ミナヅキ

メイルストロム

帰郷

 六月の空は、濁った水に浮かぶ虚無のようだった。

 戦争が終わってからもう、三年になる。しかし私のなかでソレは終わっていない。消えない戦争の影があるのだ。

 記憶に焼き付いた、肉の焦げる匂い。独特な唇のぬめり。人だったナニカの欠片と、その感触。ありとあらゆる記憶が──ふとした時に顔を覗かせる。日常生活の何が引き金になるのか。呼び水になるのか。当の本人にもわからない中、一体何時まで耐えられるだろう。

 それらが顔を覗かせる度に、何かが削り取られていくような気さえするのだ。何が削られているのか解らないのに、何かが削り取られている事だけは知覚出来る。

 ……、……こんな事ならいっそ、気が狂ってしまえば良い。

 そう願う日は、それなりにある。けれど狂えない。狂ってしまったら、帰ってきた意味がなくなってしまう。生き残った幸運を、自ら手放すような真似だけは、したくなかったのだ。


 けれどソレらはゆっくりと、確実に蝕んでくる。

 あれ程望んでいた、幸せな日常がそこにあるのに──その日常の中に、自分の居場所がない。そう感じてしまう。

 だから帰郷しても、心は休まらなかった。それ故、強い疎外感を覚えたものである。

 ──皆は迎え入れてくれたけれど、それは表面的なものにしか見えなかったのだ。

 良くも悪くも、戦場で研ぎ澄まされた────いいや、削ぎ落とされた嗅覚が捉えた。村の奴らの目に、自分がどう映っているのかを。

 ……まずは、誰の目にもわかりやすい同情。

 其処に透けて見える、自分でなくて良かったという安堵。

 貴様らが不甲斐ないせいで国が負けた、という捻れた憤り。


 そんな村にも、たった一人。彼女──りつぇだけは、違った。


「──おかえりなさい、直澄なおずみさん。無事で、良かった」

 最初にかけられたその声には、何の悪意もなかった。ただ真っ直ぐに、言葉の意味を運んできただけなのに──……私は「この身体を見て、無事だって?」と返してしまった。

 困惑する彼女の反応に、当時の私は馬鹿にされているのか? と憤ったのを憶えている。これに対し、彼女はただただ謝罪の言葉を口にした。玄関先で謝り続ける彼女を無碍にしたのは、我ながら酷い話だと思う。


 後に村民から、律姉りつねぇが光を失っていた事を知らされた。

 村の誰もが、その不幸に何も言えず、触れられずにいる事も。

 けれど、律姉りつねぇ自身は違った。喪失を、まるで季節の変わり目みたいに受け入れていたらしい。

 そんな彼女の父親は、小学校の教師だった。そこは田舎の学舎にしては珍しく、図書室がある。律姉りつねぇ幼い頃、図書室に入り浸って本を読んでいた。これが原因かは解らないが、律姉りつねぇの視力は十四の頃に衰えを見せ始めていたらしい。

 当時は弱視の範囲内にあったものの、年月を重ねる毎に悪化していたようだ。彼女の父は自作の点字教本を作り、彼女も父の音読を繰り返して覚えたという。


 律姉りつねぇの母親は、終戦の年に亡くなっていた。軍需工場の女工として酷使された末の病死らしい。律姉りつねぇは親戚に引き取られることを拒んで、父の死後も一人この村に残った。

 その理由は「田圃たんぼを守らなきゃいけないから」というもの。

 この頃にはもう、殆ど目は見えなくなっていそうだ。しかし彼女はどうにかして、田圃の手入れを続け──少量ながらも、米の栽培を続けていた。勿論村民の手は借りていたが、大抵の事は1人でこなせているらしい。


 私が戦場にいた間──その、空白の期間を知った後。私は律姉りつねぇに頭を下げた。

 昔みたいにあっさりと律姉りつねぇは許してくれたが、それが却って苦しい。なにか償いを、と申し出た私に──

「──なら、うちの田植えを手伝ってくれますか?」

 と。ただソレだけを、律姉りつねぇは望んだ。


 

 *

 私の実家の田圃は、酷く荒れていた。親父は死に、母は疎開先で病に倒れ、戻ってこなかったのだ。

 そんな田圃を、耕す気力なんてない。ましてや、片腕で泥に入る気などなかった。

 しかし──律姉りつねぇは、そんな言い訳を一つずつ、静かに崩していく。


 初めは、律姉りつねぇの田圃の手伝いから始まった。

 米作りなど、遠い昔に手伝っただけの私だ。加えて片腕しかない。そんな私にも、律姉りつねぇは根気強く教えてくれた。

 ……律姉りつねぇは一人でここを守って来たのだ。盲目の身体で、手探りで、毎日頑張って来た。

 なら、私が諦めていい理由がない。目は見えるし、両足もある。それに軍上がりだ。体力も気力も、人一倍ある。あの地獄のような日々にくらべれば、米作りくらいやれるはずだ。



 *

「──直澄なおずみさん。私、苗の匂いが好きなんです」

 田植えの最中、なんの前触れもなく律姉りつねぇは口にした。

 裸足を泥に沈め、記憶と残った感覚を頼りに。その手を止めず、言葉を続ける。

「雨上がりの匂いの中に、まだ若い土の声がする。わかりますか?」

 ……。そんなもの、わかるわけがない。そう思った。けれど次の瞬間、私の鼻腔にも──確かに、青く尖った草の匂いが届いた。


 その香りに心地よさを覚えつつ、律姉りつねぇが植えた苗の位置を調整していく。片腕でも、やれないことではなかった。

 ……いいや。やってみれば案外、何とかなるものだと思ったものだ。


「──大きくて、優しい手です」

 泥にまみれた私の手に、同じく泥にまみれた律姉りつねぇの手が重なる。不意にかけられた言葉は、初夏の風に呑まれ消えていた。

律姉りつねぇ……?」

「……っ、ごめんなさい……直澄なおずみさん。もう少しだけ、触れさせてください」

 指の動きが言葉よりも先に、何かを伝えようとしている。私の掌が感じたその熱は、風とは違う温度だった。




 *

 それから連日、私は律姉りつねぇの田圃へ通った。習慣というのは不思議なもので、一度定着してしまえば何の苦もなくなる。

 繰り返されるそれは──何時からから日常の一つになって、在って当たり前になってしまう。

 例えば──泥の感触。鳥の声。律姉りつねぇが口ずさむ、懐かしい童歌。

 これらはもう、あって当たり前になってしまった。


 作業の最中、律姉りつねぇは時々実母のことを語った。

「母は、向日葵ひまわりが好きでした……でも、終戦の夏に、家の畑で咲いた向日葵を見て『ああ、これが最後の花ね』って言ったんです。なんだか、それが忘れられなくて」

 気の利いた言葉の一つも、浮かばない。そんな私はただ、黙って聞くことしかできなかった。

「──田植えが終わったら、また季節が巡ってきますね」

 幾らかの間を挟み、紡がれた言葉。見えない筈の目で、律姉りつねぇは何を見ているのだろう。視線の果てに在る景色を夢想しながら、束の間の休息を終える。

 そうやって、彼女と言葉を交わし、教えを受け。変わらぬ日々を過ごし、繰り返して生きていく。

 そんな慎ましく穏やかな日常が、とても心地よいモノに感じられた。彼女と過ごすこの時間が、永遠に続けばいい。

 いつしか、本気でそう願っていた。そして願わくば、彼女も同じ想いで居て欲しい。



 *

「──直澄さん。私は、ずっとここに居ました。田圃を守る、なんて言っていましたが……本当はここで、ある人の帰りを待っていただけなんです。あの人が帰ってこられる場所を、守りたかった」

 普段と変わらぬ、唐突な独白。彼女の口から紡がれた言葉が、何時か受けた銃弾のように私を抉る。

 ……待っていた。そうか、誰かが誰かを待っていた世界が、まだここにあったのか。

 彼女は、彼女が待っていたのは──きっと、私ではない。

「……律姉りつねぇは、何時まで待つの?」

 問うた声は、自分でも驚くほど弱く、か細かった。


 答えが──風と共に、届く。

直澄なおずみさんは、変なことを聞くのね」

「それは、どういう──……?」


「──貴方は昔からそう。大事な所だけを見落とす人だもの」

 言葉とは裏腹に、彼女の声は弾んでいた。

「それこそ──……わざとじゃないかと疑ってしまう程に」

 律姉りつねぇの手が、私の手を包む。温もりから少し遅れて届いた、土と汗の匂いのなかに、確かな一つの鼓動があった。


「……──おかえりなさい、直澄なおずみさん。私は、貴方の帰りを待っていたの」



 *

 六月の空は、まだ重い。けれど、この雲の向こうにも光がある。

 あの日の翌朝、律姉りつねぇの家の庭先で、向日葵の花が一つ──静かに開いていた。母が生前残した種を、律姉りつねぇが植えていたらしい。


 私がそれを伝えると──律姉りつねぇは、花にそっと指を触れ「母に見せたかったな」と呟いた。

 きっと見えているよ、と伝えると彼女は「そうね」と優しい笑みを浮かべた。


 ──明日はまた、苗を植える。

 失ったものの数よりも、土の中に残せる命を数えるように。


 希望という言葉の意味を──私は今、少しだけ理解できたような気がした。

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ミナヅキ メイルストロム @siranui999

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