36話 私のなにが?わかるっていうの?
【紫安の視点】
アンネリースさんは笑いながら話し続ける。
「ふふふ。でもまさか、ネリが猫を好きだなんて思いもしませんでしたから……。本当にびっくりしたんです」
ボクはさっきまでの会話を頭の中で反芻しながら言う。
「それはびっくりすると思うよ。だってネリの部屋から急に猫が飛び出してきたんだから……。でもその頃のネリ、訓練中だったのにも関わらず寄宿舎に猫を持ち込むなんて……教官が怖く無かったのかな? てか、やっぱネリって昔から変わらないんだ……」
「ええ……。ネリは、ずっと変わらないんです。本当に、なんというか、子供の頃から豪胆で。……でもどこか……弱いものには、優しくて」
「うん。すごく分かるよ」
僕とアンネリースさんはレストランで、笑い合っていた。
いつのまにか料理もデザ―トも終わり、僕たちはコーヒーを飲みながら話を続けていた。
こんな満ち足りた気持ち……久しぶりな気がする。
アンネリースさんはふと思い出したように、話題を変える。
「そういえば……シアンの服を選んでいる時、恥ずかしながら羨ましく思ってしまいました。だって、今のシアンは、私よりも女らしいのだから……」
ボクは自分が着ているブラウスを見ながら答える。
「そんなことアンネリースさんに言われるなんて……。でも恥ずかしいけど、今はなんとなく嬉しく思ってきたかも」
僕は照れながら、でも笑う。
レストランにはボクたち以外の客は居なくなっていた。
アンネリースさんが質問する。
「それでは……シアンは、少し慣れてきたのでしょうか? 女性であることに?」
「うーん。それは、ちょっと微妙な気分かな……。自分が女の子になってるなんてまだ実感が湧かない……。でも、褒められると嬉しいかも? ……複雑なんだ」
アンネリースさんはなぜか言いづらそうに、ボクに聞く。
「……それならまた買いに行きましょうか? 一緒に服を?」
アンネリースさんの笑顔は少し硬かった。
理由は分からなかった。
でも僕にとって、彼女と一緒ならどこだって嬉しい気がした。
だからボクは笑顔でそれに答える。
「うん。次も、一緒に行けたら楽しいと思う」
「そうですか……楽しいですか……。それなら良かったです……」
ホッとしたように笑ったアンネリースさんだったけど、急に真顔になって考え込む。
良く分からないけど、今日のアンネリースさんは表情が頻繁に変わっていた。
そんな彼女は、いつもと雰囲気が違うけど……でも僕は可愛い思った。
一方でアンネリースさんは、握りこぶしを小さく振りながら。自分に言い聞かせるように、続ける。
「次は……更衣室に入ったりはしませんから……安心して下さいね?」
その一瞬、ボクはアンネリースさんが言っているのが何の事か理解できなかった。
でもすぐに、二人で狭い更衣室で着替えをしたことを思い出した。
同時にサロメの一言も蘇る——『だって流石に女同士でも、更衣室に一緒に入って着替えなんてしないわ』
恥ずかしい気持と甘い気持が混ざり合った。
そしてなぜか、胸が少しだけ苦しくなった。
でも同時に、一つの考えがボクの頭の中をよぎる。
——もしかしてアンネリースさんがボクを夕食に誘った理由って、更衣室の一件を謝るためなのかもしれない。
アンネリースさんみたいな女神級の美女が、ボクに恋愛的な感情を抱いてるとかは、やっぱり想像しにくいし……『ボクに謝罪する為の夕食』と考えると……全ての辻褄が合うような気がした。
だからボクは、目の前で不安げな表情をしているアンネリースさんに対して、申し訳なく思った。
だって、アンネリースさんに悪いところなんて一つも無いんだから……。
それにあんなに、”すごいおっぱい”……じゃ無くて、”良い匂いの美女”と狭い部屋に入るなんて……童貞の自分としては、『最高のシチュエーション』以外の何物でも無かった。
だからボクは、その気持ちをアンネリースさんに伝える。
もちろん、女の子の身体のまま、嘘偽り無く……。
「一緒に着替えるのは、最初はちょっとビックリしたけど……でも、嫌じゃ無かったよ。だって……アンネリースさんがボクのことを心配してくれていたのは分かっていたし。だから、次に一緒に服を買いに行った時も、更衣室で着替えさせてもらったら……ちょっと嬉しく感じるかもしれない」
かなり恥ずかしかったので、ボクは少し顔を伏せてしまった。
なぜか沈黙があった。
ボクは意味も無く、テーブルを見続ける。
数秒間アンネリースさんの返事を待ったけど、何も無かった。
どうしたんだ? アンネリースさん? もしかして、ボクの話が長すぎて……寝た?
そう思って顔を上げて、びっくりした。
なぜならアンネリースさんの大きな眼がいつもよりさらに大きく見開かれて、無表情のまま、完全に停止していたからだ。
もちろん停止した彼女もめっちゃ美人だったので、ボクは『アンネリースさんが遂にまじで女神像になってしまった』と、普通に心配した。
おそるおそる声をかける。
「ア、アンネリース……さん?」
「は、はいっ!」
と規律正しく返事した彼女は、少し我に返る。
ボクはふたたび声を掛ける。
「ど、どうしたの? アンネリースさん……?」
アンネリースさんの顔は赤かった。
「い、いえ。すみません。あまりの衝撃に言葉を失ってしまいました……」
『衝撃』……? なんの??
アンネリースさんの表情は、笑顔か真顔か分からない曖昧な表情をしていた。
しかも、かなり恥ずかしそうだ。
とにかく、本当に今日の彼女の表情は、多彩だった。……まあ、相変わらず、その意味はよくわからないけれど。
ともかくアンネリースさんは、続ける。
「ありがとう。シアン。嬉しいです……」
「嬉しい」……? いや、でも変では無いのか……?
言葉を返す。
「いえ。ボクの方こそ……嬉しかったです」
それを聞いたアンネリースさんは、肩をびくっと震わせた。
それを見たボクも、肩を揺らしてビックリしてしまった。
え? なんなんだ一体? ボクそんな凄いこと言ったのか? ていうか、「一緒に更衣室に入れて嬉しい」とか……ワンチャン、犯罪者の発想だけど?
ボクの混乱を他所に、アンネリースさんはとても嬉しそうな表情になった。
その笑顔は、ホッとしたような……あるいは何か大切な物を見つけたような笑顔だった。
花すら嫉妬するほど魅力的な笑顔で、アンネリースさんは言う。
「ありがとうシアン。私、本当に嬉しいんです」
その潤んだ目には、涙すら浮かんでいるように見えた。
【アンネリースの視点】
気付いた時には遅かった。
“彼女”の唇はどこまでも柔らかく、甘く、稲妻のように全身を貫く快感に、私は後悔すらした。
レストランから帰りの路地裏で、私はシアンの唇を奪ってしまった。
愚かなことに、私は“彼女”と唇を合わせた瞬間に『奪ってしまった』と気付いた。
何杯か呑んだワインのせいかもしれない……。だが、どこか冷静な自分も居て……その事で自責の念がさらに深まった。
しかしそれでも私は止まることができず、彼女の胸に自分の胸を押し当て続けた。
シアンの体はどこまでも繊細で、私の腕の中で壊れそうだった。だから私は彼女をさらに抱きしめる。
シアンの息が漏れる。
張り裂けそうな愛しい気持ちが、彼女の名前になり、口を突いて出た。
「シアンっ……」
シアンは大きく息継ぎながら、声をあげる。
「ア、アンネリースさ……ん?」
彼の紫の澄んだ瞳は、驚愕の色に滲んでいた。
思わず言ってしまう。
「ごめんなさい……」
シアンは呟くように言う。
「……どうして?」
しかし彼女の唇は、僅かに開いたままだった。
濡れたそれは、
見開かれた彼女の大きな瞳は明らかに濡れていて、水色に強く艶めいた。
歯止めが効かなくなった。
シアンを路地の壁に押し付ける。二人の荒れた息を絡ませながら、もう一度唇を合わせる。
「んぁっ」
彼女の悲鳴が漏れて、それは嬌声にも聞こえた。
シアンの甘い味に、胸が切り裂かれそうに痛む。
目から涙が溢れたことにも気付かず、私は彼女の唇をさらに貪った。
彼女のスカートの間に、自分の脚を差し入れようとする。
だから、唇が少し離れた。
シアンの声が荒れた息の中に浮かぶ。
「ア、アンネリースさん……」
シアンの額と自分の額を触れさせたまま、私は何かに懺悔をする。
「ごめんなさい……」
大写しになったシアンの紫の瞳は、それでも澄んでいる。
「ううん……」
私は告解する。
「どうしても……私、シアンが……」
シアンの瞳が大きく揺れた。
「ううん。分かったよ」
彼女の瞳が、今にも割れそうに震える。
私は嗚咽するように言葉を漏らす。
「あ、あなたに……私のなにが? わかるっていうの?」
「そうじゃない……」
「『そうじゃない』? 何が?」
「そうじゃなくて……ボクの気持ちが、分かったんだ」
「シアンの気持ち……」
思わず、彼女の身体をさらにきつく抱きしめた。
二人の胸が潰れる。彼女の儚い太ももに、私の膝が当たった。
私は、その話の先を聞きたくないと思った。
私は、その話の先が怖いと思った。
なぜなら、どちらにしろ……自分が壊れそうだったから。
しかしシアンは、言ってしまう。
私の全てを貫く『槍よりも鋭い一撃』を、言ってしまう。
「ビックリしたけど……ボク嬉しかった……。だから、ボクこのままで居たいって、思っちゃったんだ。……ずっと続けば良いなって、思っちゃったんだ」
シアンの紫の瞳が、磨かれた宝石のように白く反射した。
その瞬間、たしかにガラスが割れたような音がした。
その高音は、私の身体を裂くように貫き、同時にその痛みを、甘さで上書きした。
―—そして私は、この時のことを後で何度も思い出すことになった。
この時の胸の痛みは切実で、思い出すたびに強度が増した。
しかし私は、それを辞める事が出来なかった。
なぜなら……それを上回るほどの衝撃が、この後の私を襲ったからだった。
私は『槍よりも鋭い一撃』により、思考が完全に停止した。
その一瞬の沈黙は、果てしなく長かった。
それをシアンの呟きが破った。
「……もしかして……詩歌……?」
シアンの全身の筋肉のこわばりが伝わった。
異常な違和感を感じた私は、思わず彼女を見た。
シアンの視点はゆっくりと横に移動していた。
私は思わず、その視線の先を、追う。
その先には、暗い路地を走る、一人の女性の姿があった。
「どうしたの……? シアン……」
私の言葉に、シアンは全く反応しなかった。
その代わりにシアンは大きな声で叫んだ。
その叫びは、断末魔の叫びのように私には聞こえた。
「詩歌ァァァァッ!!」
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