でた。天井の照明は半分しか点いていない。朝8時20分。まだ誰も来ていない。

キーボードを叩く音も、電話も、笑い声もない。しんと静まり返った室内は、まるで無人島のようで、少しだけホッとする。


デスクにバッグを置く。PCを起動する。

モニターの起動画面に、うっすらと自分の顔が映る。


疲れてるな、と一瞬思うけど、もうそれも日常だから驚きはない。


事務机の引き出しから、常備しているカフェインタブレットを取り出す。

味はまずいけど、慣れればただのルーティン。


──エアコンの風が、髪を揺らす。


始業時間まで、あと30分。コーヒーを淹れに行こうか、でも面倒か。

ふと誰かが来たら、無理に笑わないといけないし。今は、もう少しだけ、この静けさに包まれていたい。


「おはよーございまーす!」


ドアの向こうから、やけに元気な声。

反射的に背筋が伸びる。

慌てて画面に目を戻したけど、まだ何も開いていない。


「……あ、天竺さんもう来てたんだ。はやっ」


声の主は、矢吹美晴。

DISマートの開発チームに所属している、いわゆる陽キャ寄りの女性。

いつも清潔感のあるTシャツとデニムで、外向きの笑顔を忘れないタイプ。

でも、その笑顔の奥にちらつく疲れたまつ毛に、私はなぜか目がいってしまう。


「コーヒー淹れるけど、天竺さんも飲む?」


「あ……だいじょうぶです」


「そっか、了解。あたしも今日はあんまり寝てないんだよねー。

スマートファーミングの新機能、リリース前にエラー出ちゃってさ……。

ま、いつものことか!」


明るく言いながら給湯スペースへ向かっていく美晴の背中に、私は少しだけ目を伏せた。

ああいう軽やかな人も、朝からギリギリで立っているんだと思うと、なんだか安心する。

別に話したいわけじゃない。

でも、「自分だけじゃない」と思えるのは、意外と大きい。


数分後、美晴が紙コップ片手に戻ってきたタイミングで、

また別の足音が聞こえた。


「……おはようございます」


静かな低音。抑えめの声。

白いシャツに黒縁メガネ、ネームプレートを確認するまでもなく、佐川晃だった。

AI研究チームの理系出身の研究員。無口で、空気を読んでるのか読んでないのか分からない人。


彼はまっすぐ自分の席に向かい、何事もなかったかのようにPCの電源を入れる。

たぶん、私の存在にも気づいている。でも、声はかけない。

AI研究チームの理系出身の研究員。無口で、空気を読んでるのか読んでないのか分からない人。

会話が苦手なのは、たぶん彼も同じなんだろうなって、何となく思う。

声が震える代わりに、無言を選んでいるような。


美晴が、ちょっとだけいたずらっぽく笑って言う。


「佐川くんって、やっぱ朝は苦手でしょ?」


「……え? あ……まぁ……」


「今日、メガネ逆につけてない?」


「つけてないと思いますけど……」


「うそー。……あ、ちゃんとしてる。残念」


佐川くんは照れたように目線を落とし、何も言わずにファイルをめくる。

彼の表情は読みづらい。でも、耳の先がうっすら赤かった。



──おそらくこのマスカラ疲れと無言セレクターは多分私の知らないところで仲を深め、ある日突然結婚報告の一つもぶちかますか、それすらなく佐川美晴という見慣れない名前が一つ社内に出現し、一番近くにいたのに何も知らない天竺白葵さん(30歳)は「えっなんで? 」と言うしかないのだろう。


──ではなく、


この人たちもまた、たぶん「うまく馴染めていない側」の人間だ。

──みんな、何かを演じている。

明るい人も、静かな人も、無理をして笑ったり、沈黙を守ったりしながら。


こうして会社では、仕事してるふりができる。

首から上を整えれば、まともな人間のふりができる。

でも、恋だけはうまく演じられなかった。というか思春期にして中学高校大学の九年間を共学に通ったのに、なぜか刑務所にいるより異性との接触回数が少なかった気がする。


私の「生きるふり」は、今出会った彼らと、どこかで繋がっている。

ほんの少しだけ、そのことを嬉しいと思った。


ただ、異性について何も知らない天竺白葵さん(26歳)学生時代の友人(女)とは今も疎遠であり、「学生時代はとにかく色々ダメだった」が総括になってしまったことは仕事を始めるまでに忘れてしまいたい。

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