約束は、花火が終わる前に

秋初夏生

前編

 湿った風が、頬をなでる。駅を出た瞬間、鼻をつく甘い香りに、水帆みずほは思わず足を止めた。

 綿菓子、焼きそば、ベビーカステラ。どこか懐かしい、それでいて、今この瞬間にしか味わえない祭りの匂いが、ゆるやかに風に乗って流れてくる。


 人混みの向こうには、ぎっしりと並んだ屋台の灯りが揺れ、浴衣姿の人々が楽しげに行き交っていた。

 小さな子供がりんご飴を両手で抱えて嬉しそうに頬張り、遠くで太鼓たいこの音がドン、ドン、と鳴っている。


「……今年も、来てしもた」


 ぼそっと呟きながら、水帆は祭りの喧騒けんそうへと足を踏み入れた。


 この町には、幼い頃から夏のたびに帰省していた。母の実家があり、昔は祖母に手を引かれながら、この祭りを歩いた記憶がある。

 あの頃は、金魚すくいが楽しくて仕方なかった。輪投げの景品を真剣に選び、ヨーヨー釣りで手をベタベタにしながら、弟と競い合った。


 昔はあんなに広く見えた通りが、今はやけに狭く感じる。無邪気に笑っていた子供たちとすれ違うたび、「俺もああいう時期があったんやな」と妙に遠い目になる。


「……で、今年もこれや」

 視線の先には、見慣れた屋台があった。


 たこ焼きの鉄板の上で、無数の球体がじゅうじゅうと焼けている。金色に色づいた生地の上で、ソースがつやめき、削り節がゆらゆらと踊る。

 その向こうで、器用にたこ焼きを転がしている男--貴志たかしが、ニヤッと笑って手を上げた。


「おう、よう来たな! 水帆、今年も頼むで」


 嫌な予感しかしない。


「いやいや、俺、今年はもう受験生やし!」

「水くさいこと言うなや。去年も同じようなこと言うてたやんか」

「去年と今年はちゃうやろ!」

「何がちゃうん?」


 貴志は笑いながら、たこ焼きを転がし続ける。

 貴志とは、昔からの腐れ縁だ。小さい頃から夏のたびに顔を合わせ、気づけばずっと一緒にいた。


 最初は近所の兄ちゃん的な存在だったが、気づけばタメ口になり、気づけば対等に言い合うようになり、気づけば毎年こうして屋台を手伝わされるようになっていた。


「ほらほら、無駄口叩いとらんと、鉄板の準備や」

「なんで俺、今年もこれやってるんやろ……」


 文句を言いながらも、水帆は鉄板に油を引いた。


 ジュウ、と一瞬で弾ける音。そこに生地を流し込むと、たちまち鉄板の上が黄金色に染まり、香ばしい匂いがふわりと立ち上る。


「ほら、水帆、タコ忘れんときや」

「わかっとるわ」


 手慣れた手つきでタコを落とし、ピックを使ってひっくり返す。我ながら無駄に上達していると水帆は複雑な気持ちになった。祭りの間だけだが、こうやって鉄板の前に立つのが恒例になってしまっている。

 初めて貴志に祭りに誘われた時は……縁日を回ったり、花火を見ながら時間を過ごせると期待していた。

 なのに、振り返れば一度もそんな思い出はない。少しうんざりしながらも、どこか変わらない流れに安心を覚える自分がいた。


貴兄たかにいは何で毎年、これやってるん?」


 何気なく聞くと、貴志はくるくるとたこ焼きを回しながら、少しだけ考え込む素振りを見せた。


「なんでって……そこに鉄板があるから?」

「お前はどっかの登山家か」

「いや、でも実際そんなもんや。昔から家の屋台手伝ってたら、そのままやな。気づいたら、俺の夏=たこ焼きになっとったわ」

「お前はそれでええんか」


 思わず突っ込んだが、貴志はあっけらかんと笑いながら、たこ焼きをくるりと転がしている。


 水帆は思わずため息をついた。貴志と話してると、大概の悩みはどこかにいきそうになる。何を言っても「まあ、なんとかなるやろ」と返ってくるからだ。


 ――こいつは、いつもそうや。


「ほんま、お前とおったら悩むのアホらしなってくるわ」

「お、それめ言葉?」

あきれてんの」


 ドーン。

 遠くで花火が上がる音がした。


 貴志は空を見上げ、少し笑う。


「なんや、今日はよう突っかかるやん。悩んどるんやったら話くらい聞くで?」

「別に悩んでへんけど、俺の夏もたこ焼きで終わるんがちょっとな……」


 ふてくされたように水帆が言うと、貴志は少しだけ手を止めてから、にぃと笑った。


「ほな、片付け終わったら、ええとこ連れてったるわ」


 水帆は怪訝けげんそうに眉を寄せる。


「ええとこ?」

「せやから、今はこっちを頼むわ」


 祭りのざわめきが遠のいていく中、二人はたこ焼きを焼き続ける。

 湖の夜風が、ほんの少しだけ涼しくなった気がした。

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